愛の華
何が起こったのか。月見は理解するのに数秒かかった。
森に入り、例の通り魔だった魔法士を見つけたところまでは覚えている。近くに知らない男が倒れていて、魔法士はなんだか知らないけど笑っていた。月見はそれが腹立たしくて、我慢できなくて――。
「お、とう、さん?」
目の前は真っ暗だ。何も見えない。微かに焦げた匂いがする。すぐ近くに父の体温を感じていた。抱きしめられていた。父の息はあらい。いったい何故。頭が混乱している。
「大丈夫だ。月見。お前は俺が守ってやるからな」
父の言葉が、月見の胸の中にすっと入ってくる。父は魔法士の投げた爆弾から、月見をかばってくれたのだ。自分の身を挺して。体から大量の太い蔦を幾つも出し絡ませあい、月見の体ごとそれで包んで。繭のように。
「やめて。離して。これじゃまるで」
――まるで、あの日と同じ。
涙が頬を伝って、父の肩を濡らした。月見は思い出していた。あの日。月見が母を死んだことにした日。母も今の父と同じように月見と菫を抱きしめていた。
運転手が操縦を謝り、車が歩道に突っ込んできた。母はとっさに月見と菫をかばった。その時に植物の蔦が母の体から無数に伸びて絡まり、月見たちを包んだのだ。それ以来、母の植物化は加速した。髪の毛も手も足も植物になり、歩けなくなったころ。母はとうとう地下へ降りた。
他人に化け物と罵られても、母は構わないと言った。子どもたちを守ったことに誇りを持っていると言った。月見はそれが嫌だった。母のようになりたくないと心から思った。自分のことより子どものことを優先したり、赤の他人を助けたり。そんなことより自分のことを考えてほしかった。そんなだから、父に捨てられたのだと思い込んでいた。
写真で見る父はどこか知らない他人のように見えた。たまに店に来る黒田総一郎が父親だったら、どんなにか良いだろうと思っていた。彼のほうがよっぽど、父親らしく見えていた。でも今は――。
「うわぁっ」
ぶちぶちという嫌な音と共に、父の体が月見から離れた。引きはがされたという表現があっているかもしれない。
「驚いた。こんなこともできるの。その力、魔法とも違う。痛いの? 肉体の一部なのかな。面白い」
倒れた父が、身もだえている。父の体から生えている蔦には、乱暴に引きちぎられた跡がある。
「月見ちゃん。逃げろ!」
浜鴫蓮太の叫びが聞こえる。彼はワカバを守るので精一杯だったのだろう。ワカバの肩を支えながら、立っている。
けれど月見は動けなかった。ただ呆然とその場で尻もちをついているだけ。目の前の恐怖と現実を受け入れられないでいた。
「娘に、手を、出すな」
苦しそうにしながら、父が声を絞り出す。手の蔦をさらに伸ばし、魔法士の女の足を絡めとろうとするが、彼女は寸前でそれをよける。そして父の蔦を、力強く踏んだ。
「ぐあっ」
父の悲痛な叫びが上がる。
「あははは。おもしろーい」
魔法士の女はそう言って笑いながら、何度も何度も父の蔦を踏みつけた。父はそのたびに呻り、叫んだ。
もうやめて。と月見は思った。視界に入れたくなくて顔を両手で覆う。
「いいざま。私を捕まえたときのあの威勢はどこへ行ったの? 今度はその蔦。切り刻もうかな。いいよね。だってお前、そうしないと私がこれからすること、邪魔するでしょう」
魔法士の女の笑い声が、月見の頭の中で響いていた。
「蓮太。竜の姿になるわ。もう、見ていられない」
ワカバが言う。月見は顔を上げワカバを見る。
「ダメだ。お前、俺たちをかばうつもりだろう。もう少しで帝国騎士団が応援に来るはずだ。それまで持ちこたえれば」
蓮太がそう言うと、ワカバが首を横に振った。
「いいえ。それじゃあ間に合わない。あの爆弾。そのものが隠みたい。あの女。鍵を持っているのよ。この状況がかなりまずいのは、わかるでしょう」
ワカバの視線と月見の視線が、ぶつかり合う。月見は思わず肩を振るわせた。
視線を戻すと、魔法士がぶつぶつと何かをしゃべっている。魔法の詠唱だ。片手には父の蔦を持ち、もう片方の手は風をまとい、それを刃物のように構えて降り下ろした。
「うわああああああああああっ」
父は絶叫した。切り刻まれた蔦が葉を揺らし、地面に落ちる。
「お父さん!」
月見は叫ぶ。駆け寄りたいが、やはり足が動かない。月見は悔しくて、自分の足を叩いた。
「さて。次はどうしようかな」
魔法士がそう言いながら、月見のほうへ向かってくる。
逃げなきゃと思うのに、恐怖が勝って動けない。
「月見。気をしっかり持って!」
ワカバの声が聞こえる。そんなことを言われてもどうしようもない。
