胸騒ぎの夜(2)
伊良市に巨大な隠が現れた事件を解決に導いた際、野駒大臣の息子ではないかと週刊誌の記事にされそうになった。記事が出れば必然的に雲雀は学校にいられなくなるだろう。それを止めてくれたのが彼女。深山鶫だった。
「待ってくれよ。深山さんに何かされたのか。話がさっぱりわからない。だってあの人は、父上の命令に逆らって俺を助けてくれたんだぞ」
「今回は逆らえない状況だったとしたら? お前は何も知らないだろう。あの娘のこと」
言われて、雲雀は口ごもる。確かに鶫は謎だらけだった。父である野駒日雀が息子にすら隠し通してきた謎の騎士団。守護騎士団。鶫はその副団長だという。雲雀はそれ以上のことは何も知らない。彼女も多くは語らなかった。しかし、今回帝都行の列車や泊まる宿を快く手配してくれたのは彼女だ。だから少しも疑わなかったのだ。
「話があるって言われたんで、俺とルリはなんの疑いも持たずにあの娘についていった。あの人ごみだったからな。落ち着いて話がしたいといわれた。そして連れていかれた場所は森の入り口だった。俺たちの他にも竜人がいた。……あとはわかるよな」
雲雀は顔をしかめるしかなかった。その場にいた全員が、なんと言ったらよいものかわからないという様子だった。
一昨日。鶫は別れ際に「何かあったらすぐに駆け付ける」と言っていた。だが雲雀は彼女を呼ばなかった。何かあったにもかかわらず彼女を呼ばなかったのは、守護騎士団の一員である彼女に知られると父の耳に入る可能性があったからだ。雲雀はどうしてもそれを避けたかった。単純に、迷惑をかけたくなかったのだ。それなのに。
「つまり、森の入り口から妖精たちに呼ばれた、と。それが意図的に行われたことだとチトセは言いたいのね」
ワカバが顔をしかめながら言った。
「私たちだって最初は偶然かと思ったよ。だって。森は確かに静かだったし、他意はないと思ったんだよ? でも、あの子何も言わずにその場から去っていったの。呼び止めるのも聞かないで。その後、私たちは妖精たちに従うしかなかった」
ルリは目をぎゅっと閉じ、眉根を寄せながら言った。自分たちの見たものを嫌悪するかのようだった。
雲雀はない頭で考える。鶫がどうしてそんなことをしたのか。それは父が指示したことなのか。
「なるほど。僕たちをわざわざ部屋に集めたのは、その話をするためか。――何となく見えてきたぞ」
不意に黒田がそう言って、手を右ポケットに入れた。彼はそこから一枚の紙を取り出した。四つ折りにしてあったそれは両面に細かな文字が書かれている様子で、雲雀はすぐに新聞だとわかった。
「なんです? それは」
菫が首を傾げながら、黒田に尋ねた。
「昨日の夕刊だよ。雲雀くんのお父さんの記事が書いてあったんで切り抜いておいた。伝えるか迷っていたんだが、チトセくんたちの話を聞いてもしやと思った」
黒田は言いながら、その新聞の切り抜きを広げた。椅子から立ち上がり、困惑した表情の雲雀の前に立ち、それを見せてきた。
「雲雀くん。君のお父さんは何をしようとしている」
黒田の言葉に、雲雀は何も答えられなかった。
記事の見出しには大きな文字で、こう書かれていた。
『野駒日雀大臣。皇帝に物申す?』
昨日の帝国議会で、どうやら父は感謝祭の延期、又は中止を提唱したらしい。皇帝陛下のわがままに付き合う必要はないと。父に賛同した一部地域の者たちは感謝祭の参加を拒否しているらしい。皇帝陛下のお触れは絶対だ。逆らうなど許されないことだ。この国に住まう以上、自然とそういう考えになる。国で一番偉いのは皇帝陛下だからだ。それをあろうことか、自分の父がそれはおかしいと主張しているというのだ。昔から、そういうところがあったのは否定できない。けれど、これは――。
「父上は、自分が常に正しいと信じています。だからこそ、わからないんです。俺には何も、わかりません」
雲雀は首を横に振った。
