ビリヤード場にて
俺はAに誘われてビリヤード場へ来た。
部屋に入ると玉同士のぶつかり合う音があちらこちらから聞こえる。受付に行き、玉を受け取ると2人で指定された台へと向かった。
Aは「トイレへ行ってくる」と言い、言葉通り、部屋の隅にある便所へと向う。俺はやることがなくなって、隣の台を見た。
隣の台でも2人でゲームをしていた。女性2人だった。1人が慣れている人のようでもう1人の初心者らしき人に教えながら球を衝いていた。初心者の女性は美人の部類に入るだろう。服も華やかで、このビリヤード場内の男性の注目を集めていた。受付の方を見ると受付番もその女性の一挙手一投足を眺めていた。しかし、俺の目に止まったのはもう1人の先生役の女性であった。俺はそのもう1人の女性を無意識のうちに目で追っていた。
その女性は体には肉が溜まっているのだろうが、それをセーターで隠している。顔も美人というよりは平凡だがどこか不幸の色が出ている。服は地味な単色で俺と同じ大学生ぐらいの年齢には似合わない、背の低い女性だった。相方が美人なだけに彼女に対する印象はより一層悪いものとなった。その彼女は周囲などを気にせず、相棒をも気にせずキューを構え、一心不乱に球を衝いていた。
すると、2人のゲームが1つ終わった。先生が生徒に負けていた。美人のほうの女性は全身で勝利の喜びを表し、周囲の人々はその様子を微笑ましく、眺めていた。もう1人の彼女はその様子を気にせず、置いてあった缶コーヒーを飲んで、台を眺めていた。そして、しばらくして2人はまたゲームを始めた。
Aが帰ってきて、俺らもゲームを始めたが、気がつくとゲームの合間に彼女の方へ目線が向いていた。
「おい、釘づけになってんぞ。可愛いのは認めるけど。」
Aが笑いながら、俺を茶化す。その言葉に隣の台の2人の女性が反応した。先ほどから俺を「釘づけ」にした女性も俺を見てくる。目が合った。
お互いすぐに目をそらした。先に目をそらしたのは彼女だった。見られるという行為を怖れるかのように。
俺は何も言わずに、ゲームを続けた。ゲームはAの方がリードしていた。俺はキューを構え、手球へ、その向こうの球へ照準を合わせた。その球の台の向こうに先ほどの彼女が立っていた。俺は一旦、そのままショットをした。しかし、キューに当てられた手球は弱々しく、ゆっくり転がっていった。もちろん落ちた球は1つもない。
「調子よくないな」
Aは俺に言った。
俺が構えから直ると、先ほどの彼女がたばこを咥え、ライターで先に火をつけていた。そして、咥えていたたばこを口から外し、口から煙を吐き出す。立ち上る煙の奥に虚無の表情を見た。
彼女は俺と同類だ。
そして、たばこを咥えた彼女の姿は俺には映えて見えた。詩的で美しかった。
俺のそんな様子を見て、Aは周りに聞こえないように、静かに呟いた。
「お前、恋したな。」
俺はその言葉に少し驚いた。
これが恋か。そうか、俺はきっと恋をしているのか。
そう考えれば考えるほど俺の彼女に対する思いが確実なものになっていった。血流が激しく身体中を駆け巡り、全身の細胞にこれは恋だと伝えていた。
俺が今まで実体を見られなかった恋というものはこんなに自然に、こんなに日常的に転がっていたのだ。
「かもな。」
俺はAにも聞こえないように独り言を呟いた。
Aに俺の声が聞こえたのか、ゲームを切り上げようと言ってきた。俺はもう少しいたかったが、ゲームをやる意味はないと思い、素直に受け入れた。Aと俺は荷物を持って、受付で勘定を払う。
店を出て、Aは俺に
「諦めろ、あれは君には美人すぎる。あんなのが彼女になった人は確実に不幸だよ。」
と言った。彼は俺が美人な方に恋をしていると思っていた。俺はそんな彼の勘違いに救われた。だから、俺は恋に破れた男のように、低く、疲れ果てた声で
「あぁ。」
