片足は混沌へ(後)
書類を片づけて階段を下りると、黒田は慨に布団で眠っていて、その姿を優しい瞳で見つめる姉と、相変わらず冷たい双眸をしたチトセがいた。
「月見。お饅頭美味しかったって。黒田さん」
「そう」
姉の言葉に、月見は軽く返事をした。
月見は姉の座っている横の座布団に腰を下すと、饅頭を手に取った。淹れてあった緑茶を飲み、饅頭を一口食べる。中に詰められたこしあんが美味しかった。
「チトセも、食べてみる?」
月見は不意に思い、チトセに饅頭を勧めてみる。竜人は肉を好む。こういうものは食べないと思うが。
「遠慮する」
そう言いながら、チトセは緑茶だけを飲んでいた。
「こんなに美味しい物も食べられないなんて。可哀想」
「人間とは種族が違う。好みも違うのは当たり前だ」
「ふーん。理解できない」
「俺の方こそ、理解できん」
チトセとは、どうやら理解し合えないらしい。まあ、端から理解しようなどとは思ってもいなかったが。
「ねえ、月見。今度、みんなでどこか行かない?」
突然、姉が言う。
「いかない」
月見はきっぱりと言う。姉の思い付きは、ロクなことにならない。
「えー」
「勉強があるし」
「気分転換にさ」
「お姉ちゃん、呑気すぎる」
「そんなことないわよ。ちゃんとお仕事してるし」
「あたし知ってるんだから。最近ロクな仕事が来てないこと。気分転換したいのはお姉ちゃんの方じゃないの」
月見の言葉に、姉はついに返す言葉を失ったようだった。ロクな仕事。事件関係。賞金首を追いかけること。危険な仕事ばかりだった。
月見の姉、神楽坂菫は華士だ。華士には特別な力があって、その血は植物に愛されている。体から植物を生み出したり、地中の植物を操ったり。だが植物に愛されるがあまり、最期は植物に殺される。
母のように。
姉は母から力の使い方を受け継いで、月見は受け継がなかった。自分の我儘で、姉に華士を押しつけた。
普通の女の子として生きていたかったから。
華士をやっている以上、危険は避けられないことだろうけれど、月見はよく思っていない。華士は警察官じゃないんだ。
これなら迷子探しとか、犬猫探しとかしてるほうがよっぽど安全だ。
「月見。私はね、月見の気持ちが痛いほどよくわかるの。もしかしたら私が思っている以上に今、月見は辛いのかもしれないけれど。でもお母さんが現役だった時のことを知っているから。今、私がお母さんと同じことをして同じ辛さを味わっているのは、無駄なことじゃないんだって思う」
姉は真剣な表情でそう言った。
「でもお姉ちゃんは、お母さんじゃないでしょう。お母さんとは違うでしょ?」
「私は、確かにお母さんとは違うけど。でも今、お母さんの辛さをわかってあげられるのは、私しかいないから。いずれは私も今のお母さんみたいになるのよ」
姉の言葉に、月見は頭が沸騰しそうになるのを感じた。
「あんなのお母さんじゃない」
月見は思わずそう呟いていた。
「月見?」
姉が顔をしかめたのがわかったけれど、月見は止められなかった。
「お姉ちゃん。あたしたちのお母さんは死んだの。あの日。とっくの昔に死んだの」
月見は食べかけの饅頭を震える手で握りしめていた。少しでも力を入れると、饅頭の中のこしあんが外へ押し出される。
理解できない。本当に、月見は理解できない。全てが。
地下のあれは母ではない。母の姿をしているけれど。じゃああれは何? と、問われると答えられないけれど。
いずれは姉も姉ではないものになってしまう。それはわかっている。わかっているけれど、どうしようも出来ない。
月見は無力だった。
体が植物に蝕まれていく病気だと、黒田は例えた。まったくその通りだと思う。あれは病気だ。病気が母を殺したのだ。
月見たちの大切な母を。大好きだった母を。
体が植物になってしまう。普通の食事はとれなくなってしまう。養分は土からとるから。
ならばいずれ姉も、この饅頭を食べられなくなってしまう。そう思ったら無性に腹立たしくなった。この饅頭一個さえ、食べられなくなるなんて。
月見は後悔していたのだ。あの日、姉ではなく自分の方が力を継いでいればよかったと後悔した。今になって、そう思っていた。
