前編
〝今までありがとうな〟
スマートフォンにそんなメッセージが届いたのを見て、琴葉はふうっと息を吐いた。
「終わっちゃったか……」
たった今この瞬間から、恋人ではなくなった要の顔を思い浮かべ、しかしすぐに掻き消す。
外は暗いがカーテンを閉めることさえ億劫で、琴葉はベッドの上に転がるとピッと電気を消した。
元彼となった男は高校の時の部活の先輩で、入部した当初から琴葉は恋心を抱いていた。
大学まで追いかけて告白し、付き合い始めたのはよかったのだが、いつの頃からかすれ違いが多くなって今に至るというわけだ。
円満の別れということもあり、そこまで悲しくはなかった。こんなものか、という不思議な気持ち。
それでも寝転んだままぼうっと窓から空を見ていると、どこかポッカリと心に穴が空いているような感じは拭えなかった。
誰かに話を聞いて欲しいような気もするし、何も聞かずにいて欲しい気もする。
これは人恋しいだけだと気づいた琴葉は、一人苦笑いをした。こんなとき、電話を掛ける相手がいないことに気づいて。
「誰か、電話でもしてくれないかな……」
そう呟いた瞬間、琴葉のスマートフォンが暗闇を照らし鳴り始める。
あまりのタイミングの良さに驚いて画面を見ると、そこには〝天ヶ瀬翔琉〟の文字が並んでいた。高校時代の部活の後輩だ。
その名前を見た瞬間、琴葉の胸はドクンと鳴る。
え、なんで天ヶ瀬が?
高校を卒業して既に三年以上経っている。その間、連絡を取ったことはなかったのに、まさかこんなタイミングで。
琴葉はドキドキしながら、指でシュッと応答のフリックをした。
「も、もしもし」
『あ、琴葉先輩! すんません、今アドレスの整理してたら、間違って押しちゃって』
電話の向こう側で、懐かしい声がした。
ひとつ下の翔琉は、後輩の中でも一番印象深い人物だ。
なにせ琴葉は高校時代、彼に告白をされているのだから。その頃は要が好きだったので、『嬉しいけど、ごめんね』と断ってしまっていたが。
「そっかそっか、いきなり電話がきたから、びっくりしちゃったよ。元気にしてた?」
『元気っすよ! 琴葉先輩は声に元気がないけど、大丈夫ですか?』
「……え?」
元気がないような声を出したつもりはなかったが、なんだか見透かされているようでドキンとする。
「そんなこと、ないよ?」
「なら良かったです! 夜分に電話しちゃって、すみませんでした! じゃあ、おやすみなさい!」
「う、うん、おやすみ……」
ぷつりと通話が切れて、また静寂と暗闇が訪れた。だけどポッカリと空いていた心だけは、幾分か満たされている。
「天ヶ瀬、昔と変わってなさそう」
表示のなくなった画面を見ながら、琴葉はくすりと笑った。
翔琉に告白されたのは、琴葉が高校三年の頃のこと。結局はお断りしたのだが、翔琉のまっすぐ伝えてくれた言葉と瞳は、今も強く印象に残っている。
告白されるのなんて実は初めてだったし、嬉しくないと言えば嘘になるだろう。あの告白のおかげで琴葉は自信がつき、大学では要に告白することができたのだから。
そういう意味でも、琴葉は翔琉に感謝している。
「今頃は天ヶ瀬も、彼女いるんだろうな」
琴葉はふっと目を瞑って翔琉を思い出した。いつもニコニコ元気印。明るい茶色に染められた髪に、整った顔立ち。
よく笑って、子どもみたいにふざけて、年上には怒られつつも可愛がられ、同い年の友達は多く、年下には慕われていた、不思議な男の子。
おそらく、みんな翔琉ことが好きだった。そんな翔琉に慕われ告白されたことを、誇りにすら感じていた。
琴葉はそんな高校時代の記憶を掘り起こし、先ほどまで恋人だった男のことを忘れて、眠りにつくことができたのだった。
***
大学を卒業すると、琴葉は小さな会社に就職した。そこで恋人ができることもなく、四年目を迎えている。
「琴葉ー、部長が呼んでるよ。なにやらかしたの?」
「えっ」
「今日の琴葉の仕事、代わってやれって言われたよ。どっかに土下座行脚しなきゃいけないんじゃないの?」
「ひいっ」
同期の友人に脅されるように言われた琴葉は、広いデスクにどっしりと座っている部長方へ目を向けた。
「な、なんにもした覚えないけどなぁ……」
「頑張ってこーい!」
「うう……」
まとめていた資料を同期に託して、おずおずと部長のところに向かう。
