第四話
クレアは、現実逃避をしながら馬車に揺られていたが、少女の指示通りに到着した目の前に広がる大公家の屋敷をみて、その現実を受け入れざるをえなかった。少年の表情に疲労は伺えたが、顔色も悪化する事はなかった事もあり、ただただその現実に震えあがっていた。
「お洋服も早く着替えないと。どうか上がっていってください」
「い、いえ!ほんっっとうに結構ですので!」
「そのままでは風邪をひいてしまいますわ」
「身体が丈夫なのが取り柄ですので!」
到着早々少女の指示により、少年は門まで走ってきた執事に抱えられて屋敷の中へ運ばれていった。クレアは馬車から降りることなく別れる事ができることを不幸中の幸いに思ったが、結局こうして少女に引き止められてしまった。
クレアの汚れてボロボロな姿に申し訳なさそうに眉を寄せて、屋敷へ寄っていくよう懇願する少女。何が何でも降りたくないと引き下がるクレア。その二人を交互に瞳に映し、レイニーはどちらの気持ちもわかるのか、何も言えずにあわあわと見つめている。
「それでも、もしもがありますから!うちの医師は優秀ですのよ」
「そのお医者様に!このような姿を見られたくないのです!!!」
ひと際大きな声が、クレアの口から零れた。
その瞬間、馬車の中の温度が少し下がったような気がしたが、そんなことよりもどうにかして断らねばと目が回った。ただの平民の格好をしているだけならまだしも、泥と水でぐちゃぐちゃで、髪も指が通らない程絡まっているこの汚い状態で、憧れとして記憶に焼き付いているあの美しい御方の瞳に映るなんて死んでも嫌だとクレアは必死だった。水にぬれて顔色が悪くても美しさを放つ双子の瞳に映るのも、馬車から逃げ出したいほどに恥ずかしくて仕方がなかったのに、これ以上の辱めは勘弁願いたい。
「……お兄様のことご存じなのですね」
「知っているに決まっているでしょう!あんな顔も頭も性格も良い御方!!」
何度見かけても呼吸も視線も奪われるあの美しさ、それに加えてあの才能に、心の広さだ。知らないという方がおかしいと、クレアは心の中で叫んだ。
「お兄様の性格をご存じなのですか?」
「お、お話した事はございませんが、今まで誰も成しえなかった人を救うための素晴らしい技術と知識を身に着ける程に努力された御方なのに、それをどれだけ侮辱されても嫌な顔せず受け流すあの御方の性格が悪いわけがないではありませんか!」
クレアの早口に、少女は圧倒されるようにその大きな瞳を零してしまいそうなほど見開いた。
「お願いいたします。美しいものは愛でたいのです。貴方のお兄様に色目遣おうとか思っているわけではなく!あの美しい瞳に、自分が映ることが耐えられないのです!!今美しい貴方の瞳に自分が映っていることも泣き出したいほどにつらいのです!!」
ミサの時のように、両手を握り合わせて頭を下げる。すると、少女からは少し不満の混じった吐息が漏れた。
「では、せめてお名前を伺えませんか?」
その言葉に、クレアはきゅっと唇を絞り、視線を遠くへ逸らす。
「ただの平民ですので、名乗る程のものでは」
「先ほど、こちらの方が「お嬢様」と呼んでいらっしゃいました」
「……」
ちらりとレイニーに目をやる。レイニーは「やってしまった」と天を仰いで目をギュッとつむっていた。
人がいる時は、小説家の名義として使っているオルレアの名で呼ぶ事にしていたが、湖での一件で普段の呼び名がでてしまっていたのだろう。クレアは、これについてはしかたがないと思った。
「他にも、所作が平民ではないですし、そもそも馬車を湖まで寄せるという発想が平民ならおかしいです」
「……お互い平民のふりをして出かけていたようですし、今回は互いの身分を知らない方がよろしいかと」
「わたくしたちの家門は知ったのにですか?」
「いえ、いえ……はっきりとお聞きしたわけではございませんので」
「あっご挨拶が遅れてもうしわけ」
「聞こえません。何も、聞こえません」
正式に挨拶をされそうになり、クレアは耳をふさぐ。少女はぷくりとその柔らかそうな頬を膨らませた。
「わかりました。では、もし次に『平民』として出会ったら、その時は平民同士ですから仲良くしてくださいね」
腑に落ちないと顔に書いてありながらも、少女は微笑んでから馬車を降りた。そして、確実にクレアの方の身分が低いともうわかっているだろうに、その小さな頭を深く下げた。
「また、お会いしましょう」
白い頬を薄桃色に染めて、少女は見惚れてしまう程にきれいな所作でクレアの馬車を見送った。
「レイニー」
動き出した馬車の中、クレアの震えた声が沈黙を破る。
「はい」
「人の記憶を消す方法ってないかしら」
「残念ながら聞いたことがありません」
長年共に過ごしただけあって、二人のため息は同じ重さで重なる。互いの手が震えているところをちらりと見ると、心臓も早鐘を打っている事だろうとお互いを気遣った。
「まあ、幸いカヌレ大公夫妻は各国飛び回っているし、子爵なんて把握してないでしょう」
「お嬢様、私、カヌレ大公家の噂をいくつか聞いたことがございまして」
蒼い顔でクレアを見つめるレイニー。嫌な予感がしながらも、クレアはその先の言葉を促した。
「カヌレ大公家はご長女の頭脳がとびぬけてよろしく、外交で各国を飛び回るご両親に代わり、領地内の実権はご令嬢にあると……」
「え、いえ、や、だってまだ幼かったよ」
思わず家での言葉が抜け、平民同士の会話のような口調になるクレア。先ほどの少女を思い返しても、せいぜい八、九歳だった。十を越していると見る人は絶対にいないだろう。兄が留学し、両親が各国を飛び回っているにしても、クレアの実家であるクッキー子爵家が所有するよりも広い大公家の領地を管理するには無理がある年齢だと思った。
「お嬢様の六つ下のはずです」
「まだデビュタントも迎えていないじゃない」
そうは答えながらも、想像していたより少女たちの年齢が高かった事にクレアは驚いた。十八歳であるクレアの六つ下だと考えると十二歳だ。兄であるソテルの身長を思い返して、あの双子は小さすぎるように感じた。
「それほどの頭脳の持ち主なんだとか。デビュタント前なのに、皇帝陛下にも頻繁にお会いしていて高位貴族からやっかみを買う程みたいですよ。ご長男はお医者様を生業とし、ご次男は体が弱いため、大公家を継ぐのはご令嬢との噂です」
「それって……」
重い沈黙が流れ、どうにか心を落ち着けようと、二人は無言のまま手を重ねた。
「わ、悪い事はしておりません、し」
「そ、そうよ。ただ平民として湖に遊びに行っただけで」
「でももし、お嬢様を探されてしまえば、大公家程の情報網ですと、本を執筆しているところまでたどり着かれてしまうかもしれません」
「い、いえ、大丈夫よ。名義は違うし……」
「湖の一番近くの村で聞かれてしまえば、お嬢様の瞳は印象的ですし、よく出入りするから出版社もわかってしまうかも……」
そんなことがあれば、平民と偽って本を書いている事もあり、クレアは小説家としても、貴族としても一貫の終わりだった。
二人はしばらく何も言えないまま、窓を見つめる。奇しくも夕日がかった空は、クレアの目に焼き付いたソテルの瞳を思い返させた。