哀の唄
意識が揺らいでいた。
誰かの唄が、聴こえる。声の高さは女性のようだった。けれど、それが誰かはわからない。ただ、なんて哀しそうに唄うのだろうと菫は思った。それは聴いたことのある唄だった。古い、子守唄だ。よく母が唄っていた。優しい唄のはずなのに、その人が唄うと哀しい唄に聴こえた。
頭の下が温かい。誰かの体温が伝わってくるようだ。
「どうして……。そんなに哀しそうに唄うんですか?」
重い瞼をゆっくりと上げながら、菫はその人物に尋ねた。
その人は唄うのをやめると、菫と視線を合わせた。とても綺麗な顔立ちをしていた。赤色の髪は男の子のように短かった。
「知っていて? この唄はね。子を亡くした親が作ったものなの。息を引き取った我が子に気づかずにおやすみなさいと唄い続けて、最後にそのことに気づく、とても哀しい唄なのよ」
彼女はそう言って微笑んだ。
菫はその微笑みに不安を覚え、起き上がる。どうやら菫は意識を失っている間に彼女に膝枕されていたらしい。
そこは天蓋付きの、ふかふかなベッドの上だった。床には真っ赤な絨毯が敷かれていて、部屋の隅に金色の縁のついた鏡台が目に入る。
「私、いったいどうしてここに――」
思い出そうとすると頭が痛んだ。菫は頭を抱える。もしかしたら誰かに眠らされていたのかもしれない。でも、いったい何のために? 黒服の男たちに捕まってからの記憶が曖昧だった。
「あなたは。誰ですか?」
再び視線を向けて、菫は彼女に尋ねた。どこかで見たことがある気もするが、思い出せない。
「質問がお好きなのね。お嬢さん。本当、そっくり」
くすくすと、彼女は笑う。菫には彼女の言葉の意味を理解できなかった。
「そっくりですか」
「そう。そっくり。流石あの男の子どもね」
彼女は言いながら、ベッドから飛び降りる。あどけない少女のようだった。白いワンピースがひらひらと揺れる。
あの男が指す意味と、彼女の正体を菫は考えた。ある事実にたどり着き、目を丸くする。
「そんな、まさか」
菫は思わず呟いていた。
黒服たちは皇帝陛下から差し向けられた。「あの男」と言ったのが菫の父親のことならば状況的に考えて、彼女がその皇帝陛下ということになる。菫は信じられなかった。目の前に陛下がいることではない、他にもっと重要な真実を目の当たりにした。陛下は民衆の前に出るとき、いつも帽子を深くかぶり燕尾服を着ていた。だから誰もが男性だと思っていた。菫もそう、信じていたのに。
「ふふ。何をそんなに驚いているの」
「あなた。もしかして」
「ああ。察しがいいわね。そうよ。私がこの国の皇帝。野薔薇よ」
彼女。そう野薔薇ははっきりと言った。その名に菫はまたも驚愕する。
「野薔薇? まさか、そんなはずはないです。だってそれは。その名は――」
「いいえ。私は間違いなく野薔薇。初代皇帝。野薔薇よ」
菫は野薔薇の言葉が理解できなかった。初代皇帝陛下はこの国を創った人物。歴史の教科書にもしっかりとその名が記されている。そして没年も。野薔薇は国を創り子を成し、そしてその二十年後。僅か三十六歳でこの世を去ったはずだ。今ここにこうして生きているなんてこと、あるはずがない。それに見た目も、妙に若い。
菫は身体を震わせていた。顔も青ざめていたかもしれない。
「父は、このことを?」
「愚問ね。私は今、あなたにしか私の正体を明かしていないわ。彼の前に出るときも、民衆の前に出るときも、私は声を低くして男を演じていたもの」
野薔薇はベッドの上で腰を抜かした菫の頬に触れてくる。体温が伝わってくる。彼女は確かに生きている。
「それを、私に明かしたのは何故ですか」
「さぁ、何故かしら。お願いを聞いてもらうため。かしらね」
野薔薇はそう言いながら菫から離れると、部屋にある大きな開き窓の前に行き、窓を両手で押し開けた。菫は彼女を目で追っていた。
外から祭りの賑やかな声と、生暖かい風が部屋に入ってくる。
「皇帝陛下。あなたはいったい、私に何をしてほしいのですか」
菫はつばを飲み込んでから、そう問いかけた。
野薔薇は菫のほうを見て、言った。
「菫。私にあなたの若い力を頂戴」
作ったように笑う野薔薇の顔に、菫は恐怖を感じた。
「どういう、意味ですか」
「どうもこうも。そのままの意味よ。あなた、華士よね。なんとなくわかるんじゃないかしら」
野薔薇は言いながら、再び菫の傍に来る。
「私が欲しいのは、あなたのこれよ」
菫の左胸の辺りを、野薔薇は右手の人差し指で示した。こまめに切っていないのか、爪は少し伸びていた。
菫は目を見開いていた。言葉が出ない。これ。とは――。
「私と同性で、あなたまだ発芽していないから。丁度いいわ」
「や……。やめ、てください」
やっとの思いで、菫はそう言った。
「あら。力がなくなれば、あなた普通に戻れるのに? それこそ、あなたの父親が望んでいたことではないの。彼、しきりに言っていたわ。娘と妻をこの力から解放したいと」
「まだ。まだ私にはやることがあるのです。それに私は、この力を望んで手に入れました。だから――」
菫が首を横に振ると、野薔薇が眉間にしわを寄せた。
「何、ごちゃごちゃ言っているのよ。いいから渡しなさい。あなたのその体の中にある華の種を!」
野薔薇が何を言っているのか、菫は理解していた。彼女の言う通り、菫の体の中にある力は、種だ。華の力はその種を伝って体外に発揮される。種は常に力を蓄えており、菫はそれを少しばかり使っているような感じだ。使いすぎれば枯渇する。種は外に力を求め、発芽するのだ。植物の成長なんて可愛いものじゃない。それは自分自身をも取り込もうとするのだから。
「い、や――」
菫は両肩を野薔薇に掴まれ、座っていたベッドに押し倒された。菫は必死に抵抗しようとするが、強い力で抑え込まれて動けない。
「菫。私はね。生きたいの。ずっと、生きていたいの。あの人のために。だからね。お願いよ。あなたの種さえあれば、私はまた生き延びられる」
野薔薇がそう言って、哀しそうな顔をする。けれど、菫は彼女の願いを聞き届けるわけにはいかなかった。菫は華士として事件を解決したり、人々を助けたりしたいだけでなく、月見を守るためにこの力を使いたい。だから失うわけにはいかないのだ。
「あなたは。そうやって華の種を女の華士から奪い取り、生きながらえてきたというのですか。二千年もの間。ずっと」
菫が尋ねると、野薔薇は肯定した。
「そうよ。私は二千年間。ずっと生きてきた。自分の子どもや子孫から種を奪い続けてきた。これは私の贖罪なの。愛してはいけない人を愛してしまったから」
「そ――」
それは誰か。と菫が問おうとした瞬間だった。
窓の外から何か大きな音が聞こえた。