「これは僕の憶測だけどね。野駒大臣は鶫ちゃんや他の守護騎士団の団員を利用して、森に竜人たちをおびき寄せた。感謝祭を中止にするためにね。もしかしたら妖精たちとは協力関係にあるのかもしれない」
黒田は雲雀を見下げたまま言った。
「感謝祭を中止にして、なんの得があるの」
月見が黒田を見て、首をかしげる。
「さぁ。そればっかりはわからないね」
そう言って、黒田は肩をすくめた。
*
明け方、小さな物音で目を覚ました雲雀はゆっくりと身を起こした。ぼうっとする頭で窓のほうを見ると、チトセが椅子に座って外に視線を向けていた。チトセは雲雀が起きたことに気づくと、こちらを向いて言った。
「おはよ。眠れたか」
「おはよう。あんまり寝た気がしないよ」
雲雀は言いながら立ち上がって、あくびをしながらチトセの向かい側の椅子に座った。
「チトセはずっと起きていたのか」
雲雀の言葉に、チトセは頷いた。
「ああ。寝る必要がなかった。二日ほど森にいたから、力が回復したんだ」
「妖精の力のおかげなのか。……そういえば、妖精と竜人って元からああなのか?」
雲雀は納得して、それから疑問をぶつける。
「昨日の話か。太古の昔から、そうだろうな。澄んだ森でしか生きられない妖精が魔力を作り、その魔力を食うことでしか生きられない竜人が存在する。人間は妖精を利用し、魔法という便利な力を手に入れる代わりに竜人と森を守る約束をした。それで今が成り立っている。妖精の力がないと俺たち竜人は生きられない。本能的に逆らえないのはそのせいだろうよ」
チトセは再び窓の外を見ながら言った。
「でも、チトセたちは逆らった。妖精の女王を怒らせてしまったら、まずいんじゃないのか」
雲雀は昨夜のことを思い出しながら言った。妖精女王はすごく怒っている様子だった。チトセとルリが来てくれなかったらと思うと恐ろしい。
「雲雀。俺が村を出たのはな、長。かつての竜王にあることを言われたからなんだ」
チトセの横顔はとても真剣だった。チトセたちがよく口にする長。とにかく竜の中で最も偉い人なのだろう。
「あること?」
雲雀は首を傾げる。
「人間の命は我々より遥かに短い。あっという間だぞ。後悔する前に行動したほうがいい。とな。現に最初にあの幼子と出会ってから十七年経っていた。だが村を出る勇気がなかった。ここを出て暮らしていけるだろうか。妖精たちの言う通り人間の街は恐ろしいものであふれているのだろうか。と色々考えてしまっていた。その背中を押してくれたのが長だ」
普段のチトセからは考えられないような話だった。
「十七年間、俺はあの子のことばかり考えていた。元気でいるだろうか。病気などしていないだろうか。……もう一度会えるだろうか。と」
それはチトセの本音だった。神楽坂菫のことだと雲雀にはわかっていた。チトセの想いはそれほどまでに、昔たった一度だけ出会った少女に向けられていたのだ。
「チトセ……」
雲雀は呟くように彼の名を呼んだ。哀しくなったからだ。十七年間焦がれていた彼女に、あの時のことをまったく覚えられていなかったことが。昨夜のことがあっても、思い出したそぶりもないことが。雲雀はチトセのことを考えると胸が苦しくなった。
「森にいたら、あの頃のことを思い出した。強く、お前らに会いたいと思った。いつの間にか俺の居場所は、あの狭くて古い神楽坂古書店になっちまった。だから、俺は妖精女王に逆らったこと、後悔なんてしていない。ルリだってそうだろうよ」
チトセの視線が、雲雀に向いた。一瞬だけ、笑ったような気がした。
「ふがっ」
突然、黒田が鼻を鳴らしたので雲雀は驚く。チトセの視線も黒田に移る。暑かったのか、黒田は上布団を蹴飛ばしていた。雲雀は仕方ないなと椅子から立ち上がり、黒田の大きな腹に布団をかけ直してやる。
「昨夜、お前らが騒ぎを起こしてくれなかったら、きっと俺たちは戻れなかった。だからありがとな」
チトセにしては珍しく、礼まで言うので雲雀は不安になる。振り向くとチトセはまた窓の外を見ていた。外は日が昇り始めている。