亀裂と再会(1)
「ひーばーりーくーん!」
後方から例のごとくルリに飛びつかれて、雲雀はよろける。
廊下だったので、何人か生徒がこちらを見た気がした。恥ずかしい。だがいつものことなのでもう慣れてしまっている。
「ん、雲雀?」
ルリが丸い瞳を上にあげて雲雀を腰のあたりから見上げてくる。
「お前、目はもういいのか」
「うん!」
雲雀が驚いた顔をして聞くと、ルリは笑顔で頷いた。
さすが、竜人。一晩で治ったらしい。
「よかった」
雲雀は安堵した表情で言う。ルリが元気そうで安心した。
昨日の夕刻、凄いものを見てしまったせいで雲雀は朝から思考が迷走していた。今日はよくぼーっとしていると蓮太に言われたくらいだ。
ろくに眠れなかった上に早朝四時に寮長に叩き起こされたのだ。意識が朦朧としていてもおかしくない。
好奇心旺盛なのは雲雀のいいところだと自負しているが、世の中には知らない方がいいこともあるのではないかと、雲雀は昨日から少しだけ思うようになった。昨日見たあれを化け物だと例えたら、菫と月見を傷つけてしまうのだろうなと思った。何せあれは、あの人は、菫と月見のお母さん。なのだから。
今だに信じがたい事実だけれど。
「ねね、雲雀。これからお昼?」
「ああ、うん」
ルリの質問に雲雀は頷く。
そうだ、お昼を食べに食堂へ向かう途中だったんだ。と、ルリのお陰で雲雀は思い出した。蓮太は先に行って座る席を確保してくれているはずだ。
「一緒に食べていい?」
ルリが雲雀に聞いてくる。お昼はいつもワカバと一緒に食べていたはずなのだが。そう言えばワカバがいない。
雲雀は少しだけ目を丸くして聞いた。
「ワカバは?」
するとルリが少しだけ表情を暗くして答えた。
「うん。それがね。ワカバ、最近なんか変なんだよね。避けられてるっていうか。すぐどっか行っちゃうし。今日だって、用事があるから他の人誘ってって言ってどっか行っちゃったし」
「そう、なのか」
雲雀ははルリになんと言えばいいのかわからなかった。
ワカバもワカバの事情があるものと思うが、元々何を考えているのかよくわからない子だった。だが、ルリと仲のいい姿を見ることが多かったからか、確かにその行動はどこか変だ。
「雲雀。私、気付かないうちにワカバに何かしちゃったのかな。ワカバが傷つくことしちゃったのかな。ワカバが傷つくこと言っちゃったのかな。ねえ、教えてよ雲雀」
不安そうな顔をして、ルリが言う。
「そんなこと、俺がわかるわけないだろ」
「私、わかんないんだもん。ときどき無神経だったりするって前にワカバに言われてるし、不安なんだもん」
ルリが、今度は泣きそうな顔をする。
雲雀は頭を掻いた。
「じゃあ、蓮太に聞いてみるか。ワカバのこと何かわかるかもしれない。相方だしな」
「うん……」
元気のない返事だった。
ルリは表情がころころ変わるから、わかりやすい。本当にワカバに嫌われたくないんだろうなと思う。本当に不安なのだなと思う。
ワカバはルリと正反対で、思っていることが表情にあまり出ないタイプだ。だからわかりづらい。ルリが不安がるのもわかる気がする。
雲雀とルリは珍しく会話をせずに、食堂へ歩いた。いつもだったら歩いている途中も会話して騒いでいるのだが、そんな気分ではないのだろう。雲雀も同じだった。
*
食堂は昼時なので人がひしめき合っていた。配膳台の前に長蛇の列ができてしまっている。
「あれ」
人ごみの中から蓮太を探し出すと、雲雀たちを見て蓮太が困った顔をした。
「椅子、一つしか取ってないんだけど」
「ああ、俺はいいよ。空くまで待つから。ルリが座って」
雲雀はルリに向かって言う。見ると蓮太の隣にある椅子は確かに一つだった。
「えー。いいよお。雲雀が座りなよお」
「いや、いいって」
いいと言っているのに、ルリが無理矢理に雲雀の体を両手で押して、蓮太が取っておいてくれた椅子に座らせる。
「ルリ」
雲雀が立ち上がろうとすると、突然ルリが両手を叩いた。
「あ、そうだ。いいこと思いついた」
「は?」
雲雀が首を傾げると、ルリが膝の上に座ってきた。
「ちょ、おまっ」
雲雀は顔を引きつらせた。
蓮太も向かい側の席で、ルリの行動に唖然としていた。
「これで二人とも座れるね」
雲雀を見上げながら、したり顔でルリが言う。
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあどういう問題?」
