神楽坂古書店の事情(2)
事務所の押し扉を開けると、扉が何かに当たった音が聞こえて、雲雀は少しだけ驚いた。
「何?」
おそるおそる扉に何が当たったのかを確認すると、後ろにあったのは白板。回転式の球で移動でき、両脇の棒で高さも変えられるものだ。
「あら。もう少しこっちに置いた方が良かったですね。すみません」
そう言って菫が申し訳なさそうに微笑んだ。
「気を付けろ」
チトセが雲雀を一瞥して言う。その姿に少しだけむっとした。
「何してたんですか。二人して」
雲雀は白板の前に立っているチトセと菫の隣に立ってから、それをよく見てみる。例の事件の被害者の写真を中心にした名前と写真、矢印がたくさん書かれていた。写真の裏は磁石になっているおかげで扉に当たった衝撃で下に落ちるのは免れたようだ。
「被害者の交友関係を洗っていたんですよ。そうしたら、面白いことが判明しましてね」
菫がそう言ってしたり顔をする。
「面白いこと?」
菫の言葉に、雲雀は首を傾げた。
菫が白板に近寄り、被害者の写真から少し頬の膨れた男の写真まで、白板に専用の赤いペンで書かれた矢印の真横を指でゆっくりとなぞる。そこから横に真っ直ぐいって、今度は髪の長い女性の写真までをなぞる。そしてそこからまた指でなぞり、被害者の写真まで戻った。
「どうやらこの三人。三角関係だったみたいですよ」
「三角関係……」
雲雀はその言葉を繰り返し、少しだけ目を丸くした。
菫は白板を背にするように振り返って、その三人の写真が見える位置に立ち直して写真を指さしながら説明を始める。
「被害者の名前は太田祐斗。現場近くの小さな病院で治癒士をやっていたそうです。で、この女性は田原愛美。大企業の受付嬢。それから、問題なのはこっちの男です。チトセが見たっていう小太りの男はおそらくこの人ですね。楠木拓海。中小企業の会社員」
「じゃあ……」
雲雀が口を開きかけると、菫が片手を上げて言う。
「まあ、最後まで聞いてください。実は、太田と田原は恋人同士で、楠木は二人の友人だったという話です。しかも、太田と楠木は親友と呼べる間柄だったそうなので、もし楠木が犯人だとしたら、確実に痴情の縺れが原因ですね」
「チトセの見た小太りの男が犯人……」
雲雀は導き出された答えを呟く。
「辻褄が合うな」
チトセが言う。確かに。と雲雀は思った。
おそらく犯人はチトセの姿を見て、犯行を見られたと思ったのだろう。それでチトセを殺人犯に仕立て上げるために警察に証言した。
怪しい男を見たと。
彼は何一つ嘘を言っていないが、事件の犯人が自分だということを隠した。
「だけど時間の問題ですね。こんなこと、調べれば警察でもすぐにわかります。あの手配書も間違いだったと昨日のうちに私が連絡しておきましたし。きっと彼は今、どこかに身を隠していると思います」
菫がそう言って白板から離れ、高級ソファに難しい顔をして座る。
雲雀は菫の背中に向かって質問してみる。
「これから、どうするんですか」
「勿論、犯人を捜します」
「どうやって」
「まず彼の身辺を探って彼の行きそうなところを探りましょうか。ですが、第三者の介入がある可能性があるので、それは無駄かもしれませんね」
「第三者?」
雲雀が首を傾げると、菫さんは頷いた。
「ええ。実はこんなものが送られてきましてね」
そう言って、菫がワンピースのポケットから綺麗に折りたたまれた紙を取り出した。菫が雲雀たちに背を向けたままそれを差し出してくる。
雲雀はそれを受け取ると、後ろから覗き込んでいるチトセと共にそれを見た。
そこには印字でこう書かれていた。
『 これ以上 余計なことをするな 』
それは、犯人の叫びにも見て取れた。
「どこかに隠れて怯えているはずの犯人が、こんなものをわざわざ送ってくると思いますか。これは、第三者がいるという可能性もあるということです」
雲雀は目を丸くしていた。これは忠告の文字だ。そこから感じるのは恐怖。第三者の影。
「菫さん。これ、やばいんじゃ」
雲雀は顔をしかめて言う。
