前編
その魔術師は、逃亡の果てに山中の洞窟へ逃げ込んだ。
耳を澄ませば、何頭もの犬の吠え声と、人間の怒声が聞こえる。彼を探しているのだ。間一髪で彼は洞窟の奥に潜り込み、地べたに溜まっていた泥をめちゃくちゃに体に塗りつけた。息を殺して外のようすを窺った。
犬は洞窟のすぐ側まで迫っていたが、中に入ってくることはなかった。やがて彼らの声は遠ざかっていった。魔術師は長い溜息をつき、寝転がった。
助かった。しばらくは、追いかけられることもあるまい。それに、休むのにちょうどいい場所も見つけることができた。
逃亡生活の中で魔術師が持ち運べたのはわずかだった。衣服と、水を詰める竹の筒。それも、今はほとんど空だ。魔法の杖も、護身の為の剣もない。この先追っ手から逃げおおせて人間の街に下りてきたとしても、一日もまともな暮らしはできないだろう。
それでも彼はまだ絶望していなかった。洞窟の岩肌の水滴を舐め、喉を通る清々しい感覚に微笑みを浮かべた。狭い洞窟の中でよろめきながら立ち上がり、奥に何があるか見に行った。夜のように暗いから、魔法で手のひらに明かりを灯した。彼は、自分にはまだ十分に魔法を使える余裕があること、他に何がなくとも魔法さえあればいくらでも形勢逆転できることを知っているのだ。
この洞窟は獣の臭いがきつい。犬が去って行ったのも、獣の気配に臆したせいかもしれない。魔術師は身構えていたが、未知の獣を侮ってもいた。いざとなったら、手中の火を鼻先にぶつけてやればいい。獣など簡単に追い払うことができる。
逃げている最中に挫いた足を引きずりながら、魔術師は洞窟の中を進んでいく。かすかな物音がして、はたと足を止めた。衣が擦れるような柔らかい音だった。
「誰だ」
魔術師はかすれた声で呼びかけた。音が止まった。そこにいるのは、人間か魔物か、それとも獣か。火を目の前にかざし、魔術師は目をすがめた。
そこにいる者も、こちらの出方を待っているようだった。魔術師は一歩前に踏み出した。うろたえる気配がした。何となく優位に立った気がして、彼は再び居丈高に呼ばわった。
「そこにいる奴、出てこい!」
それから彼は待った。獣臭さは相変わらず強く奥から漂ってくる。それに混じって、鉄のようなひどい臭いもした。
(これは……)
眉をしかめた時、ひたひたと足音がして、奥にいた者が姿を現した。
それは、若い女だった。
警戒していた魔術師は、虚をつかれてしばし立ち尽くした。この隙に襲われていてもおかしくはない。だが、彼女は何もしない。ただ、魔術師の前に出てきて、黙っていた。
お世辞にも美人とは言えないが、愛嬌のある顔立ちの女だった。頬いっぱいにそばかすが浮いていた。琥珀色の瞳はいきいきと動き、魔術師を観察した。着ている衣はところどころ破れていたが、上等な布地を使っているようだった。右手首に、金色の腕輪をはめていた。
魔術師は最初の驚きからさめると、彼女に尋ねた。
「あなたはここに住んでいるのか?」
女はうなずいた。
「一人で?」
またうなずいた。魔術師に反問しようとはしなかった。
「名前は?」
女は首を傾げた。まだ警戒されているのかもしれない。魔術師は油断なく相手を見据えながら、膝をつき両手を頭の横で広げた。
「ずかずかと上がり込んですまない。私は魔術師だ。足に怪我をしているので、しばらくここで休ませてほしい。良いだろうか?」
名前を明かさなかったのは、相手も名乗らなかったからだ。だが、彼は自分が追われていることは敢えて隠した。
女は無言のまま魔術師に近づき、彼の手に口づけした。魔術師は驚いたが、彼女の気分を害さないよう黙っていた。彼女の舌が動くたび、むずむずした。それから彼女は魔術師の白い髪の毛を優しく撫でた。やがて彼女は立ち上がって、ついてこいと言わんばかりに手で合図した。ひょっとしたら口がきけないのかもしれない。だが、悪い人間ではなさそうだと思った。
女が魔術師を連れてきたのは、草や木の葉が敷き詰められた穴ぐらだった。腰を下ろすとふかふかして居心地が良い。女は魔術師を残して洞窟を出て行き、しばらく経ってから戻ってきた。手に山ほど木の実やきのこを抱えて。
女は魔術師が灯した火を見てたじろいだが、魔術師が手招きするとためらいながら側に寄ってきた。火を恐れているようだったので、魔術師はじきに消した。視界は真っ暗になったが、持ってきてくれた食物を食べる分には困らない。
魔術師の腫れ上がった足首にひんやりとした感触が走り、彼は声を上げた。女が身じろぎする気配がした。彼女は魔術師のすぐ近く__本当にすぐ側にいた。彼女の息遣いと温もりを感じているうちに、足の痛みはひいていった。
何日もその洞窟で暮らすうちに、魔術師と彼女はますます親密になっていった。彼は自分の過去や追われる理由を全て話した。もし捕まったら破滅が待ち構えていること、まだまだ自分は自由の身でいたいこと。女は相変わらず一言も口をきかなかったが、体の全てを使って意思表示した。彼女が嫌がるので、魔術師は火の魔法を使わなくなった。獣のように生活することに彼は慣れ、洞窟から出て行くのをやめようかと考え始めた。
しかし、追っ手は彼のことを忘れていなかった。
魔術師は洞窟に閉じこもっていて何も知らなかったが、追っ手は山の中をくまなく捜索し、やはりあの洞窟が怪しいという結論に達した。犬が怯える為、一度は中に入るのを中止したが、今度は腕利きの魔術師を向かわせた。その男は、魔術師同士の争いから洞窟にいる彼を深く恨んでいた。
洞窟を目指して突き進む男たちの列を、女は木の上から見ていた。彼らの話から、洞窟に彼らが着いたらどのような悲劇が起きるか、容易に想像がつく。