希望の華(1)
ルリがワカバと蓮太が抱き合っている上に飛びつくのを見て、いつものルリの元気さが戻ったなと雲雀は思ってから気持ちを切り替えて、チトセの方を見た。
チトセは自分の足元でのびた隠使いから足を離し、黒田が隠使いを紐で縛るところを見ていた。
「チトセ。乗せてもらえるか?」
真剣な表情で雲雀はチトセを見上げて聞いた。
「俺は、落ちない。絶対に落ちないって、約束する。だから。お前に乗せてくれ。俺は、お前に乗りたいんだ!」
雲雀の言葉に、チトセがその鋭い眼で俺を見下ろす。
「どうしてお前は、そんなに小さな体して、そんなに気持ちが強いんだ」
チトセが言う。
小さな。とは、恐らく竜である自分と比較しての意味だろう。雲雀の身長はそんなに低くない。
「そんなの知らないよ。でも、俺は一度決めたことはとことんまでやる主義なんだ。だから俺は、絶対に意地でも、チトセの背中に乗る」
雲雀はチトセの目を見つめて言った。
やがてチトセが細く長く嘆息して、「好きにしろ」と言った。
「お前なら、あるいは。俺を乗りこなせるかもしれん」
そう言われたのが物凄く嬉しくて、雲雀は飛び上がって喜び、チトセの巨体に抱きついた。
「ありがとう! チトセ!」
雲雀の叫びに、チトセが首を曲げた。照れているようだった。
それから、黒田が持ってきていた紺色の首輪をチトセにかけて、雲雀はチトセに飛び乗った。心臓が高鳴って思わず顔が緩んだ。
「頼んだぞ」
黒田の目が、蓮太の目が、ワカバの目が、ルリの目が、雲雀たちを見ていた。
菫だけがずっと虚ろな顔をしていて、不安なのだなと思った。
「大丈夫だって。俺たちに任せろ。俺たちはみんなを守るためにあれと戦うんだ。
この街を終わらせないために!」
雲雀は勇ましく叫び、剣を鞘から抜く。
「チトセ。雲雀。死なないでくださいね。絶対ですから」
菫が不安そうな顔をして、雲雀たちを見上げてそう言った。
雲雀たちは菫に向かって頷いた。
危険が待ってようとなんだろうと、雲雀たちは死ぬために戦うんじゃない。守るために戦うのだ。大切な人たちを守るために。
チトセが上空に飛び立とうと羽根を広げた時だった。
「ああ……。私はまた失敗したのか……」
不意に聞こえてきた弱々しい声に、雲雀たちは驚いて思わずその声の方向を見た。
その声の主は、隠使いだった。
隠使いは顔を俯かせたまま、突然笑い出す。
「ふっふふふふ。ひゃっははははは」
しかしその笑い声にもはや気迫はなく、笑い声はそのまま空気に溶けていった。
「昔からそうだよ。全部、何もかも。上手くいかない……。私は、呪われているのだ。この世界に。魔法が使えないのは才能がないからだ? 才能がないからお前は駄目な人間だ? ふざけるなよ。ふざけんなよ!」
隠使いは誰かに問いかけるように言い、そして叫んだ。
「私は、出来る奴と出来ない奴で比べられるのは大っ嫌いなんだよ! 魔法も使えない、勉強もできない、体力もなくて運動も得意じゃない。才能もない普通以下の人間に、何ができる。端っから社会に見捨てられた人間に、生きていく価値もない人間に、何ができる。私は考えた。手元にあったのは隠の世界と繋がる鍵。それは私が知らぬ間に作り出していた鍵。私は無意識のうちに隠の世界と繋がっていた。私の中の闇が、隠の世界と同化していた。私は、隠使いになることに決めた。裏世界で生きていくことに決めた。裏世界でなら、生きられる。私は価値のある人間になれる。その時の喜びと言ったらなかったよ。嬉しいんだ。純粋に。そこでは私は、何者かになれたんだ」
そう言ってからもう一度、隠使いは笑う。
「はははっ」
雲雀たちは、言葉を失っていた。
雲雀たちは彼に、どんな言葉を返していいかわからなかった。
表の世界で生きていけない人間が、裏世界で生きていく道を見つけた。ただそれだけ。ただそれだけの話なのに。なんだか悲しかった。
「どうしてあなたは、あの隠を使って人間の心を喰わせようとしたんですか?」
菫が、隠使いに尋ねた。
隠使いはゆっくりと菫の顔を見上げる。
「世界が無茶苦茶になればいいと思ったんだよ。これは私の復讐だったんだ。でももう、それも終わるんだね。私の負けだよ。彼女を媒体にしたのは間違っていたようだ。今度は、勇敢な友人のいない媒体を探すよ」
隠使いは、雲雀とチトセを一瞥して悲しそうにそう言った。
「今度はないですよ。今度こんなことをしたら、ただでは済ませませんから」