「そうですね。だから私は、チトセに護衛を頼みたいのです」
そう言って、菫が座ったまま雲雀たちの方に振り向いた。
「護衛? 俺が、あんたの」
チトセが少しだけ目を丸くしながら、菫に聞いた。彼女は何の迷いもなく頷いた。
「そうです。私のです」
「ちょっと待って」
雲雀は菫さんに向かって言う。
「何ですか」
菫が首を傾げて雲雀の方を見た。
「菫さんは十分強いじゃないですか。これ、この家に送られてきたものですよね。だとしたら一番危険で、護衛をつけなきゃいけない人間は別にいるじゃないですか」
雲雀は紙を指さしながら言った。
そう、護衛をつけるべき人間。それは月見だ。月見は華士の力を使いたくないと思っているはず。例えこの紙の送り主に襲われたとしても華士の力を使わないために、月見には護衛が必要だと雲雀は思ったのだ。
雲雀は真剣な顔をして、目を丸くしている菫を見つめた。
「月見のことですね。あの子は大丈夫ですよ、護衛をつけなくても。身を守るすべは知っていますから。あの子ああ見えて、強いんですよ」
「は?」
雲雀は菫の言葉に首を傾げた。
「私がチトセに護衛を頼みたいのは、私ができるだけ生きていたいからです。自分勝手な願いだとは重々承知しています。ですが、私は月見の保護者として、月見の人生をできるだけ見守りたいのです。ですから、私が華士の力をできるだけ使わないで済むように、チトセに私を守ってほしいのです」
菫が、必死な顔をしてそう言った。菫の口から、生きたいと聞くのは初めてだった。誰かのために何かをして、それで死ねたなら本望だと言っていた菫が、生きたいと、雲雀たちに本音を言った。
「あんたはあいつが、凄く大事なんだな」
チトセが菫に向かって言う。
「ええ」
菫はそう言って少しだけ微笑み、頷いた。
大事な人を見守るために、菫は雲雀たちを巻き込むことにした。それは自分勝手ではなく、切実な願いなのではないかと雲雀は思った。
「月見には、月見の生きたいように生きてほしいんです。私は無理でも、せめて月見だけは。だから月見には、この力の使い方を教えていません」
そう言って、菫は右手で拳を作った。そこに力を込めると、皮膚から植物の蔦が生えてきた。それは少しだけ伸びて、手の上でアーチを作った。
「どういう、ことですか」
雲雀はその光景に目を丸くしながらも、菫に向かって聞いた。
「この力は、使い方を教わらない限り、使うことはできないんです。私は母親から華士の力を教わりました。使い方がわからない限り、使いようが無いのですよ。なので華士の力の使い方を教わらなかった月見には、力を使うことはできません。月見が一言でも、華士の力を使えると言いましたか」
菫がそう言って、雲雀の方を見る。先ほどの月見との会話を思い返してみる。確かに、月見は雲雀の質問に対して、華士のことについては一言も肯定していない。勿論、否定もしていないが。
「言ってはいないですが。でもそれだと、華士の力の使い方を知っていれば魔法士にだって華士の力が使えることになりませんか。土系に特化した魔法士なら使えるんじゃ?」
雲雀は菫に疑問をぶつけてみる。
菫は首を横に振った。
「いいえ。使えませんよ。土系に特化した魔法士は、土壁を作ることはできます。防御に特化しているとも言えますね。ですが地に這うものは使えません。それほどの力を持ち合わせていないというのもありますが、使い方を知らないから使えないのです」
菫の言葉に、雲雀はますます首を傾げるしかなかった。
雲雀はかつての魔法テストで魔法の才能はまるでないことがわかっている。けれど、魔法の知識がまるでないわけではない。知っていて損はないという理由で幼少から魔法についての知識の授業は普通科でも組み込まれている。
しかし、華士に関してはまるでその知識が役に立たないらしい。
菫がゆっくりとソファから立ちあがる。
「二人とも、ちょっと付いてきてください。特別に見せたいものがあります。月見には内緒ですよ」
そう言って、菫が人差し指を口元にあてた。