この大地ファミリーという会社はアットホームではあるけれど、だからこそミスをして損害を出したり迷惑をかけるのはつらい。
「あの、部長、お呼びでしょうか……」
「ああ、ちょっとエフリープランツに応援に行ってやってくれんか?」
「エフリープランツ株式会社に?」
エフリープランツ株式会社は琴葉の働く会社の元請だが、社長同士が友人らしく、大きなイベントごとがあるとお互いにヘルプを出したりしている。持ちつ持たれつな、良好関係を築いている会社だ。
とりあえずはなにかミスをしたわけではなさそうだと琴葉はほっとした。
「私でいいなら喜んで行かせてもらいますが、私、ヘルプに行ったことがなくて……大丈夫でしょうか」
「先に進藤くんが行っているから大丈夫だ。人手が足らずにてんやわんしているらしいから、とにかくすぐに行ってきてくれ」
「は、はい!」
琴葉は大急ぎで支度をして、エフリープランツ株式会社のプロデュースするイベント会場へと急いだ。タクシーの中で資料を読み漁り、内容を把握しておく。
会場は想像以上に人でごった返していて、まさに戦場だった。
「あの、大地ファミリーからの応援で派遣された風鳴です。なにかお手伝いできることはありませんか?!」
先に行った進藤がどこにいるのかわからなかったので、琴葉はスタッフらしき一人に話しかけた。振り返ったその人は──
「え、琴葉先輩?」
「あ、天ヶ瀬?!」
高校時代の後輩、天ヶ瀬翔琉──その人だった。
「えー、あーーっと、とりあえずこのスタッフの腕章をつけてもらって、あっちに進藤さんがいるので、そこで一緒に作業してもらいます!」
「わかりました!」
スーツ姿の翔琉に驚きながらも、琴葉は進藤と合流して裏方業務を手伝った。
翔琉はあちこちと駆け回って指示を出しているようで、それなりの立場なのだろうかと目を見張る。
「あの子、若いのにこのイベントの責任者らしいよ。来場者の目算を誤ったみたいでバタバタしているけど、中々のやり手だねぇ」
先輩である進藤は、翔琉のことをそう評価しながら作業を進めている。
天ヶ瀬、仕事頑張ってるんだな。私も微力だけど、お手伝いさせてもらおう!
高校の頃の後輩が頑張っているのだ。琴葉も応援したいと、与えられた仕事を一生懸命に進めた。
そしてイベントが終わって片付けを終えた頃には、午後七時をとうに回っていた。
最後に翔琉が皆を集めて締めの挨拶している。
「皆さんのおかげで、無事イベントを終わらせることができました。朝から作業をしてくれた皆さん、お疲れ様でした! 応援に来てくれた方々も、本当にありがとうございます! この後は鳥料理と地酒の末広さんで打ち上げがありますので、どうぞ皆さんお越しください。うちの社長の奢りです!」
翔琉の言葉でわぁっと周りが盛り上がった。
周りは紹介された店へと移動するように、ガヤガヤと笑顔で会場を出ていっている。
「進藤さんも打ち上げに行きます?」
琴葉が進藤を見上げると、彼は手を左右に振った。
「いや、俺は今からあさぎのサッカースタジアムに行くんだ。息子と伊利ファレンテイン対アンゼルード全陸のナイター試合を観る約束してるから……くそ、もう始まってるな」
進藤はなんとかという選手の大ファンで、よく家族と一緒にスタジアムに観戦に行くということは、琴葉も知っていた。
「息子さん、待ってるんじゃないですか? 急いで行ってあげてください!」
「ああ、風鳴も帰る時は気をつけて。送ってやれなくてごめんな」
「大丈夫ですよ、子どもじゃないんだし」
「ごめん。じゃあ、お先に!」
そういうと進藤は急いで出ていき、タクシーを捕まえている。
それを見送ってから、琴葉はどうしようかと頭を悩ませた。
せっかくだから鳥料理と地酒のお店には行ってみたい気もするが、知り合いがゼロの状態では行ってもつまらなさそうだ。
やっぱり帰ろうか……と思ったところで、声をかけられた。
「琴葉先輩!」
「天ヶ瀬……」
「先輩、末広に行かないんですか?」
「うん。進藤さんは帰っちゃったし、知り合いがいないから」
「俺がいるじゃないですか」
昔は人懐っこい笑顔が武器だった翔琉が、大人の男の人の笑みを見せる。なぜだか顔を真っ直ぐに見られず、琴葉はそっと視線を外した。
「や、でも、私だけ部外者だし……」
「このイベントのスタッフとして来てくれたんだから、部外者なんかじゃないですって! 行きましょう!」
