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あなたへの願いをその歌に

作者: 矢接 ハヤテ

初投稿です。稚拙な部分が多々あるかと思いますが、大目に見てやってください。

彼女と出会ったの日の事は、いつでもはっきりと思い出せた。忘れようと決心したのに、思い出と言うのはそう簡単には消えてくれないらしい。

窓の外を見ると、空全体を気だるげな雲が覆っている。テレビから流れる天気予報は、うんざりとするような雨を伝えていた。視線を下に移すと、空と同じくらい気だるそうなサラリーマン風の男性が、俯き加減に道を歩いている。

時計を見ると、ちょうど午後の五時を回ったところだ。天気予報から変わって今日のニュースを伝えだしたテレビの電源を切り、僕はゆっくりと椅子から立ち上がった。あまり整頓のされていない部屋を歩き、隅っこの方で壁に寄り掛かるようにしておいてあったギターケースを担ぎ上げる。慣れた重みの感触を確かめながら、小さく深呼吸をして、誘われるように部屋を出た。


     ・・・


その日の目覚めはひどく不快だった。体は重く、頭痛もある。ベットから起き上がろうとしても、服がシーツに縫い付けられたかのように動かない。手足はまるで力が入らず、本当に自分の体についているものか疑ってしまうほどだ。

それでも何故か不思議な事に、このままもう一度寝てしまおうという気分にはならない。むしろ私の心に芽生えたのは、起きなければならないとい強い意志だった。

何故だろう?すごく不思議な気分だ。

何か大切な用事があっただろうか?いや、記憶を探ってもそんなものは思い出せない。

ならどうして?

ゆっくりと覚醒し始めた頭でそんな事をしばらく考えていると、誰かが私の部屋をノックする音が聞こえた。

気怠い声で返事をすると、入って来たのはお母さんだった。

疲れているのだろうか、ひどくやつれて見える。元々活発な顔立ちをしている人ではないけれど、今日は特にひどい。どうしたのかと私が声を掛けようとすると、それより早くお母さんは近づいてきて、私のベットに腰掛ける。

そしてそのまま何も言わずに、一冊の日記帳を私に手渡した。

訳も分からず受け取ると、その表紙には私の字で「朝起きたら絶対に読むこと」と書かれていた。

何かをお母さんに言おうとしたけれど、こちらを見つめるその瞳があんまりも優しくて、私はかける言葉を忘れ、静かにその日記帳を開いた。


     ・・・


帰宅ラッシュの時間を少し過ぎた電車内は、それでもまだ人が多く、少し動くと他人と肩がぶつかりそうになった。車内にいる人々は、皆一応に疲れた顔をしている。だがそれもそうだろう。今日は週末の金曜日。一週間の疲れが体中に響いているはずだ。一刻も早く家に帰って、休息を取りたいのだろう。すくなくともこの車両には、今から何かしようという元気のある人は見受けられない。僕を除いては。

駅に停車するたびに増える乗客と、それにつられて入ってくる微かな雨の匂いは、自然とあの日の、彼女との出会いを思い出させた。

あの時、僕が感じた不思議な感情と衝撃を、言葉で表現しようとするのは難しいけれど、それでも無理矢理言い表すなら、きっとああいうのを、運命って言うんだろう。


     ・・・


少し古びた家の並ぶこの住宅街は、それでも私にはなかなかのお気に入りスポットで、中学の登下校時、遠回りと分かっていながらよく通ったものだ。

特に一人でゆっくりと考え事をしたい時などには、静かなこの空間はうってつけだった。

すれ違う人のいない道を歩きながら、ふとさっきお母さんから見せられたあの日記帳の事が私の思考をよぎった。それと同時に、そこに記されていた内容の事も……。

「信じられない、よね。突然あんな」

 日記には私の字で様々な事が書かれていた。でもそれもそのはず。あの日記帳は私が中学入学と同時に購入して、それから毎日欠かさず、ずっとつけ続けていたものだ。

 読み返した時、懐かしい思い出の数々に自然と頬が緩んだが、読み進めていると、とあるページで手が止まった。

 そこに書いてあった内容は、とても信じられない内容だった。

 でも周りの状況が、お母さんの目が、何より私自身の状態が、それが嘘ではないと物語っていた。

「うーん」

 小さく唸って、私は今の自分の服装に目を落とす。ネイビー袖のフリルトップスに、同じ柄にベージュの入ったストライプスカートとキャメルウェッジサンダル。アクセサリーは身に着けていないが、それなりにちゃんとした格好をしていると思う。でも、

