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飛竜の華  作者: 黒宮涼
哀を唄えば
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片足は混沌へ(前)

 神楽坂月見にとって、姉のすみれだけが家族だった。父は月見が生まれてばかりのころ家を出て行ったらしく、顔はまったくと言っていいほど覚えていない。家族写真で見たことはあるが他人のように感じていた。そして母はもう生きてはいない。母はあの日。死んだのだ。姉が眠らせてあげたのだ。月見はそう思っている。

 神楽坂古書店には、秘密の地下があった。それは月見でも知っている。知らなければいけないからだ。その地下に何があるのかも知っている。けれど月見はあの日以来、一度も地下に降りたことはない。

 だから少し驚いたのだ。姉がある日突然連れてきた二人の男をあれに会わせたこと。二人がそれを受け入れたこと。月見は信じられなかった。一生理解できないと思った。

 だって、あれは。生きてはいないのに。


「では黒田さん。よろしくお願いします」


 姉が唯一の店の常連。黒田に頭を下げる。黒田は父の友人だった男だ。たまに昔の父の話をしては懐かしむように月見たちを見てくる。


「ああ。今日も三十分ほどで終わるから。よろしく頼む」

「はい」


 黒田は言って、姉は頷いた。そして彼は地下に降りていった。その間、やることは決まっていた。

 店を閉めて近くの菓子屋で買った物を出して、湯を沸かす。これを三十分のうちにやればいい。ああ、後はふかふかの座布団を用意しておかないと。それと掛け布団。黒田はいつも地下に潜って戻ってくると物凄く疲労しているため、たまにそのまま寝てしまうのだ。


「あら。チトセ」


 姉が店の扉を閉めようとしているところへ、無愛想な竜人のチトセ・ヒ・リイヤがやってきた。彼は普段、この神楽坂古書店で働いてくれている。とは言ってもいつも椅子に座っているだけで特に何もしていないような気がする。


「何故、閉める」


 チトセが呟くように言う。


「昨日、言いませんでしたか。今日は来なくてもいいですよって」


 姉が言うが、チトセは頭を掻いてこう言った。


「そうだったか」


 チトセはそう言ったが、月見は昨日その場に居合わせていたので覚えている。姉は確かに今日は来なくていいとチトセに言っていた。

 そんなことはすっかり忘れていたようで、チトセは普通にここに来てしまったみたいだった。


「つい、いつも通り来てしまった。とりあえず中にいれてくれ」


 チトセに押し切られて、月見たちはチトセを店の中にいれた。チトセはこの間からこの家の近くに部屋を借りて住み始めたらしい。家賃はここで働いたお金で払っている。それまでは野宿していたというから驚きだ。

 また面倒なことになったなと、月見は思った。

 今日は休日で、いつもなら店番をしながら受験のために勉強をするところなのだが、近頃の店番は全てチトセに任せているし、今日は特別な日なので勉強はお休みだった。

 あまりこんを詰めるのもよくないしと、姉は言った。


「チトセ。せっかくなので手伝っていただけませんか」


 姉は都合がいいと言わんばかりに、チトセを利用するつもりらしかった。彼が来てから姉は明るくなった気がする。よく二人で買い物に出かけているみたいだし、仲良くやっている。


「月見。少し二階へ行ってくるから、よろしくね」

「あ、うん」


 姉に言われて月見は頷いた。

 二階には姉の仕事場がある。二階へ行くということは、仕事のことでチトセに手伝いを頼むのだということが容易にわかった。

 姉たちが二階に上がってしまうと、月見は一人で黙々と布団を出して準備をした。月見がこの待っている時間が嫌いなことを、姉は知らない。黒田もきっと知らない。

 月見は黒田が今、何をやっているのかを知っている。でもそれは無駄なことだと思っている。でも黒田も姉も、そうは思っていない。

 地下で眠っているあれは、もう母ではないのに。

 母は死んだのだ。あの日に。姉に力を託して。

 今、その母ではない別の何かを、黒田は治癒魔法を使って延命処置している。月見には理解できなかった。そんなことをしてなんになるというのだろう。

 月見は嘆息しながら、黒田のために用意した布団の上に寝転がる。こんなこと、自分らしくないけれど。黒田が地下にいる日はいつもこんな感じだ。表面上、明るく取り繕ってはいるけれど。本当はいつも、不安で押しつぶされそうだった。

