君の人生に幸多からんことを
私がこの仕事をするようになったきっかけは、家庭菜園の水やりをしていた事だ。
まさかこんな事になるとは思ってもいなかっただろう。
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突き抜けるほどに青く染めあがった空を見上げ、私は首からかけていたタオルで汗をぬぐった。
どうせ汗をかいて濡れてしまうのだから、と着古した白のランニングシャツ、ベージュの作業ズボンに黒の長靴。
さらに麦わら帽子で直射日光を避けていても、ジリジリと焼け付く日差しがさすがに辛く感じる。
いい歳したおっさんが日焼けを気にしても無駄だろうと、何もせずにいたら土建屋に勤めていた時とさほど変わらない茶褐色の肌色。
違うのは筋肉量だろうか、定年退職したとはいえ、まったく使わないわけでもない。
時が満ち収穫をする頃になれば、鍬をもって汗をボタボタと落としながら畑を掘り起こす。収穫期が終われば鍬一本で畑を耕し、次の収穫のために種まきをする。
今は夏、ジャガイモも人参も収穫を終えたこの季節ではあまり鍬を使う事もない。
今のこの時期はホースで水やりをするくらいにしか使わない腕だ。
特に今年は酷暑、梅雨があけたかと思えば連日の真夏日にせっかく育った苗が弱っていく。
あまりにも見かねた私は朝晩、日が陰ったタイミングでたっぷりと水やりをする。
するとだ、苗が元気になる一方で毎日水をあげなくてはいけなくなってしまった。
なんてことだ…、野菜に水をあげているというのに、その度にまだまだ暑い気温にやられて私から汗がボタボタと出てゆく。
それを見ていた孫娘が「じぃじ、お野菜に水あげてるの?じぃじも枯れちゃうねぇ」と心配そうにズボンの裾を引っ張った。
孫の純粋さに人心地がついた所で、空いている左手で抱きかかえる。
「また、アレやってやろうか」私の声に孫は無邪気に破顔し大きな声で「うん!やって!」とはしゃいだ。
玄関先に置いたプランターまで行き、はしゃいでいる孫を降ろす。
グリーンカーテンの如くするすると伸びた朝顔に向けて水をやり始める。
まずはプランターにたっぷりと水やりをする、これは妻に見つかった時に叱られないための大事な作業。
十分に水をあげたら、シャワーヘッドの水量を切換えキリにする。
サァーーーーッ
静かに、でも勢いよく霧雨が降るように朝顔にかける。
途端にキャッキャと声を上げながら孫は濡れる事なんてお構いなしにプランターのそばにいく。
「じぃじっ もっと!」
どうせこの後、一緒に風呂に入ってしまうのだから濡れても構わないだろう。
孫の声に私はいろんな角度で水を放った。
「あっ!キラキラ!」
孫が何かを掴もうとするが、空を掴むばかりで首を傾げている。
何度も何度も、掴もうとする仕草に「また虹が出たかい?」そう問えば少し口を尖らせた孫が無言でこくんと頷く。
「虹は、掴めないんだよ。見て楽しむもんだ、ほら、じぃじのそばにおいで。見せてあげよう」
手招きをして僕のそばにくる孫の頭をくしゃっと撫でながら、私は朝顔に向かってキリを吹きかけた。
サァーーーーーーッ
出る場所を探しながら、水をかけていると孫が目をキラキラさせながら頭を上下に動かしだした。
──期待に応えなきゃだな
そう思って右手を動かしたら、場所を見つけた。
虹は、朝顔の葉に勢いよく吹きかけられるキリに応えるように顔をだしたのだ。
「じぃじ!」
すぐさま孫が私のズボンを引っ張り、呼ぶ。私は顔が覗きこめるようにすこし前かがみになりニッコリとわらった。孫も白い歯を見せて笑った。
「きれぃねぇー」
ジッと見つめる孫と、なんどもなんどもそうやって過ごした。
そしていつの日か、孫のなかで『じぃじは虹を作る人』になった。
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「瓜生さん、この後の仕事なんですけど」
午前の仕事が終わり、日陰のベンチに背をあずけていると後ろから声をかけられた。
「ん?」と首だけ後ろに振り返るとニコニコと笑う鳴神がいた。
あれから定年した私は新しい仕事に就くことになった、暑い中で仕事をするため服装は水やりの時とさほど変わらない。ランニングに作業ズボンをはいて麦わら帽子にタオル、人前に出てする仕事ではないので服装に決まりはないのだと言う。
それでも人と向き合う時くらいは、いくら疲れていてもだらしない態度はとれず、きちんと向き合って話すようにしていた。
「あぁ、はい。なんでしょう」
慌てて立ち上がり、タオルで顔まわりについた汗を拭きながら鳴神と向き合えば、白い紙を渡してくる。
「今日でこの仕事も最後ですよね。最後の仕事はここにお願いします。時間は…そうですね、午後四時頃がいいでしょうね。最後ですから頑張ってください」
そう言って鳴神は手を振って歩き去っていった。
私の仕事場は、いつも鳴神から渡される紙の場所へ行くことだ。
あれからどれくらい仕事をしてきたのかも忘れてしまったが今日でこの仕事も終わりだ。さて最後の仕事場はどこだろう。
定年した後から始めた仕事とはいえ、それでも頑張ってやってきた。
それも終わりだと思うと感慨深いものがある、深呼吸してから二つに折られた紙を開く。
すると、そこには懐かしい住所が書いてあった。
