小さな愛
父が家から出て行ったのは、菫が八歳の頃だった。今でも鮮明に覚えている。ある朝、起きるとすでに父の姿はなく、赤ん坊を抱いたまま静かに泣く母の姿だけがそこにあった。どうしたのか尋ねても、母は何も言わずにただ菫の頭を撫でた。今思えばあの日以来、母の泣いた顔を見たことがない。本当に強い人だ。辛くて苦しいはずなのに、それから一人で文句の一つも言わずに菫と月見を育ててくれた。
菫はずっと父親を憎んでいた。母を泣かし、勝手にいなくなった父を。理由を知った今でも許すことができない。自分たちのために家を出たのだとしても。いくら謝罪されても。菫の心に空いた穴は埋められそうにない。
――月見を守れるのは私だけ。と菫は思っていた。あの日。母が地下室へ降りた日。力を継ぐ代わりに月見を守ると、菫は母と約束した。普通の女の子として生きたいと言った可愛い妹を、命を懸けてでも菫は守ると決めたのだ。
だから……。今、目の前で起こっているこれを理解するのに時間はかからなかった。父のことを知りたいからついていくと言った月見を責めるつもりもない。何かあるとわかっていたから、菫も一緒に来た。ただ月見と父を二人きりにするのだけは避けたかったから。
「ご苦労様です。神楽坂隊員。あとは我々にお任せください」
黒服の男が数人、菫と月見を囲うように立っていた。
菫は傍にいる月見の手を右手でぎゅっと握る。冷や汗をかいていた。
「待ってくれ。話が違うじゃないか」
父が叫ぶように言った。
「女の若い華士を連れてくるようにとの、陛下のご命令ですので。あなたは必要ないのですよ」
男の一人がそう言ったので、菫と月見は思わず顔を見合わせる。
「娘に会わせれば、華士の秘密を教えてくれるというのは嘘か。娘たちをどうするつもりだ。簡単に引き渡すわけにはいかないぞ」
「そうですね。もとより陛下は、あなたに秘密を教える気などありませんでした。諦めてください。彼女たちがどうなるかは、陛下次第です。とでも言っておきましょうか」
男たちが、菫と月見の腕を掴もうとしてくる。菫は月見を触ろうとした男の手を見ると、それを払う。
「女の若い華士が必要なら、私だけ連れて行ってください。月見は、華士ではありません。力の使い方を知っているのは私だけですから」
菫の言葉に、月見と父が目を丸くする。
「お姉ちゃんっ」
焦るように月見が叫ぶ。何を言うのとでも言いたげな瞳が菫を見つめてくる。
「……菫。それは、本当か」
信じがたいとでもいうような表情で父が言った。
「本当よ。だから月見は必要ないでしょう。証拠なら、ここにある」
貫きなさい。と菫は念じる。植物はその想いに答えてくれる。菫の体から伸びた蔦は勢いよく黒服の男の腕を貫いた。
「……っう」
男たちが腕を押さえる。蔦は菫の頭から、腕から、手の甲から、足から、膝から。何本も伸びていた。
「この女!」
菫は男たちに取り押さえられる。抵抗はしなかった。月見を守れるならそれでよかったからだ。菫は地面に体を押し付けられながら、月見を見上げる。
「お姉ちゃん。やめて、お姉ちゃんを放して」
月見は必死で黒服に掴みかかるが、軽くあしらわれる。月見も自分が敵う相手ではないことに気づいている。
菫は一度目を伏せると、次に放心している父に視線を送る。予想外の出来事に、頭が追い付いていないという様子だった。
菫は父に向かって告げる。
「私の代わりに、月見を守って」
父はそれに気づくと、黒服を掴んでいた月見の腕をとった。そして首を横に振る。
「いや。離してっ」
抵抗する月見に向かって、父は強い口調でこう言った。
「菫の想いを、無駄にするな」
月見は菫を一瞥すると、父に掴まれていた両腕をゆっくりと下した。
「この女を連れていけ。あとは必要ない」
黒服の中で一番、体格の良い男が菫を肩に担ぐと歩き出した。菫は蔦を体内にしまって無抵抗をきめた。泣きながら菫を見送る月見と、父の姿を見つめながら菫は思う。これでよかったのだと。
この選択をした菫を、チトセと雲雀はきっと怒るだろう。月見を見守りたいから自分を守ってほしいだなんて、頼まなければよかった。結局、菫は月見のために自分を犠牲にする。彼らを裏切る。けれど、いいのだ。月見を見守る役目は、父に託す。それが彼の罰にもなるはずだ。