「え、ちょ!」
琴葉がなにかを言う前に、グイッと手を引っ張られてしまう。こういう強引なところは変わっていないらしい。
結局琴葉は末広に連れられて、しかも翔琉の隣に座ってしまった。
「翔琉、隣のお嬢さんはどなただい?」
前の席に座っている、白髪混じりの男の人がふっくらと微笑みながら聞いてくる。
「大地ファミリーから応援に来てくれた、風鳴琴葉さんです。高校時代の先輩で、俺の初恋の人なんですよー。フラれましたけどね!」
「な、なに言ってるの、天ヶ瀬! あ、天ヶ瀬さん!」
大地ファミリーの元請けの会社だったと慌てて言い直すも、翔琉は「なんですかその呼び方」と口を尖らせている。
「はっはっは! そうか、翔琉は振られたのか! 風鳴さん、もったいないことをしたよ。翔琉は同期の中では出世頭だぞ!」
「ちょっと嘘言わないでくださいよ、楢崎さん! このイベントだってメインでやってた先輩が緊急入院になって、ずっとサポートとして入ってた俺が代わりに責任者になっただけなんすから!」
楢崎さんと呼ばれた男の人と翔琉が楽しそうに話をしているのを見て、ほっこりとしてしまう。
高校の時の後輩ということもあって、弟のように感じていた男の子が社会に出て高く評価されるのは、母親のような気分になってなんだか嬉しい。
そこでの打ち上げが終わるとお開きになり、当然のように翔琉が琴葉を店の外まで送ってくれた。
「俺、車で来てるんで、琴葉先輩の家まで送りますよ」
「え、いいよ。私だけなんて悪いし……他の人を送ってあげて」
「俺が、琴葉先輩を送りたいんです。大丈夫、手を出したりなんかしませんから、送らせてください」
翔琉がそう言いながら少し寂しそうな顔をするので、琴葉は悩みながらもこくんと頷いた。
車の助手席に乗ると、ドキドキと鼓動が高鳴ってくる。バタンと扉を閉めて車が発進すると、翔琉は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「まさか、今日琴葉先輩に会えるとは思わなかったなぁ」
「本当だね。私もびっくりしちゃった」
「大地ファミリーに就職してたんすね! そういえば、高校の時の後輩の未来ちゃんと竜介のこと覚えてます? あの二人、結婚したらしいですよ!」
「未来ちゃんと竜介が? そうなんだ、おめでたいね」
未来と竜介は、琴葉が三年の時に一年生だった二人だ。二人の仲を、琴葉と翔琉が取り持ってあげて付き合い始めた二人なので、結婚したと聞くと感慨深い。
「高一から付き合い始めて結婚って、すごいね」
「ですよねー。俺もそんな人生歩んでみたかったー!」
「ご、ごめんね?」
「あー、すんません、琴葉先輩を責めるつもりはないんですよ。琴葉先輩が幸せなら、それが一番なんで」
そう言われると、琴葉の心は何故か傷んだ。
琴葉が要を追いかけて大学に行き、告白して付き合っていたことを翔琉は知っている。けれど、その要とはとうに別れていることを彼は知らないのだ。翔琉の望む〝幸せ〟にはなっていない。
「っていうか竜介のことは名前で呼ぶのに、どうして俺は名字呼びなんですか? 何度も名前で呼んでくれって言ったのに」
「それは……天ヶ瀬は人気者だし、親しく呼ぶのは女子の反感を買いそうだったから」
「もう高校の頃とは違って、面倒な女子はここにはいないですよ。名前で呼んでください」
そう言われると同時に、運転席から手が伸びてきて、琴葉の手が握られた。ひゃあと出そうになる声を押し留めて、それどころじゃないと声を上げて訴える。
「ちょっと、ハンドルは両手で持って!」
「俺のこと、名前で呼んでくれたらそうします」
「呼ぶ、呼ぶから!」
「まだ呼んでくれてない」
「翔琉、ハンドルを両手で持ちなさい!」
琴葉が大きな声でそういうと、翔琉はパッと手を離してハンドルを握った。
「はは。琴葉先輩に名前で呼んでもらうの、夢だったんですよ。八年越しに夢が叶いました!」
その横顔は、目までなくなりそうなほどに微笑んでいる。夢だなんて大袈裟だと思いながらも、琴葉の頬は勝手に持ち上がってしまっていた。
「あの時の俺は、本当に琴葉先輩が大好きだったから」
過去形の告白。嬉しいような、それでいてすでに過去となっていることが悲しいような。
──って、なに考えてるの、私!