雲雀の言葉にルリが首を傾げる。女としての自覚はないのか、この子は。
「いいから、降りろ」
「えー」
ルリが駄々をこねる。
周りにいる生徒たちがみんな雲雀たちを見ている気がした。勘弁してくれと雲雀は思う。こっちは恥ずかしいのだ。
「自分の歳を考えろ。子どもじゃないんだから」
「子どもだもんー。二百歳なんてまだまだ子どもだもんー」
「二百歳は子どもじゃなくて長生きしたしわしわのおばあさんだー」
「それは、人間の歳で言うとでしょー? 私、竜人だもんー。まだまだぴちぴちの女学生だもんー」
これ以上口論を続けていても、らちが明かない気がしてきた。
確かに彼女の言うとおり竜人でいう二百歳はまだぴちぴちの女子だ。外見はな。
それがわかってるなら自分のことを子どもとか言うな。と、雲雀は突っ込みたかったが止めておいた。どうせ何を言っても無駄なんだ。
「もういいから、早く食券買って注文して来い」
呆れた顔をして蓮太が言った。
今日は、メンを食べたい気分だった。ここよりもっと東の街で生まれた食べ物で、去年は大流行した。今年になって人気は落ち着いてきたが、雲雀はこれが好きだった。
雲雀がメンの食券を買うと、ルリは竜人用、肉がたっぷりのスープの食券を買った。竜人は一応、何も食べなくても生きていける。野菜も米も食べられるが、肉を食べて歯を鍛えるという意味で、竜人用に用意された食事は主に肉の塊。使用しているのは豚肉が多い。
注文してすぐに用意されたメンを持って、ルリに遅れて席へ戻ると、蓮太が空いた椅子をもう一つ確保しておいてくれた。
「ありがとう、蓮太」
「目の前でいちゃつかれたら堪らんからな」
そう言いながら、蓮太が鞄から売店で買った弁当を取りだした。
「むうー。ありがとうー」
不服だったのか、ルリが頬を膨らませて言う。
「どうでもいいけど、変な誤解を生むからやめてくれ」
「はいはい」
適当に返事をされたことに、雲雀は少しだけ息を吐いた。
ルリは新しく用意された席に素直に座り、肉をほおばる。俺もメンをすする。蓮太も売店で買った弁当のふたを開け、割り箸を割って弁当を食べる。中身は卵料理だ。上半分が焼いた卵で、下半分はご飯を盛ってある。
「そういや。ルリちゃん、ワカバはどうしたんだ?」
「それを今、聞くか」
雲雀は蓮太の今更の質問に突っ込みを入れる。せめて来てからすぐに聞いてほしかった。
「驚いて聞きそびれたんだよ。で、ワカバは」
蓮太がルリの方を向いてもう一度聞く。ルリは肉の刺さった串を持ったまま答える。
「ワカバは用事があるんだって」
「そうなんだ」
蓮太は何も思わないのか、卵を食べる作業にまた戻る。
「でさ、なんかワカバの様子がおかしいらしいんだけど、お前何か知らないか」
雲雀はルリの沈んだ表情を見て、代わりに蓮太に聞いてやる。
「何かって?」
蓮太が首を傾げた。
「だから、様子がおかしい理由とか、心当たりはないかって」
「別に、いつも通りだと思うけどな。朝会った時も普通だったよ」
「普通だったら聞かないんだけど」
「まあ確かに、今ここにいないのは普通じゃないわな。いつもルリちゃんと食べてたの見てるし」
「だろ?」
「でも、様子がおかしいとして、俺がその理由を知ってるかって聞かれたら知らないって言うしかないんだけど」
蓮太が困った顔をして言う。当てが外れたことがわかり、雲雀は嘆息した。
「お前さ、俺にルリを理解しろとか言うくせに、自分はワカバのこと理解してないんじゃないか」
「そんなことないよ。ワカバのことは十分理解しているつもり。だから俺が思うに、ワカバには何か事情があるんだろうな。ルリちゃんにも相方の俺にも言えないような事情が」
「どんな事情だよ」
「そんなの知らねーよ」
蓮太は吐き捨てると食事に戻った。
ルリは暗い顔をして肉を持ったまま、しばらく微動だにしなかった。そしてそのしばらくが終わってから、ルリは自棄食いを始めた。
「ル、ルリ?」
雲雀はその姿を見て、思わず顔をしかめた。
ルリは一品目を食べ終わると、お代わりをしに席を立つ。そして今度は大盛りにして戻ってくると、またがっつくように食べ始めた。
「ルリ。大丈夫か? そんなに急いで食べるとお腹壊すぞ?」
雲雀はルリに向かって優しくそう言う。するとルリは口をもごもごさせながら、「だいじょうぶ」と言った。雲雀と蓮太は思わず顔を見合わせた。
