愛情と愛憎による(2)
翌日、午後二時半のことだった。その日、事務所に一人の来訪者が現れた。
彼女は酷く顔色が悪く、何かに脅えている様子だった。
「あ、の。朝、拓海から電話が来て。おかしなことを言うんですよ」
「おかしなこと、ですか」
菫は彼女の顔色を窺いながらその言葉を繰り返す。
彼女は、田原愛美。殺された太田祐斗の恋人だった人だ。
何故、彼女がここに来たのか。
雲雀は疑問に思っていた。
事務所には、雲雀と菫とチトセ。そして田原がいた。雲雀と菫は田原の向かい側のソファに座り、彼女の話を聞いていた。
チトセは昨夜、隠によって割られてしまった窓の方を向いて、傍にある机の上に行儀悪く座っていた。窓には応急処置として、厚紙が張られていた。
「笑いながら、一緒に逃げようって。邪魔なものから逃げて、二人でどこか遠くへ行こうって。私、意味がわからなくて。でも薄々気づいてはいたんです。もしかしたら拓海が、祐斗を殺したんじゃないかって。私、知っていたんです。全部。知っていて、知らないふりをしていたんです。だって、二人とも大切だったから」
そう言って、とうとう田原は両手で顔を覆って、泣き出してしまった。
「拓海と待ち合わせした場所は、駅の裏手にある廃ビルの前です。三時に。お願いです、彼を、どうか彼を……っ」
震えた声で、田原はそう言った。
楠木拓海が雲雀たちをおびき寄せるための罠の可能性もあったが、彼女の表情はとても演技とは思えない表情だった。
菫は田原に確認するように聞く。
「太田さんと黒田さんが同じ病院に勤めていて、それで田原さんは黒田さんと知り合って、今回のことを相談したらここの話をされた。そうですよね?」
「はい。黒田さんは本当に私のことを気にかけてくださって。昨夜のことも黒田さんから電話で聞きました。私の方から、謝ります。本当にすみませんでした。私が、もっとしっかりしていれば、こんなことには……っ」
田原は雲雀たちに向かって頭を下げた。田原は今回の事件で大元の原因になった自分を責めているようだった。
しかし黒田がまさか裏で活躍していたとは思わなかった。あの人こそ一体何者なんだ。
二人の男が取り合った田原は、本当に良い人そうだった。綺麗な人だし。なんだか仕方のない気がしてきた。
「あの、差し支えなければ、事件前の三人の関係を、少し話していただけませんか」
菫が田原に向かって聞く。
田原は少しだけ躊躇したようだったが、きちんと答えてくれた。
「事件の起こる少し前に、私と祐斗は喧嘩をしたんです。本当に、つまらない喧嘩でした。祐斗が仕事で忙しくて、私はあまり構ってもらえないのが寂しくてつい。仕事が原因でまた会えなくなったことに対して、怒ったんです。私と仕事、どちらが大事なのって。凄くありがちなセリフとか吐いて。彼を困らせて。彼の気持ちとか全然考えずに。それで私、友人である拓海に相談したんです。それが多分、いけなかったんです」
やはり、原因は彼女にあったのか。と雲雀は少しだけ納得した。
なんだか、楠木拓海が可哀想に思えてきた。好きな女のために、少しやり過ぎてしまったのだろうか。
「そうだったのですか。ありがとうございます」
そう言って、菫は何かを考え込むようなしぐさをしてから「三時ですよね。田原さん、あなたも一緒に行きましょう」と田原に向かって言った。
「え?」
田原は少しだけ顔をしかめた。
「彼はあなたと待ち合わせをしたのでしょう。それに、何も言えなくなる前に、彼に言いたいことを全部言った方がいいと思いますよ」
菫は田原に向かって微笑んだ。
「……わかりました」
何かを決意したように、田原は頷いた。
*
午後二時五十五分。
雲雀と菫とチトセは、廃ビルの見える建物の陰に隠れて、廃ビルの前に立っている田原愛美を監視していた。
雲雀は、午前のうちに寮に戻り、私服に着替えていた。休日に制服というのは、少し休日感が減るので嫌だったのだ。
「本当に、来るんですかね?」
雲雀は小声で菫に聞く。
「来ますよ。絶対。彼にはもう、彼女しかいないんですから」
菫はそう言って、緊張しているのか一度深呼吸をして心を落ち着かせている様子だった。
「おい」
不意にチトセが口を開いた。
チトセが目配せをした場所を見ると、廃ビルに近づこうとしている男が一人。