昔住んでいた事のある住所だ、あれからどれくらい経ったのだろう、懐かしさに思わず身体が震えた。
口元が緩む、久しく帰っていないあの場所に行くことが出来る喜び。
「みんな、元気にしてっかな…」ポツリと呟いて紙をたたんでズボンのポケットにしまう。
そして仕事のために準備を始める、行ってすぐ仕事ができるように。
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指定された場所に行くまで、懐かしい景色に心が潤ったように感じた。
今は青い空だが、さっきまで少し通り雨があったのか地面は濡れており適度な湿度は過ごしやすい。
何度も渡った橋に、毎年魚釣りをした河原、友が建てた温室ハウスを超えていけば見えてくるだろう懐かしい我が家。もうどれくらい帰っていなかったのだろう、それすらも思い出せないが、ただ懐かしかった。
指定された時間より少し早くついてしまったので付近で時間をつぶす。
懐かしさにあちらこちら眺めていると、我が家まで辿り着いてしまった。
何やらバタバタと騒がしい様子が感じられた。
人の出入りが激しく、たくさんの車が停まっていて駐車場はいっぱいだ。
ここからでは何が起こっているのか分からなかったが、これ以上覗き込む事もせず、周りを漂った。
しばらく漂った後、時間を確認して「そろそろだな」とポツリと独り言を言った。
今日の天気は未だ煌々と照らす太陽だが、それも徐々に低い位置へと動きだしている。
「太陽も、ちょうどいいな」
ポツリと呟いて、再度ポケットにしまった紙を取り出して住所を確認する。
「さぁ、仕事の時間だ」
またポツリと呟いて、私は動き出した。
サァーーーーッ
静かに静かに、空気中に水を撒く。
太陽に熱せられた空気の中に水を撒いていると懐かしい声が聞こえてきた。
「あ、キラキラ!母さん、虹がでてるわ」
私はそっと下を覗くと白い帽子をかぶった人が見える。
声を発したのはその白い人だろうか、どれどれと目を細めて見てみると綿帽子に白無垢姿。
「ちょっと!せっかくの衣装が濡れちゃうでしょ、こっちに来なさい」
慌ててその人の手を引くのは、かつての、私の娘のようだった。
二人は玄関前の少し屋根のある場所に移動し、ずっと空を見上げている。
私は水を撒くのを止めたかったが、依頼された仕事で、私用で止める事はできなかった。
申し訳ないという気持ちで見ていると何故か二人は笑顔のままポツリポツリと喋りはじめた。
「昔、ここでじぃじに虹をよく作ってもらったっけ」
「あなたはおじいちゃんっ子だったものねぇ」
「まさか私の嫁入りの時に、虹が見えるとは思わなかったわ」
「ふふっ。狐の嫁入りってことかしらね。今日はすごく綺麗に化けているもの」
「えー、それひどくない?一生に一度の晴れ姿だもの。多少は化けなきゃでしょ」
「それもそうね、綺麗な格好だもの。もう少しだけ待ちましょ」
私の水撒きが終わるのを待つのか二人はニコニコ笑っている。
そして私の仕事が終わる頃、屋根の下からゆっくりと歩みだし空を見上げていた。
「うわぁ~ きれぃねぇ~」ポツリと呟いたのは花嫁姿の方。
目を細め、白い歯を見せて笑う顔に私は彼女があの時の孫であることに気づいた。
もうそんなにも経ってしまったのか、幼かった子が嫁ぐほど年月が経つまで私は我が家に帰らなかった。
いや、正しくは私が旅立ってから月日が流れたのだ。
もう見られないと思った彼女の晴れ姿に、私は目頭が熱くなった。
ぐっと我慢する、これ以上濡らしてはいけない。
私が堪えていると、花嫁姿の彼女が言った。
「きっと…、きっとじぃじが私のために虹を架けてくれたんだよ。昔から虹を作るのが得意だったもの。
いつも、この季節になると夕方、朝顔の葉に水をかけては虹を作ってくれたの。
虹が好きなの覚えてて、きっと今日の日に虹を作ってくれたんだわ」
花嫁姿の彼女からは私を見る事は出来ない。
それなのに彼女は私の存在を覚えていてくれ、私が作ってくれたのだと言ってくれる。
そばにいる事は叶わず、門出を祝えないこの年寄りをまだ好いていてくれたのか。
そう思うと、堪えていたものが溢れだしてしまった。
ポツリ ポツリ ポツリ…
サァーーーーーーッ
私の涙が雨となり、静かに地表に降り注がれる。
このままでは彼女の晴れの日が、と思い、私はグッと我慢をして上を向いた。
見たら零れてしまうからと二人に背を向けると、お昼の時より低くはなっていても太陽はまだ眩しかった。
目が眩むほどの光を浴びていると、下から先ほどより大きな声がした。
「お母さん見て!虹が、虹が二重になってるの!ほら、見て!」
「やだ、こんなの見たことないわ…、まさか本当におじいちゃんが…」
「きっとそうだよ!じぃじからだよ」
振り返って見ればらぽかんと口をあけて虹を見上げる娘に、はしゃぐ花嫁姿の彼女。
「うん、うん」と涙を堪えながら頷き、私はそっと移動する。
晴れの日に幸運の前兆とされる2重の虹がかかった花嫁の孫娘、君の人生に幸多からんことを私は虹に祈った。
私は最後の仕事をくれた鳴神に感謝し一人涙しながらその場を後にした。
さきほど雨を降らせた雲は雨が止む前にどこかへと去って、雲一つない青く澄み渡る空に架かる大きな大きな虹。
そこに架かったもう一つの虹が門出を祝うようにいつまでもキラキラと輝いていた。