その細い体のどこに大量の肉が入っていくのかいつも疑問に思う。
ルリは口に含んでいたものを飲み込むと、小さな声で呟く。
「私、ワカバに嫌われたのかな」
雲雀と蓮太は、その言葉に目を丸くした。ルリがそんなことを口にするとは、思わなかったのだ。
ルリとワカバは親友だ。
それはお互い思い合っているからこそはっきりと言えることで、ただの友人関係ではないのだ。
二人の間には、相方ですら敵わないであろう、強い絆がある。だがその絆が、今崩れ去ろうとしているのだろうか。
雲雀は少しだけ悲しい気持ちになっていた。
蓮太が、肩を落としているルリに向かって優しく微笑んだ。
「ルリちゃんは俺よりワカバと付き合い長いし、ワカバのこと俺よりよく知ってるだろうけどさ。誰にも言えない悩みとか、あるんじゃないかと俺は思う。ワカバって、あんまり口数多い方じゃないし。でも別に、それでルリちゃんまで悩む必要もないし、ワカバはルリちゃんのこと嫌ってなんかないと思う。ワカバが話してくれるまで、待つしかないんじゃないかと俺は思うんだけど」
蓮太の言うことはもっともだった。
きっとこれは、ワカバ自身の問題だ。雲雀はなんとなくそう思う。
そもそもワカバとルリは、対照的な性格をしている。ワカバがルリに対して劣等感などという感情を抱いていた可能性はある。でもそれがあっても今までずっとルリのそばで微笑んでいたワカバのことを思うと、今回のことはあっても不思議じゃない出来事だ。ワカバがルリに対して何か我慢をしていたのなら、それはいつか爆発してしまうだろう。これはその結果ととるべきなんじゃないのか。
ルリの不安。とやらはおそらく、ルリがいつもワカバのことを思って素直に好きと言っているのに対して、ワカバからはそれがないことだ。それでいつも不安に思っていたのだろう。そしてそれが今、この場にワカバの姿が無いことで、改めて浮き彫りになった不安が、確定のものとなったのではないかと思ったのだ。
ワカバに嫌われたのではないか。
そんなこと、雲雀も蓮太もまずあり得ないと思っていた。
むしろワカバがルリと一緒にいることそのものが、ワカバにとって良いことだと思っていた。雲雀は、ワカバがルリや雲雀たち以外の人間や竜人と会話をしているところを見たことが無い。まったくと言っていい。
つまりルリがいなければ、ワカバは一人になってしまうのだ。(相方は例外)
「ワカバはね、私がこの学校に入るって言った時、何も言わなかったの。何も言わずにただ、一緒に付いてきてくれたの。一緒に頑張ってくれた。本当はワカバ。竜騎士の竜になるの、嫌だったんじゃないかって私、思うの。私が一緒になろうって言ったから、付いてきてくれただけなんじゃないかって。私の我儘に付き合ってくれてるだけなんじゃないかって」
ルリが不安をぶちまける。
雲雀はルリになんと声をかけたらいいのかわからなかった。雲雀が何も言わないでいると、蓮太がこちらを一瞥する。雲雀は仕方なく言葉を探す。
「あのなー。ルリ。考えすぎじゃないのか。本人にちゃんと聞いたか? お前、結構思いこみが激しいって言うか。思い込んだら一直線。だから、ちゃんと、本人に聞いた方が、良いんじゃないのか」
考えながら言葉を繋いだので少し発音がおかしくなったが、気にしないでおこう。
「雲雀の言うとおりだ。ワカバが言ってた。自分の意思でここに来ようと思ったって。だからルリちゃんに付いてきたわけじゃなく、逆に、ルリちゃんが背中を押してくれたんだと思うって」
蓮太が雲雀に便乗してそう言った。
「そうなら、いいんだけど」
ルリは尚も不安な顔をして言った。
雲雀はついに耐えられなくなって、何とかルリを元気にさせるため、とりあえず話題を変えてみようと試みた。
「そーおだルリ。お前、大きくなりたいって言ってたよな。一回、俺の知り合いの大型竜に会ってみないか」
「ほへ?」
雲雀の提案に、ルリがきょとんとした顔をした。
「ほら、具体的な目標とかあった方がいいだろ」
「お前、何をいきなり」
蓮太が顔をしかめた。雲雀はお構いなしに続ける。
「ちょっと無愛想な奴だけどな。きっといい刺激になるよ。な?」
雲雀が聞くと、ルリは少しだけ考えるようなしぐさをしてから「うん。わかった。会ってみたい」といつもの笑顔で頷いた。
蓮太はそんな雲雀たちを見て、呆れた顔をしていた。