変に疼く胸の訴えを掻き消すように、琴葉は運転席を横目で見た。
「どうして私なんかを……?」
「どうしてって……琴葉先輩、キラキラ輝いてましたから。今でも、俺の憧れですよ。あの時のまま綺麗でパワフルで、再会できて嬉しかったです」
「もうっ、翔琉はヨイショが上手くなってる!」
「本当のことですよ。俺にとって琴葉先輩は、一生特別な人です」
そんなことを言われると、勝手に顔が熱くなってしまう。
琴葉のことを初恋だと言っていたのだから、そういう意味での特別だろうとはわかっていても、口角が上がってしまうのは隠せない。
気づかれないように俯いていると、乗った時に設定しておいたカーナビが『目的地に到着しました』と知らせてくれた。車は停車し、なんとか顔を戻すと翔琉を見上げた。
「あ、ありがとうね……翔琉」
「また仕事で会うこともあるだろうし、これからもよろしくお願いします、琴葉先輩!」
「うん……」
そうは言っても、琴葉は応援に出る機会はあまりないし、今回のように一緒に仕事ということはまずないだろう。次に連絡がとれるのは、いつになるかはわからない。せっかく再会できたのに、このまま終わってしまうのは、どこか寂しい。
「あの、私の連絡先を教えとこっか?」
「え、琴葉先輩、スマホのナンバー変わったんですか?」
「ううん、変わってないけど、もう消しちゃったでしょ?」
確か最後に鳴った電話で、『アドレスの整理をしてた』と言っていた。きっと整理されてしまっているはずだ。
しかし翔琉は人懐っこい顔でアハハと笑った。
「消してないですよ! 琴葉先輩の連絡先は、殿堂入りですから!」
「殿堂入りって……じゃあ必要なかったね。送ってくれてありがと、それじゃ」
「琴葉先輩」
車を出ようとすると、パシッと手を掴まれる。運転席を振り返ると、そこには真っ直ぐに射抜かれるような翔琉の瞳。
「連絡取っていいってことですよね。俺、電話しますよ」
軽く『いいよ』と返せばいいというのに、ドキドキして言葉が出てこなかった。
こくこくと縦に二回頷くと、翔琉は嬉しそうに笑って手を離してくれる。
「よかった! じゃあ、また。おやすみなさい、琴葉先輩」
「うん、おやすみ……」
にこにこと笑って手を振ってくれる翔琉を背に、マンションへと入る。後ろを振り返ると、琴葉を見届けたのであろう翔琉の車が遠ざかっていった。
部屋に入ってドサリとソファーに座り込むと、琴葉はぎゅうっとクッションを抱きしめる。
「なにあれ、かっこよくなりすぎでしょ翔琉……!」
いや、元から翔琉は格好良かった。ただ昔のようなチャラさが抜けて、仕事に一生懸命な大人の男になっていた。
そう、琴葉の好みの男性に。
「あれだけかっこよかったら、彼女……いるんじゃないの? もしかしたら、結婚だって……」
指輪はしていなかったが、既婚者の全てが律儀に指輪をしているわけではないだろう。
もし恋人や妻がいれば、普通は二人っきりになったり手を取ったりなどしないはずだ。はず、なのだが。
「なにせ、翔琉だしなぁ……」
男女構わず、割とスキンシップは多かった。強引なところもあったし、手を繋ぐくらい、翔琉はなんとも思っていないに違いない。
「もう、昔の後輩に、なに悩まされてるのよ」
クッションに顔を埋めて、前髪をくしゃりと鳴らす。
もう一度、告白されることを望んでいるのだろうかと考えて、琴葉は自嘲した。
琴葉は一度、翔琉を振った人間だ。現在フリーで、翔琉がかっこよくなっていたからと、都合が良すぎる。再会したばかりで、なにを考えているのかと情けなくなった。なのに頭の中は、すでに翔琉でいっぱいになってしまっている。
「……かける」
天ヶ瀬、と呼ばずに、翔琉と呼べるようになった。
翔琉は琴葉にそう呼ばれることを夢見ていたと言っていたが、琴葉の方こそ彼を名前で呼ぶことを夢見ていたのかもしれない。
琴葉は顔を上げるも、もう一度ばふっとクッションに顔を押し付けた。