1.神童の帰還
「はあ……っ! はあ……っ!」
クラウゼヴィッツ王国の王都で、フードを目深に被った女性が夜の都を駆け抜けていた。
彼女の名前はアリサ。王都の治安維持をしている特務騎士団の一員だった。
「くそ……っ。一体どこまで逃げるつもりだ!」
彼女が追いかけるのは青白く光る狼だった。
重さがないかのような軽やかな動きで、王都の家屋の天井を蒼い光が闇夜を切り裂くように疾駆していく。
アリサはそれを逃すまいと必死に追走する。
全速力で走っていくうちに向かい風で女性のフードが後ろに流れ、艶やかな茶髪が零れ落ちた。
彼女は長い茶髪をポニーテールにして後ろでまとめていた。
「このままじゃ、住民に被害が……っ」
いくら真夜中かつ王都の端の町とは言え、全く住民がいないことなどありえない。今はたまたま見かけていないだけで、いつ現れた住民が襲われてもおかしくない。
彼女が焦燥感を覚えたその次の瞬間ーー
「ーー!!」
狼は何かを見つけたのか突如その進行方向を変えた。
「何故ーー」
彼女はそう口にすると同時に、状況を理解した。
今しがた考えていた懸念が今、現実になろうとしていたのだ。
街道を歩いていたのは、薄茶色のフード付きローブを羽織っている誰かだった。
狼はさらに加速し、住民に勢いよく迫っていく。
「っ!!」
彼女は眉間にしわを寄せ、全身に己の許容できる以上の魔力を流していく。
ギシリ、と体の節々が悲鳴を上げるが、もはやそのようなことを気にしているような状況ではなかった。
限界を超えた強化魔術によって、彼女の速度は一時的に狼のソレを超えた。
間一髪で狼と住民の間に体を滑り込ませた彼女は、手を前方にかざして防御の魔術式を展開した。
「く、うっ!!」
彼女はつい先ほどまで滾らせていた魔力の制御ができず、魔術式に過剰な魔力を注入した。
「ーーッ!?」
狼は過剰な魔力によって展開された障壁に勢いよく弾かれ、街道を数メートル転がった。
「ぐっ……。ハア……、ハア……、くそ。私としたことが……」
アリサは魔力の扱いが極端に下手だった。
魔力の最大出力は異常と言えるほどに高いが、出力を上げれば上げるほど己の制御を外れてしまうため普段は意識的に出力を絞っていた。
だがその制限を外していなければ今頃、己の後ろにいる人はこの狼に殺されていただろう。
であれば、最悪の行為ではない。そのはずだ。彼女はそう考えた。
最悪ではないとは言っても、無駄に魔力を消費したせいで彼女の魔力残量は底を突きかけていた。
ただでさえ長時間にわたる追跡で消耗していたところにこの追い打ちだ。
アリサは己の不甲斐なさにギリ、と歯ぎしりをする。
「そこの人! ここは私が引き受けるから、早く逃げて!」
言いながら彼女は腰のナイフを引き抜き、なけなしの魔力で強化を施す。
一刻も早く逃げてくれないと、無茶をしてまで助けた意味がなくなってしまう。
彼女の背後にいる人物は明らかに一般人程度の魔力量しか有してはいなかった。どう考えても戦えるはずがない。
だからこそ、彼女は逃走を促した。
「……ふむ。逃げろ、と申すか。我に向かって」
アリサの後ろにいたのはどうやら男性だったようだ。
低く、それでいて良く響く声の持ち主だった。
余裕綽々なその声音に、アリサは神経を逆撫でされ苛立ちと共に口を開く。
「いや、今はそんなふざけている場合じゃーー」
「ーー気に入った」
彼はそう言って彼女の隣に立ち、ポン、と肩に手を置いた。
その瞬間、彼女は怒りに任せて叫ぶ。
「だから! ふざけんじゃーー」
「ーーちょっとどいてろ」
「ーーえ?」
油断など、微塵もしてはいなかった。
そもそも命が掛かっている状況でそのようなこと、できるはずもない。
事実、アリサはコンマ1秒たりとも気を緩めてはいなかった。
にも関わらず、彼女は気付いたその時にはペタン、と尻もちを付いていた。
その現象を引き起こしたのは考えるまでもなく、隣に立っていた男だ。
「あ、ちょっと!」
彼女が無様に尻もちを付くと同時に、彼は悠々と魔術で作られた狼へと歩きだした。
狼は向かってくるヴィクターに勢いよく襲い掛かった。
その光景を目の当たりにしながら、アリサは深く後悔する。
自分が未熟なばかりに、目の前の男は殺される。それも、ほんの1秒後に。
だが次の刹那、彼女はその瞳を驚愕に染め上げた。
「疾っ!」
小さな吐息と共に繰り出されたのは、僅かな魔力を纏った拳。
本来、そのような矮小な魔力ではまともな事象を起こす事も叶わないだろう。
されど、彼のその拳は違った。
彼の拳が狼に触れたその瞬間ーー
「ーー嘘、でしょ……っ」
魔術で形作られた蒼い狼が粉砕された。
(ありえない……っ!? あんなちっぽけな魔力で魔術をどうこうできるわけが!? 道理がないっ)
彼女は心の中でそう叫ぶ。
彼は砕かれた魔力の残滓がキラキラと光る中、こちらへと振り返った。
フードを目深に被っており、表情は口元しか拝むことができない。
その口元は、得意げに笑っていた。
「何者……なの?」
口を衝いて出たのは、今最も重要なその一言だった。
先程彼が倒した狼型の魔術はそう易々と倒せるような代物ではない。
ここ最近出没しているその魔術は、誰が発動させているのかも不透明なモノであり。何よりも驚愕なのは、それらが自分達と同じように自立した意志を持つかのように振る舞う点である。通常の魔術は術者の意志が介在するものなので、そうでないこれらの魔術は異常と言っても過言ではなかった。
また、魔術であるがゆえに魔術の攻撃に耐性があり、仮に物理的な攻撃を加えたとしても再び元の形に戻ってしまうという厄介な性質を持っていた。
現状倒す方法は耐性を上回る高威力の魔術をぶつけることと、物理攻撃を繰り返し魔術を構成する魔力が限界を迎えるまで再生を繰り返すことの二通りだ。
(そんな規格外の魔術をいとも簡単に粉砕した彼は一体……?)
彼は青白く光る魔力の残滓を背に、こちらへと歩きながらそのフードを外す。
そこから現れたのは、金髪を後ろに流した少年だった。
瞳の色は髪と同じ金色に染まり、闇夜の中で一際目立っていた。
アリサはその顔を見て、両の瞳をこれでもかというくらいに大きく見開いた。
そんなアリサの様子を歯牙にもかけず、彼は手を差し伸べながら自己紹介をする。
「我の名はヴィクター。ヴィクター・ライラック。しがない平民である!!」
その立場とは裏腹の尊大な言葉遣いで自信満々に、そう宣言したのだった。
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