小太りの男は酷く猫背で、何かに脅えるように首を右往左往に動かしながら歩いていた。
彼は自分が犯罪者であることを自覚していた。
自分は今から最愛の人と逃亡することを認識していた。
だから誰かに見つかるとまずいのだ。逃げる前に捕まってはいけないのだ。
楠木拓海は、帽子を深く被り、顔を隠すようにマスクをしていた。
雲雀たちは、マスクをとった楠木と田原がお互いにおどおどしながら挨拶を交わしたのを見ると、ころ合いを見計り、楠木の前に姿を見せた。
「楠木拓海さんですね」
菫が、楠木を見据えて言う。
「あ……っあんたら。愛美。うら、裏切ったなっ」
楠木は後退りしながら、田原を睨んだ。
田原は楠木に睨まれて肩を震わせたが、楠木に向かって言った。
「拓海。やっぱり拓海が、祐斗を殺したのね」
それは、田原の精一杯の勇気だったのだろう。
「は、ははっ。ははははは」
楠木は突然笑い出した。
「どうして、そんなことを。そんなこと、私は望んでいなかった!」
田原さんはそう叫ぶように言った。
「愛美……」
楠木は悲しそうな表情をして、徐に着ていたコートのポケットに手を突っ込んだ。そしてそこから、犯行に使ったと思われる折りたたみ式のナイフを取り出し、刃を出した。
刃には太田祐斗のものと思われる血痕が、まだ少し残っていた。
「愛美。俺は、ゆ、祐斗を殺すつもりじゃなかったんだよ。本当だ。信じてくれ」
そんなこと、人に刃を向けながら言うことではないと雲雀は思っていた。
楠木が向けたナイフの矛先は、しっかりと田原を捉えていた。
「そんなの。信じられるわけないじゃない」
震える声でそう言って、田原は目を丸くしながら首を横に振った。
「こ、殺すつもりじゃなかった。あの日、祐斗と会ったのは、ただの話し合いを、す、するつもりで。このナイフはたまたま持っていたもので。別に、あ、あいつを殺すつもりじゃない。だって、あいつは俺のし、親友なんだぞ。こ、殺すわけがない」
楠木は言っていることとやっていることがまるでかみ合っていなかった。
「でも事実、あなたは太田祐斗を殺しました。そしてあろうことか、チトセに罪を被せようとした上に、隠使いに私たちを殺させようともしました。そんな人間に、彼女を託すことはできません。あなたは罪を償うべきです」
そう言って菫は田原を守るため、彼女を自分の後ろに下がらせた。
「ほんの、出来心だったんだ。お、俺。怖くて。見られたら、もし見られてたら俺、もうお終いだ。お終いだったんだよ。だから。お、隠使いは、俺の前に勝手に表れて、よくわかんないうちに監禁されて、いつのまにか消えてて。お、俺は逃げてきたんだよ。だ、だから。愛美。一緒に……」
「あなた、田原さんまで巻き込むのですか。自分が何を言っているのかよく考えてください。あなたが今しようとしていることを、田原愛美さんは望んでいません」
菫の言葉に、田原は無言で頷いた。
それを見ると、楠木は目を丸くして、「愛美……」と悲しそうに呟いて、それからナイフを自分へ向けた。
「ま、愛美に嫌われたら、お終いだ。本当だよ。俺は、つ、罪を償うべきだったんだ」
「拓海?」
田原が首を傾げる。
楠木の行動に、雲雀たちは嫌な予感が過った。
「愛美。愛してるよ。俺は、永遠になって、ず、ずっと愛美を愛し続けるよ」
そう言って、楠木はナイフを両手で持ち、自分の胸に突き刺そうとした。
「拓海!」
田原が楠木の名前を叫んだその瞬間だった。
いつの間にそこにいたのか。楠木の背後からチトセが右手を伸ばし、楠木のナイフを持った両手を握っていた。ナイフは楠木の服を貫通する手前で止められていた。
楠木はチトセを見上げて言った。
「ど、どうして、止めるんだ」
「てめーが、むかつくからだよ」
チトセは楠木を上から睨みつけて、そしてそのまま右腕で楠木の首を自分の体との間で挟んだ。
「うっ」
体を軽く持ち上げられた楠木は、刃物を落とした。
「は、はな、せ」
楠木は呻いた。
菫は楠木が落としたナイフをポケットから出したハンカチ越しに手早く拾うと、刃をしまった。
「これは証拠として警察に渡します」
菫はそう言うと、楠木を睨みつけた。
「ま、愛美。助けてくれ。愛美」
楠木は自分が窮地に立たされていると知ると、今度は田原に命乞いを始めた。先ほどまで自ら命を断とうとしていたのにだ。
