父親(1)
「雲雀坊ちゃん」とその男は言った。初めて見る顔だったが、どことなく知った顔に似ていた。男は雲雀のすぐ傍まで歩いてきた。身長は雲雀より高く、年齢もおそらく上だろう。
「燕様。いけません。こんなところを見られたら」
執事長は何かを慌てている様子だった。彼がここにいることに何か問題があるらしい。
「大丈夫ですよ。執事長さん。旦那様はしばらく戻ってきません。それより私は、まず妹が世話になった礼を彼に言いたい」
妹。と彼は口にした。雲雀は首をかしげる。誰のことかはわからない。世話になったということは、雲雀の知り合いだろう。じっと彼の顔を見つめて考える。先ほど誰かに似ていると感じたのは気のせいではなさそうだった。
「あなたは……」
「ああ。すみません。まだ名乗っていませんでした。私は深山燕。深山鶫の兄ですよ」
「え」
彼。深山燕の言葉に、雲雀は目を丸くする。言われてみれば、確かに鶫とどことなく似ている。けれど、鶫から兄がいると聞いたことはない。
「そして私は、あなたの兄でもある」
燕の言葉に、頭が混乱する。
「それは……。どういう意味だ?」
疑問を口にしながら執事長を一瞥すると、彼は眉をひそめて床を見つめていた。
雲雀は一人っ子だ。兄弟などいないはずだ。
「本来なら、旦那様本人から聞くべき話です。私と鶫は、あなたと半分血が繋がっているという話ですよ」
「燕様!」
執事長が大きな声を出した。今のは雲雀に聞かせたくない話だったらしい。
「ちょっと、待ってくれよ。いったい、何の話」
雲雀は右手で頭を抱える。執事長の慌てようを見ると、彼は事情を知っているらしい。何も知らなかったのは、もしかして雲雀だけなのだろうか。
「燕様。これ以上、雲雀様を混乱させるようなことを言わないでください。それに、あなた方が顔を合わせたことがもし旦那様のお耳に入ったら。あなたの妹様が」
「わかっています。けれどもう、私だって何もしないでいるわけにはいかないのですよ。執事長。あなただってわかっているはずです。事態は深刻なほど進んでいます。今、旦那様が何をしようとしているのか。誰が、それを止められるのか。あなたは知っているはずでしょう」
二人が何の話をしているのか。雲雀にはわからなかった。わかるはずもない。父がしようとしていることに関係があるのだろうか。どれほど、やばいことをしようとしているのだろうか。想像がつかない。
「――わかりました。旦那様の、居場所を。雲雀様に」
執事長は、何かを諦めたように言った。
「雲雀様。よく聞いてください。旦那様は森へ行きました。鶫も一緒です。私の、推測が正しければ……。鶫は、おそらく。隠の媒体にされるでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、雲雀の中の何かがはじけた。
「何で……。何で、そんなことになった!」
雲雀は思わず、燕の胸ぐらにつかみかかる。
信じられない気持ちでいっぱいになった。何が、どうなったらそんなことになるのかと。
ワカバが隠の媒体にされた時のことが、頭をよぎる。
「落ち着いてください。まだ確定した話ではないです」
「なら、なんでそう思うんだよ。理由を教えてくれ。鶫があんたの妹だって言うんなら、そこまで推測しておきながら助けに行かない理由を教えてくれ」
真剣な表情で、雲雀は言った。本当は今すぐにでも飛んでいきたかった。父が間違いを犯す前に。鶫が犠牲になる前に。止めるべきだ。
「私は鶫を助けに行かないのではなく、行けないのですよ。私が命令に背けば鶫は殺される。鶫が命令に背けば、私が殺される。人質なんですよ。お互いが、お互いの。だから、あなたが来るのをずっと待っていました」
燕が哀しそうにそう言った。雲雀は何とも言えないその表情を見て、燕からゆっくりと手を放した。
「何で」
「鶫があなたの監視として騎士学校へ送られてから、ずっと考えていたのです。何故、鶫なのかと。私ではなく、妹なのかと。ここ何年も鳴りを潜めていた隠が現れたと聞いたとき、理解しました。旦那様は鶫を媒体にしようと考えているのだと。あの子の心の闇を。さらに広げて、ずたずたに引き裂いて。利用しようとしているのだと。もう十分すぎるほど、あの子は傷ついていたのに」