月見の目の前に、魔法士が腕を突き出す。その手には黒い鍵が握られていた。おそらくそれが、例の隠の鍵なのだろう。
「お前の心の闇、開かせてもらう」
魔法士がそう言った瞬間。
「つき、み」
父の声が聞こえた。
月見は目を見開く。それから「馬鹿みたい」と呟いた。
「なに?」
魔法士の手は月見の胸の前で止まったまま、動かない。
「そんなになってまで、まだあたしを助けようとしているの。本当。家族揃って馬鹿なんだから」
月見はそう言って、ゆっくりと息を吐いた。
何を怖がっていたのだろう。何をためらっていたのだろう。すごくらしくないことをしていたと月見は思う。
「悪いけれど、魔法士さん。あたしの心に闇なんてないわ」
月見は魔法士の手を掴み、そして立ち上がった。
「何を言っている。そんな人間、いるはずがない」
「確かにあったのかもしれない。いいえ。あったの。けれど、今のあたしの心は、とても晴れやか。お父さんのおかげでね。今までうじうじ悩んでいたのが馬鹿みたいだわ」
月見は普通でいたかった。母と姉に華士になるかならないかと選択を迫られたとき、月見はならないと答えた。あなたたちのようにはならない。なりたくない。普通で。平凡な人生を歩みたい。そう思った。けれど本当は、その選択をずっと後悔していた。自分はなんて子どもだったのだろう。そう、自分を否定した。だからこそ。姉が自分を犠牲にしたとき、月見は迷わず自分も華士になろうと決意した。でも父はそれを違うと言った。姉はそんなことを望んでいないのだと。父は「華士にならないでいてくれてよかった」と言ってくれた。認めてくれた。月見の最初の選択が間違っていなかったと言ってくれた。その言葉がどれだけ月見の救いになったのか。父は知らないだろう。
「あたしはもう迷わない。あなたを止めてみせる」
月見は真っすぐに魔法士を見てそう言った。
「やめろ。そんな目で私を見ないで」
魔法士は小さな声で呟くように言った。長い前髪のせいで、その表情は読めない。
「あなたは隠を使って、何をしようとしているの」
月見は魔法士に向かって尋ねる。
「お前には関係ない。何も知らないくせに。隠が出ないなら、お前にはもう用はない。手を離せ」
魔法士はそう言うけれど、月見は彼女の手を離さない。ここで逃がしたらいけないと思った。月見はさらに強く魔法士の手を握る。
「あなたにはなくとも、あたしにはあるわ。あたしの大切な家族を、友人を。こんな目に会わせておいて、ただで済むと思っているわけ?」
「私がやろうとしていることを、お前たちが邪魔をするから。私はただ。お前たちを苦しみから解放してあげようと思っているだけなのに」
魔法士の言葉に、月見は首を傾げた。
「どういうこと?」
「どうしてお前たちは、竜人族と仲良くしているんだ。どうして仲良くできる。最後にはどうせ裏切られるのに」
「あなたはそうだったのかもしれないけれど、あたしたちは違うからよ」
月見は魔法士に向かってそう答えた。
彼女は酷く傷ついているのだ。そう月見は感じた。だから竜人と人間の中を引き裂くような真似をしている。理解したら納得できた。彼女は竜人と仲良くなることを諦めた人だ。
「そりゃあ、一緒にいて理解できないこととか。馬鹿だなって思うことはたくさんあるけれど。それは種族が違うから仕方のないことだって思う。それでもお互い支えあう関係だったり、色々。いい関係が築けているのなら、仲良くなるのも悪くないかなって思うよ」
月見はワカバと蓮太。ルリと雲雀。それからチトセと姉の菫のことを頭に浮かべていた。相方だからとか、そういう関係だけじゃない。羨ましいくらいに信頼関係で結ばれているような気がする。
「お前、何もわかっていないな。まぁ、恋もまだみたいなお子様には私のことなんてわからないよな」
魔法士がそう言った瞬間だった。月見の腹部に激痛が走る。
「いっ」
握っていた方と逆の手で、魔法士は月見の腹部を思い切り殴ってきた。しかもただの拳ではない。いつの間に魔法を詠唱したのかそれは風をまとっていた。月見は痛みで思わず手を離してしまう。魔法の詠唱タイミングがわかりにくいのは難点だった。ただ殴られただけならまだしも魔法で殴られるのは、針の束で突かれたような激痛を感じる。
月見は血を吐いた。
「月見!」
「月見ちゃん!」
ワカバと蓮太がそれぞれ叫ぶように名を呼んだ。
月見は両手で腹部を押さえ、その場に両膝をついた。指の隙間から流れた血が地面へ落ちる。
父の叫び声が聞き取れない。魔法士は狂ったように笑う。それから月見は、信じられない光景を見た。