楠木は顔をしかめながらじっと田原を見つめていた。
田原は少しだけ目を細めていた。
それから自分の中で答えを見つけたのか、菫の前に出て、楠木の顔を見つめた。
「拓海。昔は三人で一緒に遊んだりして、本当に楽しかったね。私、無神経だから拓海に祐斗のこと好きになったことを相談したら、拓海、私に言ってくれたね。頑張れって。応援するって。私、あの時凄く嬉しかったんだよ。拓海が友だちで本当に良かったって思った」
「まなみぃ」
楠木は田原の顔を見ながら、必死に眉をひそめていた。
「でも、その頃から三人の関係がぎくしゃくしてきて。私は、拓海が私のことを好きでいてくれたことに気付いたの。私、なんて事をしたんだろうってその時に後悔したわ。でも、それでも拓海は私の大事な友人には変わりなかったから、ついつい拓海に頼ってしまって。本当に、申し訳ないことをしたと思ってる。だから謝るわ。本当に、ごめんなさい」
そう言って、田原は楠木に向かって深く深く、頭を下げた。田原は泣いていた。彼女の目から流れた涙が、地面の上に次々と落ちた。
「……でも。拓海が、祐斗を殺したことが事実なら。私は、拓海を許さない。絶対に」
田原さんはそう言い、楠木の顔を見ながらゆっくりと頭を上げた。
それは、楠木でも引いてしまうくらい、愛憎に満ちた顔だったのだと思う。
雲雀は菫の隣にいたから、その顔は見えなかったけれど。
「ま、まな、み……」
今更謝っても、取り返しがつかないことに気付いたのか、楠木はついに脱力した。
チトセは楠木がもう抵抗する気もないことを知り、腕を離した。
楠木はそのまま地面に座り込んだ。
「祐斗……。ごめんね……」
田原愛美は空を見上げてそう言って、それからしばらく涙を流し続けた。
空は青く、彼女の心を洗い流してくれる雨は、しばらく降りそうもなかった。
*
その日、楠木拓海は逮捕された。
田原愛美はその姿を見送ると、雲雀たちに「ありがとうございました」と一言だけ告げて去っていった。
雲雀が菫に、「彼女は大丈夫でしょうか」と聞くと、菫は「きっと大丈夫です」と言って微笑んだ。
田原が亡くなった太田の後を追おうが雲雀たちにはあまり関係がないかもしれないが、やはり心配だった。そういうのはきっとよくあることで、彼女の自由なのだろうけれど。
そんなことを考えて雲雀がふさぎこんでいると、菫が先ほどの言葉に付け足すように、雲雀に向かってこう言った。
「だって、黒田さんがいますもの。だからきっと大丈夫です」
菫はあの黒田という人を信頼しているようだった。
雲雀たちが神楽坂古書店へ帰ると、店番をしていた月見が出迎えてくれた。
「おかえり」
雲雀は月見の顔を見ると、何故だか少しだけ安心した気分になった。それで思ったのだが、菫はこの帰ってきて安心する月見の存在を、この古書店そのものを守りたいのかもしれない。危ない仕事から帰ってきたら、平凡な日常が出迎えてくれる。その安堵感を。
「ただいま」
菫は月見にそう返すと、耐えられないとでも言うように月見のことを両手で抱き締めた。
雲雀とチトセはその光景に思わず目を丸くしたのだが、どうやらそれは毎回のことらしくて。
「あー。仕事終わったんだ。お疲れ様」
そう言って、月見が微笑みながら菫の頭を優しく撫でた。
「うん。ありがとう」
菫もそう言って微笑んでいた。
月見は面喰っている雲雀たちを見て言う。
「あんたたちもお疲れ様。これで晴れて自由の身ね」
「え?」
月見の言葉に、菫が反応して月見の顔を見る。
「何言ってるの? これからも働いてもらうわよ」
「仕事が終わるまでじゃないの」
月見が目を丸くしている。
「何、勘違いしてるのよ。ね?」
菫が雲雀たちの顔を見る。
雲雀は言う。
「勿論、俺でよければこれからも付き合いますよ」
「仕事が無くなるのは困るからな。でもとりあえず、今回の件は礼を言う。ありがとう」
そう言って、チトセが菫に右手を差し出した。
菫は微笑んで、それを握り返す。
「いいですよ。私も助かりましたし。だからこれからも、よろしくお願いします」
月見はため息を吐いて、雲雀はそれを見て苦笑いした。
これからまだまだ色々楽しめそうだと思ったら、雲雀は嬉しくなって気持ちが高ぶった。