古い約束(3)
チトセはその場に膝をついていた。血がぼたぼたと絨毯の上に落ちる。同じ色で目立たないが、落ちた場所はなんとなくわかる。
父はこの場から逃げたそうにしていて、雲雀はどうしたらいいかわからず立ち尽くしていた。
菫は壁に固定されたまま目を閉じていて、名も知らぬ少女は泣いていた。
爆発の振動か、部屋は揺れていた。その音がだんだんと近づいてきていることに雲雀は気づいていた。そもそもこの爆発は何なのか。誰が起こしているのかはわからない。森へ行った黒田たちからの連絡を待つしかないが、もしかしたらこの爆発の正体が隠かもしれないと不安がよぎる。どちらにしろ、早く菫を連れてこの部屋から出なければいけない。けれど、どうやって? チトセがしばらく動けないとなると、逃げ道はない。
「スバル。助けて。スバル……」
呪文のように、少女は呟いていた。
それが誰の名なのか、雲雀にはわからない。
「あんた、なんで。その名を呼ぶ?」
チトセが少女に向かって言った。彼には心当たりがあるらしい。
「スバル。スバル」
聞いていないのか、少女はチトセの問いに答えない。
「それは、長の……」
「スバル――」
突風が、開き窓から入ってきた。
雲雀は思わず片目をつぶる。
「何だ?」
気のせいか、空気が変わった気がした。
風がやむと、雲雀は何かの気配を感じて窓の外を両目で見た。踊り場に、誰かが立っていた。その人は広げていた翼をしまう。ここまで飛んできたのだと、そのとき理解した。
「竜人族?」
雲雀は額に、眉を寄せた。
白いひげを蓄えた老人の顔だった。白い髪の毛は床まで長く、一つに束ねられていた。その竜人はゆっくりと泣いている少女に向かって歩いて行った。そして彼女の前で立膝をついて、頭をなでるように右手を動かした。
「――スバル?」
「ああ。わしはすっかり年老いてしまったんじゃが。君は、変わらないのお」
竜人は頷いてそう言った。
「スバル。どうして?」
少女はスバルと呼んだ竜人の右手を、両手でつかむ。手は少女の頬で動きを止める。
「君のおかげじゃ。君が祭りを開いてくれたおかげで、ここまで飛んでくるだけの力を取り戻せた。君のわしを呼ぶ声は、いつも聴こえていたよ。遅くなってすまない。野薔薇」
「スバル。やっと、会えた――」
野薔薇と呼ばれた少女は、スバルに抱きついた。
「長」
チトセは竜人を見て、驚いた顔をしていた。どうやら彼が、たびたび話に出ていた竜人族の長らしい。
雲雀と父も呆気にとられていた。野薔薇という名を知っていたからだ。歴史の教科書にも載っている。初代皇帝陛下の名前だった。この国を創った彼女が。どうして生きているのか。どうして愛おしそうにその竜人の名を呼ぶのか。訳のわからないことだらけだった。
「野薔薇。わしももう長くないんじゃもうこんなことは終わりにして、ここから出て二人で一緒に森で暮らさんか」
スバルの言葉に、野薔薇が驚いた顔をする。それからすぐに嬉しそうにこう言った。
「それ。本当なの? 私、やっとスバルと一緒に逝けるのね」
スバルは頷く。
「ああ――。一緒に逝こう。野薔薇。愛している」
「私も愛しているわ。スバル」
野薔薇とスバルはそうして、しばらくお互いに強く抱き合っていた。
雲雀は、時間が止まっているように感じていた。事情はわからないが、よかったな。と漠然と思った。
「あー。失礼。あなた方は、もしかして」
尋ねづらそうに、父が言った。
スバルは野薔薇から離れ立ち上がる。それから父のほうを見て言った。
「わしは、スバル・ヒ・アサヒ。ヒの一族の長じゃ。そして彼女は、この国を創った野薔薇皇帝本人じゃ」
「やはり。でも、何故。生きておられるのですか。歴史上では故人となっているのに」
父の疑問に、野薔薇は答えた。
「歴史から私を消しても、生きていなければいけなかったから。私はずっと。若い華士から力を奪い、自分の命を繋いでいたのよ。でももう、その必要はなくなったわ」
野薔薇はスバルのほうを見た。
「華の力は、二千年前。妖精女王が、野薔薇に埋め込んだ種じゃ。それが一族に引き継がれていったというわけじゃ」
「私は、スバルを愛してしまった。人間と竜人が結ばれるなんて、決して許されないこと。だからその罰だと、妖精女王は言ったわ。でも彼女、本当は私を生かすために種を埋め込んだのだと思うわ」
野薔薇は涙を腕で拭ってからゆっくりと立ち上がり、菫の前に行った。
「菫。ごめんなさい。あなたがこの力を望んでいるのなら、無理矢理引きはがすわけにはいかないわね」
野薔薇はそう言って、菫の拘束を解いた。菫は力なく野薔薇の腕の中に倒れた。
「菫さん。大丈夫なんですか」
雲雀が尋ねると、野薔薇は微笑んだ。
「大丈夫。意識はあるわ」
菫は野薔薇に支えられながら、天蓋付きのベッドの上に横になった。声をかけると手を軽く上げて答えてくれた。雲雀は一安心した。チトセの体も徐々に回復している様子だった。先行して森へ行った月見たちは大丈夫なのだろうか。そう思った矢先、小型無線機が鳴った。雲雀は急いで通話のボタンを押す。
『雲雀くん。大変だ。隠使いに逃げられたらしい。そちらの状況はどうなっている。こっちは最悪だ。今治療しているが、葵と月見ちゃんが重症で』
電波状況が悪いのか、それ以降は黒田の声が聞こえなかった。
雲雀は顔をしかめる。
「黒田さん。聞こえますか。菫さんは無事です。隠使いも何とかします。だから、月見たちをよろしくお願いします」
月見たちのことは心配だが、黒田が治療をしてくれているので任せても大丈夫だろう。それより、こちらだ。
『――かっ――く――む』
黒田の声が聞き取れない。雲雀は仕方なく通話を切る。
「ふむ。どうやら、この爆発音は、隠が原因らしいのう。どうする、野薔薇。力づくで大人しくさせるかの」
スバルが言いながらひげをなでた。
野薔薇は首を横に振る。
「いいえ。それじゃ意味がない。隠なんて、まだ震えが止まらないけれど。大丈夫よ。きちんとするわ。その上で、改めて今後の話をしましょう。野駒日雀大臣」
名を呼ばれて、予想外のことに父はびくりと肩を震わす。
「私、名乗りましたか?」
「名乗らなくとも、知っているわ」
父が首を傾げた時だった。
「いかん、全員。扉から離れて伏せろ!」
突然、スバルが大きな声を出して野薔薇に覆いかぶさった。雲雀もとっさに父に手を伸ばし、その爆発を逃れた。