予期せぬ際会(1)
夜の帳が下りると、街は昼間の喧騒が嘘のように静寂に満ちていた。チトセとルリはまだ帰ってきておらず、雲雀たちは不安が募る一方だった。信じて待つしかないとわかってはいても、心は落ち着かなかった。
「今日は疲れたでしょう。雲雀たちは寝てください。私が残ります」
一階の待合室のソファに座ったまま、菫はそう言った。
「菫さんは、寝なくても平気なんですか」
雲雀が尋ねると、後ろからワカバの声がした。
「そんなはずないわ。あたしも一緒に待つから、眠くなったら寝て」
「でも……」
「あなたの妹が心配していたわ。言うとおりにして。それにあたし、竜人だから寝なくてもあなたたちよりは元気よ」
ワカバが菫に向かって優しい顔をする。その気遣いが、彼女らしかった。確かに竜人族は人間より身体が丈夫で、長生きだ。体の構造が違う。睡眠をとる必要もあまりないと以前聞いた覚えがある。
「わかりました。お言葉に甘えます」
菫は渋々頷いて、それからワカバと二人でチトセたちを待つことにした。雲雀はそんな二人を置いて部屋に戻ることにする。結局、今日は通り魔が現れなかった。だが油断はできない。今日のように何が起こるかわからないのだ。雲雀は歩きながら顔を上げる。しっかりしなければと気合を入れるために、両手で顔を軽く叩いた。
戻ると部屋は薄暗く、窓の近くの机に置かれた小さな灯りだけが仄かに照らしていた。蓮太はもう布団の中で眠っていて、黒田が薄明りの中、椅子に座って新聞を読んでいた。
「おお。どうだった。菫ちゃんは」
雲雀の姿を見るなり、黒田はそう言った。蓮太が寝ているので声は小さめだった。
「黒田さんの言った通りでした。ずっと一階で待っていますよ」
雲雀も黒田と同じように小さな声で返答した。
「そうかぁ」
頷きながら、黒田は開いていた新聞紙を閉じた。
「あの子も頑固だから、一度決めたらなかなか動かないだろう」
「はい。でも、ワカバが一緒に待つことになったので、多分無理はしないでしょう」
「そうだといいがな」
黒田は新聞紙を二つに折り、机の上に置いた。黒田と二人きりというのは随分と久しぶりだった。あれは最初に隠と会って死にかけた時だったか。治療をしてくれたのは黒田だった。
「黒田さん。一つ聞きたいことがあるんです」
「なんだ」
「菫さんと月見の父親のことなんですが」
雲雀の言葉に、黒田の顔つきが変わったような気がした。
「答えられる範囲でいいなら」
雲雀は、小さな丸机を挟んで黒田の向かい側に置かれていた椅子に座る。ずっと尋ねたかったことだ。菫と月見の父親。彼女たちはその人の話を雲雀にしてくれたことはない。黒田は二人の父親の友人だと以前言っていた。なら、彼から聞くしかないと思うのだ。
「単刀直入に聞きます。なぜ、父親は家を出て行ったんですか」
おかしいと思っていた。妻がほとんど植物になりかけていて、娘もそのうちに同じようになる。それなのにそれを放って家を出ていくなんて正気ではない。何か理由があるのだろう。そうでなければ彼女たちが可哀想だ。その理由を黒田は知っているのだろうか。知っていて協力しているのか。雲雀は黒田の答えを待った。
黒田は息を吐いてから、静かにこういった。
「月見ちゃんが生まれたばかりのころ、とある事件があってな」
「とある事件?」
雲雀は首をかしげる。
「事件は解決したんだが。きっかけの一つではあったんだと思う。葵が急に家を出ていくと言い出した。ああ、葵というのが名前なんだが。当時、菫ちゃんは八歳。月見ちゃんはまだ赤ん坊だった。ああ。そういえば。君とチトセはあの子たちの母親を見たんだったな」
確かめるように言われたので、雲雀は黒田の言葉に頷く。
「何か関係があるんですか」
「あの事件で母親の桔梗は力を使いすぎてな。そのころから徐々に植物化が進行していくようになった。葵はひどいショックを受けた」
「それで、逃げるように?」
雲雀が尋ねると、黒田は首を横に振った。
「いいや。違うな。あいつは呪いを解く方法を探しに行くと言ったんだ」
「呪い? あれが呪いだっていうんですか」
雲雀は思わず声を荒げる。黒田が布団で寝ている蓮太を横目で見てから、自分の人差し指を立てて「しーっ」と言った。幸い、蓮太が起きる気配はない。雲雀は改めて声を潜める。
「植物に愛されて、力を与えられたんですよね」
「それが、呪いなんだよ」
黒田が言う。呪いだなんて、雲雀はそんなことを考えたことがなかった。あれは神聖な力で、なくなることはないと勝手に思っていた。でも、確かに。植物になってしまう呪いと言えるのかもしれない。それを解く方法を、探すなんて。そんな方法が本当にあるのだろうか。力を使っても体が植物にならない方法。そんなものがあったら、もしあったとしたら。どれほど菫たちが喜ぶだろう。
「じゃあ。その葵さんは家族のために家を出て、植物にならない方法を探しているんですね」
「ああ。葵自身も、華士だからな。自分のためでもあったんだろう。聞いていると思うが、一族間で結婚する場合が多くてな。葵と桔梗も親戚同士だった」
妻のため。娘のため。そして自分のために呪いを解く方法を探しに家を出た神楽坂葵を、雲雀は責められないと思った。自分の父親がもし同じ立場だったら、同じようにするだろうか。少しは息子のことを考えてくれるだろうか。
「呪いを解く方法。黒田さんはあると思いますか」
雲雀は尋ねてみる。
「わからん。だが、だが、あいつは手がかりを掴んだようだ。実は時折、僕のところに手紙が届くんだ。向うの居場所はわからんが、状況だけはこちらに知らせてくるんだ。そこに書かれていたんだが、神楽坂家の何か重大な秘密を知ったらしい」
黒田の言葉に、雲雀は目を丸くする。
「重大な秘密って、何ですか」
「詳しくは書かれていなかった。僕が知りたいぐらいだよ」
「手紙のこと、菫さんたちには言っているんですか」
気づいたら黒田を質問攻めにしていたが、雲雀は構わずそのまま続ける。
黒田は首を横に振った。
「いや。言っていない。言ったところでこちらの状況は何も変わらないよ。菫ちゃんは家を出て行った父親をよく思っていないし、月見ちゃんにいたっては興味もない。それはそうだろう。十四年間。葵は一度も家に帰ってきていないんだから」
雲雀は黒田の言葉に、顔をしかめた。もしかしたら彼は、葵に対して腹を立てているのかもしれない。でも考えてみれば、当然だ。葵がいくら家族のために頑張っても、その家族に寂しい想いをさせている。だから、菫と月見は一言も父親のことを話さないのだ。
「どこの家庭も、上手くいかないものですね」
雲雀は呟いた。
「少ししゃべりすぎたかな。雲雀くん。今の話は、彼女たちには言わないでくれ。いずれ時が来たら、僕が話すつもりだから」
黒田の言葉に、雲雀は頷いた。胸の奥にしまっておくものがまた増えてしまった。
黒田があくびをしながら「そろそろ寝よう」と言った。雲雀も寝ることにして、布団にもぐる。隣で先ほど横になったばかりの黒田が、もういびきをかいて寝ている。寝つきの良くない雲雀は羨ましいなと思いながら、瞼を閉じた。