とだけ返事をしておいた。どちらに恋をしているにしろ、彼女らと俺はもう会う機会がないのだ。なにせ、名前すら知らないのだから。俺はそんな不運を呪った。せっかく俺は恋をしたのだ。
「それじゃ、また明日。大学で。」
気がつくと俺たちは駅に着いていた。時は帰宅時間を迎え、駅は人で溢れかえっている。俺も手を振って改札へと向かう。
Aと別れて,数歩歩いてから、気が触れたように俺の足は来た道を走りはじめていた。何を思ったのだろうか。
いや、わかっていた。あの俺の恋した女性に会いたかったのだ。今を逃したら二度と会えないと知っていたから。
俺は階段を駆け上がり、ビリヤード場へと入った。
俺はまず彼女を探した。彼女は1人で球を衝いていた。相方の美人な方はいなかった。
受付に忘れ物をしましたとだけ言い、俺は彼女のいる台へと向かった。
俺は勇気を振り絞って、彼女に声をかけた。
「ねぇ、1人?」
恥ずかしいくらい、上ずった声が出た。後悔の念が俺を襲う。
彼女は俺の方を向いて、固まった。何を言われたのか理解できないような表情を浮かべる。
「何ですか?」
彼女は少し間を置いてから、そっぽを向いて言った。まるで目の前の俺を恐れるように。
「だから…えっと、一緒にやらない?」
俺も恥ずかしさを抑えて、小さな声でそう言う。彼女は驚いた表情を見せながらも
「別にいいわよ。」
と言った。その言葉はプライドの高い女性の使うそれとは意味が違った。プライドの高い女性はそのフレーズを高圧的に使うものである。彼女の使うそれはこう言う意味が含まれていた。
「私なんかであなたがいいんだったら、別にいいわよ。」
俺はやはり俺の恋する女だと確信した。
俺は受付に戻って、彼女のところに混ぜてもらうことを頼んだ。受付の人は半分笑いながら、俺に取り合った。
俺はキューを取って台に戻り、あまり分からないから君に合わせると伝えた。
「そう。どのくらいやったことある?」
「今日が3回目。」
「ふーん、分かった。あと、あなたのことなんて呼べばいいのかしら。私あなたのこと何も知らないのよ。」
彼女はまっすぐ俺の方を見て言う。
「俺はトオル。よろしく。君の名前も教えて。」
俺は右手を差し出した。
「私はB、こちらこそよろしく。」
決闘の前のように反対の手にお互いキューを持ちながら握手をした。彼女の手は小さく繊細で俺が握ったら折れてしまいそうな手だった。
彼女と3ゲームぐらいやった。彼女が3ゲームとも勝った。彼女はたしかに上手かった。
ひと段落つき、彼女はたばこを咥えた。そして、俺の方に吸うかと言うように差し出す。
「自分のがあるから。」
と言って、俺もバッグの中からタバコとライターを取り出した。
「何吸ってんの?」
とBが聞いてきたので、俺はパッケージを見せる。
「変わったの吸ってるわね。」
「別に吸いたいのを吸ってるとかじゃないよ。自暴自棄になって買ったのがたまたまこれだったってだけ。」
「私と同じだわ。でもやめといた方がいいわよ。私みたいにそれがクセになるわよ。」
Bはそう言いながら、煙を吐き出す。その通りかもしれない。
「でももう無理ですよ、ここまで来たら。これ、オナニーみたいなもんなんですよ。別においしくないし、むしろ不味い。でも、自分の体を破壊しているということに快感を覚えるんです。この世から愚が少なくなっていくような気がして。」
彼女はそれを聞いて笑った。
「そうね。その通りだわ。私もそう思って、これ吸ってるから。あなたと私似ているのかもしれない。」
あなたを一目見たときからそう思いました。
俺は心の中でそう呟いた。
一息つくとどちらから提案するでもなく、二人でビリヤード場を後にした。
並んで歩いていると肩と肩がぶつかる。彼女を見ると、彼女は寒そうに縮こまりながら、歩いていた。信号が赤となって俺も彼女も止まる。彼女は横で小刻みに震えている。そして、温もりを求めて、少しずつ俺の方へ寄ってくる。
俺はそのとき考えていた。本当に彼女のことが好きなのか?