こんなに辛いことになるなんて、理解できない。
月見は、この血筋に生まれたくはなかった。ただ普通に生きて、死にたかった。普通の家庭に生まれ育ちたかった。ずっと母を見ていたから。そう願ったのだ。
「月見!」
姉が名を叫んだ。瞬間。軽く左頬をはたかれた。頬は痛くなかったけれど、胸の奥底が痛んだ。わかっていたことだ。姉の前で母は死んだのだと言えば、こうなることぐらい。わかっていた。姉が傷つくことくらい、知っていた。けれど止められなかった。言葉は口を吐いて出てしまった。もう遅い。
「なんて、事を言うの」
震える声で、姉が言った。月見は左頬を手で押さえた。
黒田は静かに眠っていて、チトセは興味なさげにこちらを見ていたけれど、緊迫した空気が流れていた。
「やっぱり。そう思っていたのね」
確信したように、姉は言った。
「思ってたよ。ずっと。思ってた。あの日から」
もう駄目だ。月見はそう思った。もうお終いだと思った。食べかけの饅頭を机の上に置いて、ゆっくりと立ち上がる。
「お姉ちゃん。あたし、少し出掛けてくる」
そう言って、月見は店の外へと歩き出す。
「……月見。いって、らっしゃい」
姉の声が後ろから聴こえたけれど、月見は振り向きもせず、返事もせずに歩いた。月見は逃げたのだ。
「待て」
店の鍵を開けて、扉を開けて外へ出ようとしたら、突然チトセが閉じる扉の端を掴んで制止をかけた。
「な、何よ」
月見は怪訝な顔をチトセに向ける。
「どこへ行く」
「どこへだっていいでしょ。あんたには関係ない」
「俺には関係ないが、菫には関係がある」
チトセの言葉に、月見は顔をしかめるしかなかった。一体どういう意味だろうか。
「お前は、菫の大事な妹だ」
その言葉に、どんな意味が隠されているのか月見にはわかっていたけれど、それでも月見はチトセの言葉の意味をわからないふりをした。
「何が言いたいの。何がしたいの」
「お前の態度が菫を傷つけている」
「もう、勝手にしろ」
月見はチトセの話を聞くのも億劫になって、そのまま扉から手を離して歩き出した。
何故だか知らないけれどそのままチトセが月見の後を歩いているのは気づいていたけれど、気付かないふりをした。
チトセは姉だけ気にして、見ていればいいのに。それともこれは、姉のためなのか。それはそれでなんだか腹がたつ。
月見はしばらくあてもなく街をさ迷っていた。
「いつまでついて来る気よ」
「知らん」
道の途中で少しだけ振り返って、月見はチトセに向かって言うが、彼は無愛想にそう言った。
「俺も、どうしたらいいのかわからない」
それから虚ろな目をしてチトセが言う。
「何よそれ」
月見はチトセに向かってしかめっ面をした。
「俺は、菫のためにしてやれることがあるならなんでもしようと思っている。お前は菫の大事な妹だから。あいつはお前のために生きることを望んだから、俺はその想いを叶えてやろうとしている。だが、お前たちの関係はどうも噛みあっていない」
チトセはそう言って、月見のことを真剣な表情で見つめてくる。真っすぐな、曇りのない目。月見はその目が苦手だった。
「あたしたちの問題に、首を突っ込んでこないでよ」
月見はチトセから目をそらした。
「それは難しい相談だ。何故ならお前は菫の大事な――」
「ああ。もう、わかったわよ。戻ればいいんでしょう」
月見は馬鹿の一つ覚えみたいに同じ言葉を繰り返そうとするチトセの口を両手でふさぐと、観念したようにそう言った。
「それでいい」
チトセは月見の手を掴み自分の口から引きはがすと、呟くように言った。気のせいか彼は笑っているように見えた。チトセもお人よしだと月見は思う。月見の周りにいる人たちはみんな、優しい。それが時折とても哀しい。いつか壊れてしまうのではないかと不安でたまらなくなる。
その後、月見とチトセが家に戻ると姉はいつも通りに迎えてくれた。月見が気まずそうにしていると姉はほほ笑んで、頭を撫でてくれた。もう気にしていないと言わんばかりだった。
月見はそんな姉を見て胸が苦しくなった。