神楽坂古書店の事情(3)
神楽坂古書店の店内。そこにはもう月見の姿はなく、どうやらキッチンで夕飯の支度をしているようだった。
菫は右の壁に沿うように置いてある本が数冊しか入っていない本棚を、少しだけ左へ動かした。そしてその場にしゃがむ。
床を見ると、そこにはおそらく地下へ続いているであろう扉があった。
菫はその扉をゆっくりと開く。その中は薄暗いが、ワットの低い明りがついているように見えた。下へ降りる梯子を使って菫はその中に降りて行く。雲雀とチトセはそのあとに続いて地下へと降りる。
「閉めてください」
と菫に言われたので、最後に降り始めた雲雀は扉を閉めた。裏側にも取っ手があるので出られなくなる心配はないようだ。上に本棚を置かれたら出られなくなるけど。だからおそらくこの家の者はみんな、地下があることを知っているだろう。でなければ出られなくなるので。
「何を見ても、大きな声を上げないでくださいね」
雲雀が梯子を降り終わると、菫がそう言った。先に降りて菫の見ている方向を見ていたチトセが、何故だか目を丸くしていた。
雲雀は、すぐにその部屋の違和感に気がついた。
人の気配がした。チトセと菫の他に、誰か居る。
雲雀はおそるおそる二人の見ている方に振り向いた。
「な……」
雲雀は目の前に現れた光景に思わず唖然とした。
床や部屋の壁中に張り付いた、様々な種類が混在した植物の蔦。そして、部屋の奥に何かが。否、誰かがその蔦や葉や花に捉えられるようにして、そこに居た。
その人の体がどこにあるのかはわからない。辛うじて顔だけが見えるぐらいだった。目を閉じて、眠っているようだった。微かだが、顔の下にある蔦が、膨らんだり凋んだりという動きを繰り返していたので、息もしているようだった。
それはもしかしたらその部屋自体がその人の体なのではないかと錯覚してしまうほど、その人の体は植物たちと一体化していたのだ。
頭から蔦が生えているようにも見えるのは、恐らくその部分が髪の毛であったからだろうと推測してみる。
だが性別すら判別できない。
雲雀は一種の恐怖を感じた。
「その蔦、踏まないように気をつけてください。お母さん、痛がるので」
菫がそう言って、悲しそうな顔をした。
お母さん。
菫は確かにそう言った。
この人が、菫と月見のお母さん。
「何で、こんなことに」
雲雀はやっとの思いでそう口に出す。
「力を使いすぎて、植物と一体化し始めているんです。最終的には完全に肉体は植物となってしまいます。あなたたちをここに連れてきたのは、これを見せた方が手っ取り早いと思ったからです。私もいずれはお母さんのようになります。そしてその時にもし自分に子どもがいれば、その子どもに力の使い方を教えます。そうやって、今までもこれからも、華士の血は繋がっていくのです」
菫はそう言って、雲雀とチトセの方を見ていた。
菫も、いずれはこうなる。
その時はまた、この人と同じように菫も地下に閉じ込められるのだろうか。そう思ったらぞっとした。一番恐怖を感じているのは菫自身だろう。
雲雀は震える唇を軽く噛んだ。チトセは渋い顔をして蔦を見つめているようだった。
菫は言葉を続ける。
「私は、お母さんがこうなってしまってから事の重大さに気付いて、華士を継ぐ決心をしました。そして、月見には選ばせたんです。お母さんと同じ華士になるか、ならないか。なると言えばそれはそれでよかったんです。けれど、月見は選ばなかった。私たちの分まで生きると言ったんです。私は正直、嬉しさと悲しさがごちゃ混ぜになりました。でもお母さんは、月見の選んだことだから、素直に嬉しいと言いました。そして、私だけお母さんに力の使い方を教えてもらったんです。頭に添えられたお母さんの手の温かさは、今でもよく覚えています。けれど、そこからなだれ込んでくる華士の力の使い方。情報。それは私の体を蝕んでいくように感じました」
力の使い方を教える方法。それ自体も、華士の力だということか。
雲雀はやっと理解した。
見聞きして覚えるわけではなく、その方法を直接脳に伝達する。それならば、使い方が漏れることはない。
なるほど、魔法士とはまったく別物だ。
「この力は、あまりにも危険すぎます。ですが正しく使うことが出来さえすれば、誰かのために使い、この力が与えられた意味も見える気がするんです」
そう言って、菫は微笑んだ。
チトセも雲雀も、もう菫には何も言うことができなかった。
辛すぎる現実に、立ち向かうことを決めた菫。すごく強い精神の持ち主だと思った。もしかしたら、華士の血筋の女性たちはみんなそういう強い精神の持ち主で、だからこそ植物たちは彼女たちを愛しているのではないだろうか。そんなことを雲雀は思った。
何の根拠もない妄想だったけれど。
「お母さん。何? うん。そうだよ。チトセと雲雀っていうの。うん。うん」
菫は母親と会話しているようだった。目は閉じたままなので起きているのか寝ているのかわからなかったが、何かの方法で話をしている。よく見ると、菫が右手から蔦を出している。その蔦の先は菫の母親に繋がっているようだった。
「違うわ。そう。ふふっ」
母親と会話している菫は、微かに笑った。どうやら冗談を言えるほどには母も元気らしい。
「お母さん。なんて言っているんですか」
雲雀が聞くと、菫はこちらを向いた。
「不束な娘たちだけれど、私と月見をよろしくって」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
雲雀は慌ててそう言って、頭を下げる。
「顔を上げてください。手はないけど、二人と握手したいって言っています」
「あ……」
菫の言葉に、雲雀はどんな顔をしたらいいのかわからない。チトセは構わず菫の母親に近づいた。彼女は自分の蔦を一本だけ動かして、チトセの目の前で静止した。
「よろしく」
チトセは一言だけそう発して、その蔦を握った。
今度は雲雀の番だった。チトセが退いた場所に、雲雀も行く。途中、他の蔦を踏みそうになったが、頑張って避ける。そうして菫の母親のすぐ近くに行くと、チトセと同じく差し出された蔦をおそるおそる握った。冷たいと思っていたが、わずかに温かさを感じた。彼女がちゃんとここで生きているという証だった。