なんとなく好きだ好きだと感じてはいたが、今までの好きと言う気持ちとは異なった感情が渦巻いていた。それは美しさなどに憧れを持つような好きという気持ちよりは性欲を感じるような感情に近いものだった。
信号が青に変わり周りの人たちが横断歩道を渡り始める。隣で彼女も歩き始める.
俺も歩き始めようと思い、視線をあげると、向かい側からやって来るカップルが目に映った。俺は足を止め,そのカップルを観察した.そのカップルはお似合いのカップルではなかった。女性は美しかったが、男は冴えない青年といった様子であった。
男は別として、女はなぜ彼と付き合うことにしたのか?
その疑問が思い浮かんだとき、先ほどの答えに結びついていることに気がついた。
それは肉慾を感じるからだ。これは正当な気持ちなのだ。
俺は心の中で整理がつくと、周りを見回りした。今、目の前に彼女がいる必要があった。なぜなら,俺は彼女に肉慾を感じていたから.
彼女は横断歩道の反対側で立って、俺を不思議そうに見ながら、俺の到着を待っていた。大勢の人の中で彼女だけが、俺の方をまっすぐまっすぐ見ている。そして、視線が合うと、醜いながらの笑顔を見せた。それを見て。俺の周りの人はどう思ったか分からない。
俺はただ
あぁ、彼女が俺の間違いなく好きな人だ。
と確信した。3度目の確信だった。
俺はまっすぐ彼女のほうへ向かった。彼女は俺が歩き始めるのを見ると、ゆっくりした歩調で歩き始める。そして、時々俺の方へ視線を送る。俺は焦ったくなり、走って彼女の後ろ姿を追いかけた。
彼女はそんな俺の様子を見て、足を止め、俺の方を振り向きかけた。
俺は彼女が完全に振り向く前に、後ろから抱きしめた。彼女の体はビクッと俺の行為に対して反応する。しばらくそのまま時を止めた。
いや、周りの時は動いているが俺たち2人の時はゆっくり流れ始め、俺はその一刹那一刹那、目の前にある彼女の体、そしてそこから発される熱、香りを感じとった。周りの歩いている人たちが俺の肩にぶつかり、振り返って俺を睨みながら過ぎ去っていく。彼女は俺の腕の中で体をひねり、俺の表情を窺おうとした。俺は恥ずかしくなり、彼女の唇を唇で覆う。
キスに味なんてない。あるとすれば少しヤニ臭い匂いとそれを消すために噛んだガムのミントの香りだった。
唇をお互い強く押し付ける。口の中ではお互いの舌が彷徨っている。2人の体が自然と左回りに回転し始める。
これはダンスだ。醜悪なダンスだ。
俺の意識はダンスの踊り手から観客へと飛んでいき、ダンスの行方を眺めた。
観客としてのブーイングと同時に踊り手としての興奮が俺を襲った。
興奮の方が優った。今しかないと思い、決心し、俺は唇を離して口を開いた。
「俺たち付き合わないか?」
俺は緊張で声が小さくなっていた。彼女の方へ視線を戻すと彼女は顔を赤らめ、今度は彼女が視線をそらした。
「ありがとう。私告白されるの初めてで…嬉しくて…。でも、なんで私なの?私自分で言うと謙遜とか言われるかもだけど、謙遜抜きで可愛くないこと知ってるし、なんならブスな方の部類なのも知ってる。なんで私に声をかけようと思ったの?」
俺はもう一度、改めて彼女の顔を見る。彼女は顔をそらすが、その仕草さえも可愛く見えない。俺は口の中でいくつかの言葉をつなぎ合わせようとして,試行錯誤した.
そんなことないよ.君が気付いていないだけで君はきれいだ.
一目ぼれしたんだ.
君の見せる表情が愛らしいんだ.