 どれくらい経ったのだろうか。不意に店の方で音がして、月見は急いで店の方へ向かった。


「黒田さん……」


 先ほどの音は、黒田が疲れきった顔で地下へ続く扉を閉めた音だった。


「ああ。月見ちゃんか。終わったよ。これでまたしばらくは……」

「そうですか」


 黒田の言葉を遮って、月見はそう作り笑いをして言う。


「お疲れ様です」


 そんな月見の顔を見ても黒田は優しく微笑む。覚束ない足取りで、月見の方に向かってきて、肩に右手を添えてくる。


「すまない。少しだけ肩を貸してくれ」

「はい」


 黒田は気づいている。彼は優しい。

 時折、彼が父親なのではと疑う。だけどそれは違うのがわかっているから、何だか月見は悲しいのだ。


「よおし、充電完了だ」


 黒田は微笑みながらそう言って、月見から離れた。


「はい」


 月見は頷いた。

 それから、月見は本棚の位置を元に戻す。これで地下には簡単に入れない。


「黒田さん。今日は黒田さんの好きなお饅頭なんです。あ、お姉ちゃんを呼んできますね。チトセも来てしまったんですよー」


 黒田に話しかけながら、月見は階段の方へ向かう。


「月見ちゃん」


 呼びかけられて、月見は立ち止まった。


「何ですか」


 酷く、心のない声だった。


「今日、お母さんがね。月見ちゃんのことを聞いて――」

「何言ってるんですか」


 月見は再び黒田の言葉を遮る。


「お母さんは生きていませんよ」


 月見はそう言うと、黒田の次の言葉も待たずに、二階への階段を上った。

 本当は月見だってわかっている。黒田の言葉を最後まで聞くべきなのは。だが、怖いのだ。怖くて怖くて仕方がないのだ。

 黒田の言葉を聞いてしまえば、あれが自分の母親だと認めてしまうことになる。それだけは嫌だった。

 何のために月見がこの道を選んだか。姉を犠牲にしなければならなかったか。

 考えても考えてもそれが間違いだったということしか答えが出てこない。だから月見はもう、考えるのを止めたのだ。これは正しいことだと、自分で自分を肯定したのだ。

 母はもう、死んだ。

 父もどこかへ消えて、もう二度と会うことはない。

 それを自分の中で肯定する。自分自身を肯定する。そうすることでしか、自我を保てない。強がれない。明るく出来ない。

 月見は一生抜け出せない混沌に片足を踏み入れてしまったのだ。

 もう戻れない。


「お姉ちゃんー。チトセー。入るよ」


 月見は事務所の扉を軽く叩いてから、そう声をかけて部屋に入る。

 たまの話だが、扉の前に白板があってそれに扉をぶつけることがあるので、ゆっくりと扉を開ける。なんの障害もなく開いた。


「あ、月見。呼びに来てくれたの。ありがとう」


 姉が書類に埋もれながら言う。


「ちょ、どうしたの」


 月見はその姿に驚いて声を上げる。


「積んだ。倒れた」


 傍にいたチトセが、酷く簡単に状況説明をしてくれる。


「そんなこと、見ればわかるわ。問題はどうしてこうなるまで積んだのかってことよ。積み過ぎれば倒れるのはわかるじゃない」


 月見はチトセを見上げながら刺々しく言う。

 近頃思うのだ。チトセは本当に頭を使うのが苦手だ。少し考えればわかることなのに、少しも考えない。竜人は単細胞の生き物なのかと疑いたくなるくらいだ。


「そんなもの、知らん。積んでいたところに丁度菫が居ただけだ。わざとじゃない」


 チトセがまったく悪びれずに言う。


「あー。もうー。わかったわよ。わざとじゃないならいいわ」


 月見は軽く頭を掻いてから、書類に埋もれたままの姉に向かって両手を伸ばす。姉は差し出された手の意味がわからないのか首を傾げる。


「早くしてよ。黒田さんが待ってるんだよ」

「あはは。ごめんね。ありがとう。月見」


 やっと意図がわかったのか、姉はそう言って月見の手を取って起き上る。

 本当に、世話が焼ける姉だった。


「まったく、何を手伝ってたんだか」


 月見はチトセに向かって言う。


「書類の整理」

「書類のばらまきの間違いじゃないの?」

「まあまあ。二人とも」


 姉が月見とチトセの仲裁に入る。

 月見は別にチトセが嫌いなわけではない。ただ、姉の傍にいるのなら、もう少ししっかりしてほしいのだ。だから言い方がきつくなってしまう。


「お姉ちゃんたち、先行っててよ。あたしこれ、少し片づけてから行く」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて。チトセ。行きましょう」


 月見の提案に、姉は素直に甘えてくれた。こういう時だけ調子がいいのだ。チトセは姉の言葉に無言で歩きだす。まったく、返事ぐらいきちんとしろと言いたい。


 月見が床に散らばった書類を一枚拾い顔を上げると、チトセがまだ扉の所に立っていた。姉はもう下に降りたのか、チトセだけがそこにいて、何故か月見のところに戻ってきた。


「機嫌。悪いのか」


 背の高いチトセが月見を見下ろして言った。


「別に。悪くないわよ」


 月見はチトセを見上げながら言う。


「顔色が悪いな。無理するな」


 珍しく、チトセが人の心配をしたので正直月見は驚いていた。


「な、何よ。お姉ちゃんに何か聞いたの」

「別に。何も」


 月見の質問にそう答えて、チトセはきびすを返した。


「もしお姉ちゃんに何か聞いたなら、それはきっと気のせいだから。あたしは、平気だから。何も、ないから」

「……知らん。何も聞いていない」


 チトセは月見に背中を向けたままそう言うと、今度こそ部屋から出て行った。


 月見は持っていた書類に思わずしわを入れた。

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