菫はそう言って、隠使いを強く睨みつけた。
確かに、次は勘弁してほしい。と雲雀は思った。
「雲雀!」
チトセの唸るような声がして、雲雀は上を見た。
無数の触手が集まって、雲雀たちを目がけて伸びてくる。
雲雀はとっさにそれを剣で薙ぎ払う。
「そろそろ終わらせるか」
雲雀は呟いた。
*
チトセがその大きな羽根を羽ばたかせると、傍にある木々の葉が一斉に風に揺れて音を鳴らす。
雲雀は目の前に近づく隠の気持ち悪い眼球に剣を突き刺した。手ごたえは嘘のようになく、剣を抜いても血のようなものも出なかった。
それは悲鳴なのか。甲高い叫び声が雲雀の鼓膜を震わせた。
「うへ」
雲雀は顔をしかめる。
気がつくと雲雀たちの周りを、無数の小さな球体が囲んでいた。
そいつは電気を帯びているのか、小さな稲妻を発生させていた。
「ちょ、なんだよあれ!」
「知るか。来るぞ。しっかりつかまっていろ!」
チトセが叫ぶのと同時に、一斉に雲雀たちに向かって放たれる電撃。チトセはひらりとそれを交わす。
雲雀は体制を低くし、チトセの体から落ちないようになんとか持ちこたえる。
すぐに第二派が来るわけではないみたいで、球体は電気を空気中の妖精の力を集めている様子だった。
「充電している?」
「この隙に逃げるか」
チトセがそう言って隠の体から離れるが、標準が完全に雲雀たちに向いているのか、球体は雲雀たちの後ろを追ってきた。
雲雀は後ろを確認すると、チトセに言う。
「おい。追ってきているぞ」
「振り切る」
そう言ってチトセは加速して、森に突っ込む手前で軌道を変えて飛んだ。
「どうすればいいんだよ」
雲雀は必死でチトセの体につかまりながら言う。
「本体に近づかないと、らちが明かないぞ」
「俺が何も考えていないとでも?」
雲雀の言葉に、チトセがそう返す。
「え?」
雲雀はその言葉に首を傾げた。
一体どれくらい飛んだだろうか。ようやく隠の体の形が終わるところまで飛んで、チトセが今度は空に向かって飛び始める。
その間、他の竜騎士たちとすれ違う。翼の傷ついた竜が、地面に向かって落ちていくのが見えてぞっとした。悪い想像をしないように、何も考えないようにする。
「おい。お前たち学生か。やめろ。お前たちの叶う相手じゃないぞ」
残っていた竜騎士の声が聞こえたが、雲雀とチトセは無視して飛んだ。そんなこと、よく知っている。けれど、もう後には引けないのだ。
そうしてやっと、隠の体を雲雀たちが見下ろす形になった。まあ、待っていたのは触手と電撃なのだが。
それからさらに隠の中心部と思われるところまで電撃を避けながら飛んだ。
「行くぞ!」
チトセが叫び、雲雀たちは頭から隠に突っ込んだ。
「は? ちょっと」
雲雀は思わず目を瞑ったが、堅いものに当たるでもなく、むしろ柔らかい何かに包まれた。
隠の体の中に入ったようだった。そこは不思議な空間だった。
「チトセ? 何が、どうなって」
雲雀は思わず呟く。
「さっきお前が剣を刺した時に、中に何かある気がしたんだ。隠ってのは本来実体を持たないんだろう。なら、体の中がどうなっているのかもわからない。ひょっとしたら中に入れて、その中に何かがあるのかもしれない。そう思った」
チトセの考えたことはあっていたのだ。
水の中にいるみたいな感覚だった。体が浮いているようだ。
「うっ、ひっく。うっ、ひっく」
不意に、誰かの鳴き声が聞こえてきて、雲雀とチトセは気がつくと、どこかの草原に立っていた。すぐそばには湖が広がっている。
「ここは……?」
雲雀は思わず呟く。
「うっ。ひっく」
そこに、泣いている小さな女の子がいた。
あの子は一体、誰なのだろうか。
雲雀は手に持ったままの剣を鞘にしまってから、おそるおそるその女の子に声をかけてみる。
「どうしたの?」
雲雀が声をかけても、その女の子は振り向かず、下を向いてただ泣き続けるだけだった。おかしいと思ったので、雲雀は女の子の肩に手を触れてみる。手は空を切って、その女の子の存在を否定した。これは幻だ。雲雀はそう確信した。
「なあ、チトセ。これはどういうことだ」
雲雀はチトセのほうを向いたつもりだった。しかし、そこに先ほどまでいたはずのチトセの姿がない。雲雀は不安を覚えて、チトセの姿を探そうと周りを見まわす。
「チトセ?」
虚空を見つめて、雲雀は呟く。この空間は一体なんなのだろう。この泣いている少女の幻は、何か意味があるのか。雲雀が思考を巡らせていた時だった。