ただ,どれもが嘘くさく,言葉にならなかった.そして、嫌われるのを覚悟で本音を呟いた。
「君がブスだから。ただブスだからってわけじゃなくて…、それを自覚しているからかな。俺と同類だと感じた。」
彼女はほっと安心して笑い始めた。
「ブスだからか、いいわね、それ。」
そして彼女はまっすぐ俺の方を向いた。ただ目が合うと逸らし、呟いた。
「そうしたら、お願いします。」
思い立ったように顔を上げて、言葉を続けた。
「ただね、1つ約束して欲しいの。」
「何を?俺にできることであれば、なんでも。」
彼女は遠慮しながら俺の表情を気にしながら、こう言った。
「こんなことを言うことさえおこがましいのだけれど…。私に対して決して『かわいい』とか『美しい』なんて言葉を使わないで欲しいの。私がどんな顔をしてるかは私が一番理解しているはずだし、あなたが彼氏だからという理由だけで無理に言わされている『かわいい』を聞くことほど傷つくことなんてないわ。だから、それだけは守って欲しいの。だから、私をオトすときはもっとストレートに好きって言って。」
俺はこの彼女の言葉を聞いて、ますます彼女のことが好きになった。
「わかった。約束は守る。でも、今の話を聞いて君のことがより…好きになったよ。」
好きという言葉を言うときに戸惑ってしまう。彼女も俺の言葉を聞き、顔を赤らめる、俺はさらに続けて言った。
「俺も『かっこいい』なんて言葉を君に無理に使って欲しくないから、言わないで。」
彼女は頷く。
そして手を差し出してきた。俺は無言で彼女の手を握り、歩き始める。
その様子を周りの人たちは好奇の目で見ている。周りの人の目を見て、俺の手を握る緊張が消えていく。
俺は思わず彼女にこう言った。
「このブーッス。」
彼女は俺の言葉に笑う。
「うるさいわよ、ブサイク!」
俺も彼女の言葉に笑った。
ブサイクとブス2人で声を上げて笑った。周りからの目なんて関係なかった。
俺たちは今最高に幸せだった。そして、俺はこいつといつまでも一緒にいられる気がした。
俺は手を差し出し、彼女は俺の手をそっと握る。そのとき、俺の手は強く彼女のほうへと引っ張られた。俺は引っ張られるがままになりながら、後ろを振り向く。
見ると、彼女が転んでいた。何か落ちているものに躓いた様だった。
「痛―い!」
彼女はそうコケた自分を非難しながら、洋服についた汚れを懸命に払っていた。
俺はその様子をぼんやりと見ていた。冷めた目で、無感動に眺めていた。先ほどまでの高揚は一気に地まで落ちていた。彼女は俺のそんな様子も気にせず、周りも気にせず、無我夢中で洋服の汚れを叩いている。
なぜか、彼女への恋情が完全に消えた。もう今の俺には彼女を思う気持ちは全くなかった。
ただ、ブサイクだなとだけ思った。
俺は何も言わずに去った。喧騒に紛れて、彼女の俺を呼ぶ声が後ろから聞こえてくる。俺はそれを聞いて怖くなり、走った。人々が俺にぶつかってくる。それでもがむしゃらに走った。
そのとき、俺はこんなことを考えていた。
あぁ、恋とは何ぞや。恋とは何ぞや、と。
恋って何なんでしょう。それがこの作品のテーマですが、結局私にも分かりません。結局理由なんてないものなんでしょう。何となくfitする感情、それが恋なのではと思います。でも、そのfitする感情は時々によって変わりますし、様々な人に対し、様々なfitの仕方があるから、不倫、浮気なんてものはあって当然なのかもしれません。それを抑えるのが理性だと言われるかもしれませんが、それは今の社会道徳にしか、当てはまらないもので、違う時代、違う環境には適応できないものでしょう。
そんなことを表現したいと思い、この作品を書きました。そんな考えが伝われば、幸いです。
なお、この作品は今執筆中の長編のエンディングに使う予定のものでした。しかし、その作品が完成に程遠く、現在筆が止まっているので、短編として公開してしまったものです。