燕はそう言って、体を震わせていた。
執事長は黙ったまま、その姿を見つめていた。
燕は続ける。
「今朝。隠と思わしき情報が入りました。監獄での爆発騒ぎ。旦那様は私ではなく、鶫を護衛につけて出かけられました。行先は森の入り口。人目が付かず、誰にも邪魔されない秘密の会議所。これがただの偶然なら、よかったのに」
「父上は。隠を使って、何をしようとしているんだ。竜人も。妖精女王も。すべて利用したのか」
雲雀に向かって、燕は頷いた。
「はい。旦那様の目的はただ一つです。隠を利用し皇帝陛下を襲わせ、王政を終わらせることです」
燕の言っている言葉の意味が、よく分からなかった。否、頭では理解していても、信じられなかった。そんな大それた。恐ろしいことを。自分の父親がしようとしていることが信じられなかった。信じたくなかったのだ。
雲雀は目を丸くしたまま、項垂れる。
「そんな、ことをすれば。どうなるか。父上は理解しているのか。それに、失敗したら」
雲雀は思わず、最悪の事態を想像する。
燕は静かに頷いた。
「はい。死罪です。あなたには悪いですが、正直なところ。自分としてはそれでもいいと思っています。そのくらいの煮え湯を飲まされてきていますから」
父と、燕と鶫。三人の関係は雲雀にとっては絶望に等しかった。加えて先ほどの燕の発言。気になって仕方がない。半分血が繋がっているとは、どういうことなのだろうか。
「燕様……」
執事長が燕の言葉に顔をしかめた。複雑な気持ちなのだろう。色々と事情を知っていそうな彼は、誰の味方なのだろうか。
「雲雀様。一度に色々聞いて、混乱しているかと思います。ですが、知っておいてほしいことは一つだけです」
燕は言うと、懐からおもむろに何かを取り出した。そしてそれを雲雀の足元に投げた。金属と木のこすれる音がして、それは回転し、雲雀の足に当たって止まった。雲雀の視線はそれにくぎ付けだった。
「それをとってください。その短剣は、あなたがとるべき刃です」
燕の言葉に、雲雀は困惑した。赤い鞘に収められているそれ。これをとって、どうなる。どうする。雲雀はその場に立ち尽くすしかなかった。
怖くなった。父を止めなければと思う反面、自分に何ができるだろうかと不安になる。燕が雲雀を必要としているのはその必死な表情を見ればわかる。けれど、おそらく雲雀ができることは限られている。彼の期待に応えられるのかもわからない。そういった感情や思考が混ぜこぜになって、雲雀は何もできないでいた。
そんな雲雀の様子に気づいたのか、執事長が一息吐いてから雲雀の足元にある短剣を拾い上げてこう言った。
「もう良いでしょう。燕様。あなたのお気持ちはわかりますが、雲雀様には少し荷が重すぎます」
「――そうですか」
燕は残念そうに、呟いた。燕は執事長から短剣を受け取ると、雲雀に背を向ける。
「雲雀様。すみませんでした」
燕の背中を見て、彼は諦めたのだと雲雀は悟った。諦めて、自分一人で何とかしに行こうとしているのだと。自分の命と引き換えに。妹を助けに行こうとしている。そんな気がした。
止めなければと思うのに、声が出なかった。雲雀は自分の体が震えているのに気付いた。
見えない大きな壁に阻まれているようだった。
「……黄昏時まで。私が時間を稼ぎましょう」
静かな声で、執事長が言った。
「執事長。なんとか、できますか?」
驚いた顔で、燕が執事長を見る。雲雀も同様だった。
「何とかします。見届けるつもりでしたが、私も何もしないでいるわけにもいきませんから」
執事長の言葉は、何かを決意したかのように思えた。
「ですから、雲雀様。それまでによく考えてください。あなたにしかできないことを。旦那様と血の繋がったあなたにしか、できないことを」
執事長はそう言って、雲雀に向かって昔から変わらない微笑みをくれる。思えば彼はいつも雲雀のことを優しく見守ってくれていたのだ。雲雀は「うん」と頷いて、「ありがとう」と思った。