第三話
「わぁ、綺麗ね。レイニー、水辺へもっと近づきましょう」
パーティーから数日空け、コルセットで絞められた時にできたクレアの痣が消えた頃。働きに出ていて誰もいないレイニーの実家で彼女の姉のお下がりの服に身を包むと、二人はクレアの執筆活動のために領地内の湖に来ていた。
帰宅時は街で馬車を借りるからと帰した事で、クレアがあたりを見渡してもレイニーしかいない。堂々と執筆ができると自然に緩む頬で、クレアは水辺近くの大きな木を背もたれにして腰を下ろした。
「お嬢様、敷物を」
「敷物はひかずにそのまま座るものだって、教えてくれたのはレイニーでしょう」
草の上にそのまま座る事を注意するレイニーに、クレアは上機嫌で答える。レイニーは少し悩みながらも、もう慣れたのか、最初の頃のように泣きそうな顔で慌てずに、肩を落とすだけだった。
「この湖が、二巻目の舞台になるのですか?」
「えぇ。再会した二人は湖で逢瀬を繰り返し、最後は空と水面に映る月と星だけの世界で……」
「月が見える時間帯の取材はだめですからね」
「ちぇー」
「また!その言葉は誰から教わったのですか!」
「以前お菓子を買ってもらえなかった男の子が言っていたわ」
頭が痛そうに手をやりながら、レイニーは小言を続ける。そんなやり取りもクレアは楽しく感じて、レイニーと会話を続けながら、湖の情景をクレアの目線で言語化していった。
草の香りは青々しく、お腹が膨らむほどに息を吸いたくなること。
土は冷たくて、水辺に近づく程、触れた形に簡単に変わってしまうこと。
葉の青いこの季節だと、風が吹けばかさかさとした葉のかすれる音ではなく、もっと柔らかな……
感じたことをそのままメモに取っていれば、穏やかに感じていた時間をぶち壊すような、激しい水音が耳に届いた。クレアが伏せていた瞼を上げれば、湖にしぶきが上がっている。
「お嬢様、見てまいりますのでこちらに」
「だめ!人がおぼれているわ!」
クレアよりも先に湖へ近づこうとしていたレイニーの胸に、クレアはペンと紙を押し付けて、瞬発的に湖へ駆け寄った。耳にはレイニーの制止の声が聞こえる。しかしその声を聞くよりも、しぶきの中で必死に助けを求めるかのようにばたつく腕があまりに小さな事に気づいてしまったクレアは、目の前で起こっている事をどうにかしなくてはと、湖に足を踏み入れていた。
「グレイ!グレイ!暴れちゃダメ!!力を抜くの!私を信じて!」
クレアの場所からは木で見えなかったすぐ近くから、幼い少女の声が聞こえる。その声がおぼれている相手にも聞こえたのか、しぶきが少し収まった。そのすきにクレアはその小さな腕を精一杯引っ張る。幸い、溺れていたところは、ブーツを履いているクレアの足がなんとか届く程度には浅瀬だった。しかし、小さな腕に触れた事で、腕の主である十歳に満たないほどの小柄な少年の身長では、足が届かなかった事が分かった。
「お嬢様!!」
「私よりも、彼に!」
引きずるように少年を水際まで引っ張ったクレアは、その膝をついたまま、レイニーから自分へかけられたタオルを隣で同じく膝をついたまま咳をする少年にかける。その少年と同じくらいの身長の少女が泣きながら駆け寄り、背をさすった。少年の手には、高級そうなハンカチがきつく握られており、クレアはそれを取るために湖に落ちたのだと推測した。
少しずつ少年の呼吸が安定してくるまで、その少女も含めた三人は心配を映した顔のまま、静かに彼を見守る。
「ごめ、なさ」
「いいえ。無事でよかった」
まだ少し乱れた呼吸の中で、少年はクレアの手を握り、絞り出す。こんな状況でも、最初に発するのが助けた自分への謝罪というところに、クレアは彼に幼いながらも人の好さを感じた。