「おい、そこで何をしている」
突然、チトセの声がした。雲雀はその姿を見て安心した。先ほどと変わらぬ竜の姿をしていた。
「なんだ。チトセ。急に消えたからびっくりした」
しかし雲雀のことに気づいていないのか、こちらを見ようともせず、少女に視線を向けていた。気づいていないわけがないはずなのだが、何かが変だ。すると幻であるはずの少女が、チトセのほうを向いた。まるで声が届いているかのように。
「あなた、竜人なの?」
少女が、言葉を発した。頭を上げたので、雲雀はその少女の顔を見た。どこかで見たことがある気がした。とても似ているのだ。菫と月見に。三人姉妹だったのかと勘違いするほど、そっくりだ。
「ああ。そうだ。早くここから立ち去れ。でないと食ってしまうぞ」
チトセは牙を見せながらそう言う。どうやら、このチトセも少女と同じく幻覚らしい。雲雀はチトセの体に触れてみる。やはり実体はない。
状況を見るに、森に迷い込んでしまった少女を、チトセが追い出そうとしているようだった。
「すごい。私、竜の姿を見たのは初めて。街の竜人さんたちはみんな人の姿をしているから」
少女はそう言って嬉しそうにする。竜人は人間を食べないのだ。この脅しが聞かないと悟ったらしい。
「そうか。では街へ戻れ。戻らねば踏みつぶすぞ」
チトセはそう言いながら、その場で前足を上げてすぐに地面に下ろした。風圧で少女の髪の毛がなびく。肩まで伸びたその髪の毛は、菫と同じ白色だ。だから雲雀は思った。この子は、小さいころの神楽坂菫なのではないかと。
「ごめんなさい。入っちゃいけないのは知っていたけれど、少しだけ覗いてみたくて。そうしたら帰り道がわからなくなってしまったの」
少女はまた目に涙を浮かべていた。
「案内する」
チトセはそう言いながら、姿を変えた。彼女を可哀想だと思ったのかもしれない。チトセは、ちゃんと人間になったのかを両手の五本の指を動かして確認する。その変身に少女はまたも驚いた顔をした。
「本当にいいの?」
涙をぬぐいながら、少女はチトセに向かって尋ねた。チトセは「ついてこい」とだけ言って歩き始めた。少女は無言でチトセの後を歩いた。
「あ。待って」と雲雀は思わず口にする。二人の後をついて歩くことにした。
「ねぇ、どうしてあなたは森にいるの」
少女が歩きながら、チトセに質問を投げかけた。チトセは答えない。
「ここに住んでいるの? ねぇ。森には怖いお化けが住んでいるって本当? あなたは見たことがある?」
質問攻めにあっているチトセを見て、雲雀は微笑ましいなと思った。理由はわからないが、この幻覚はチトセの記憶なのかもしれない。
気が付くと、森の入り口まで来ていた。木々の隙間から街の建物が見える。チトセは足を留めて少女のほうに向いた。
「あとは戻れるだろう。妖精はいたずら好きなんだ。もう森に入ってはいけない」
「うん。でも、ねぇ」
少女はチトセの言葉に頷きつつも何か言いたげにしていた。
「なんだ」
「また会える?」
少女の質問に、チトセは眉をひそめていた。少女の小さな頭に右手を置いた。白い髪の毛が揺れる。
「約束だよ」
少女はそう言って、森を出て行った。チトセはこの約束のことを、覚えているのだろうか。雲雀はそれを知りたいと思った。
誰かの笑い声が聞こえる。
「くすくす」
雲雀は辺りを見まわすが、姿が見えない。もう一人誰かいるのだろうか。
「何かおかしいか。妖精」
チトセには見えている様子だった。何もない場所に顔を向ける。
「おかしいわ。すごくおかしい。約束だって。人間と、竜人が。まるで古き約束みたい。とても滑稽だわ」
妖精と呼ばれたその声は、ばかばかしいとばかりに笑う。雲雀はその声が不快だと思った。古き約束は、おそらく大昔に人間と竜人族の長が交わした契約のことだろう。
「だって人間の命って、とても脆いのよ。知っているでしょう。あなたは他の誰よりも、知っているはずよ。チトセ」
妖精の言葉に、雲雀はチトセが戦争で失った命を思い出す。
「ああ。嫌というほどな」
「だったらあんな約束は、忘れるべきだわ。あなたはずっとここにいればいいの。私たちと一緒にいればいいの。そうすれば幸せになれるわ。傷つかずに済むもの」
「ああ。そうだな」
チトセは頷いてから下を向く。
「さぁ、帰りましょう。私たちの森へ」
妖精の言われるままに、チトセは森の奥へと帰っていく。雲雀はそんなチトセの後姿を見ながら、チトセが村から出なかった理由を悟った。