「レイニー、馬車を近くまで呼んできて。冷えてしまう前にこの子達を自宅か医者のところへ送り届けましょう」
「しかし、お嬢様」
「私が何年も風邪すらひいていないの知っているでしょう?それに、今のこの姿を見たって、誰も誘拐しようなんて思う人いないわよ」
クレアはレイニーを安心させるために微笑む。それでもレイニーは表情を緩めずに、泣きそうな顔で「すぐに呼んでまいります」と言い残して、馬車を置いてきた方へ駆けて行った。
「水、全部吐けたかしら……ごめんなさいね、あまりこういった知識がなくて」
「い、え……はぁ、もう少しで、落ち着けそう、なの、で」
うつむいたままの少年は、先ほどよりも呼吸は安定しているが、まだ話すのは難しそうだ。話しかけてしまって申し訳なかったと反省し、クレアは彼の後ろにいる少女へ視線を映した。
「あなたも怖かったでしょう?大丈夫?」
まだ少年の背をさすり続ける少女に、そう声をかける。すると、その少女は大粒の涙を零しながら、顔を上げてクレアを見つめた。
そのあまりの美しさに、クレアは息を止める。
真っ白な真珠のような艶を持った肌と、光を放つそのブロンドの髪だけでも、クレアはきれいな子を想像していたが、それ以上に、整った小さな鼻に加え、透き通った薄い葵色の瞳を涙でにじませるその少女は、幼いながらにすでに完成されている美しさを放っていた。大粒の雫は、ガラス玉よりも眩い光を放っていて、まるで宝石が零れ落ちているかのようだとクレアは思った。そんなクレアを目に映したまま、少女は震えた唇でへの字を描く。その唇はうっすらとした桃色で、その主張のしない色づきは、彼女の整った容姿を際立たせていた。
「あ、あり……がっ」
動きを止めるクレアをよそに、その子はしゃくりあげながら必死に言葉を紡ぐ。クレアは、少女を安心させてあげたいという思いと同じくらい、その美しい少女に触れてもいいのかという不思議な罪悪感を抱いた。葛藤をしながら、ブリキのおもちゃのようなぎこちない手つきでクレアはやっとの思いで彼女を抱きしめる。
「も、もう、大丈夫、よ」
声がひっくり返り、クレアは自分が面食いであることを再確認した。そんなクレアのひっくり返った声を聞いて、クレアが少女に触れる瞬間にぴくりと反応した少年は、まだ顔色の悪い顔を上げる。
そのあまりの美しさに、クレアはまたもや息を止めた。
湖に入った際も浅瀬だったおかげで、息がたいして乱れる事はなかったのに、少年と少女のその鏡のようにそっくりな美しさを前にして、クレアは過呼吸になりそうだった。
自分の辛さよりも少女の泣き顔に不安そうな少年をみて、クレアはギギギと効果音の聞こえそうな動きで腕を広げる。すると、蒼い顔をした少年は、彼女をギュッと包み込んだ。クレアの腕の中で、美しい恐らく双子である少年と少女が抱き合う光景に、クレアは魂が抜けたかのように表情から力が抜け、ただその絵画のような光景を見つめる事しかできなかった。
「助けていただいた上、申し訳ないのですが」
しばらくその大きな瞳から宝石を零していた少女は、すんすんと鼻を鳴らしてクレアを真っすぐと見つめる。
「はひ」
「この子は心臓が弱いので、どうか家へ真っすぐ送っていただけませんか」
「も、もちろん!」
クレアが見たところ、二人は平民のような服を着ている。しかし、髪の艶が平民のそれとは違う気がした。
(私と同じで、お忍びみたいな?)
護衛もつけずに子供だけで外に出ていて、馬車もないとなると、男爵……あるいは子爵くらいかと、目星をつける。脳裏でちらつく理想を具現化したような容姿の大公家長男がなぜか気になるが、まさかまさかそんなわけ……そういえば双子の弟君と妹君がいらっしゃ……いやいやまさか。
クレアは必死に嫌な予感を振り払ったが、認めたくはないだけで、もうこの時には答えが出ていた。