「適当に選んできたけど、何一つ買った覚えないや」


     ・・・


両親曰く、小さいころから歌うのが好きな子供だったらしい。正直そんな昔の事は覚えていないけど、一番新しい記憶の中の僕が語っていた将来の夢はもう歌手だったから、多分両親の言う通りなのだろう。

 自慢じゃないけど、勉強はそれなりに出来たほうだった。中学での成績は常に上位だったし、高校は親に言われるがまま、県で一番の進学校に入った。そこでも成績が落ちる事はなかったから、担任からは大学受験を勧められていた。両親、特に母さんもそれを強く望んでいたけど、僕は結局大学には入らなかった。

 周りの反対を押し切って家を出て、ギターと少しの服だけ持ってこの街に来た。

 歌手になりたいっていう強い意志があったわけじゃない。今思えば子供のわがまま、というよりただの反発だ。

初めて母さんの泣いている姿を見た。あんなにいい子だったのにどうしてって最後まで言っていたけど、ごめん。本当は僕、母さんが思うようないい子じゃないんだ。

親からの経済的援助は勿論なかった。安いボロアパートに住み、アルバイトをして食をつなぐ。自分が何をしたいのか、どこに向かおうとしているのか分からなくて、でもそれを考えると怖くて、ただがむしゃらに歌を歌った。

今のご時世、直接レコード会社に行ったって門前払いされるだけだ。だからまずは切っ掛けを掴もうとして、色んな場所で歌った。もしかしたら誰か僕の歌を気に留めてくれる人がいて、あわよくばその人が音楽関係の人間で、なんて都合のいい事だけを考えて。

ただ現実っていうのはそんなに甘くなくて、それでも頭の悪い理想にだけすがりながら、歌って、歌って、歌って、歌って、歌って……。

そんなことをして、気が付いたら二年が経っていた。その間僕が得たものは何だ?

何も、なかった。

結局そうなんだ。僕と言う人間は、どこまでいってもただの一般人で、輝ける限られた人間っていうのはもっとずっと早くから何かを得ている。こんなところで無意味な時間だけを過ごしている僕なんかじゃ、きっとこの先も何も、得られない。

そんな時だった、彼女と出会ったのは。


     ・・・


いくら夏の初めといっても、太陽が出ていなければ少し冷える。空は明らかな雨雲で覆われていた。

整理する時間が欲しいとお母さんに言って家を出て来たけれど、せめて天気予報くらいは確認しておくべきだったと後悔した。

まだ降り始めてはいないが、濡れるのも嫌なので、少し歩いて小さな喫茶店に入った。窓際の席に案内され、軽く注文を済ませる。運ばれてくるのを待っている間に、ふと視線を窓の外に向けようとすると、ガラスに映った自分の姿が目に入った。

そこには私の知らない私がいた。

顔立ちは、まあ少し違和感を覚えるような気もするけれど、大体記憶通り。でも、全身から滲み出る雰囲気と言うか、オーラのようなものがまるで違った。自分の姿を見てそんな事を思うのも変な話ではあるけれど、でもそれも仕方の無い事なのだろう。

「三年分の記憶がない、か」

 お母さんに日記帳を見せられた後、言われた事を思い出す。

どうやら私は三年分の記憶が飛んでいるらしい。と言うか正確に言うと、三年前の高校三年の時から、一ヵ月ごとに記憶がリセットされるようになったらしい。

原因は不明。ある日突如として発症してから今まで、ずっと続いているらしい。

正直なところ、よく理解は出来ていないし、信じられてもいない。

でも現にこうして私の記憶とは全く違う私を目の当たりにしていると、無理やりにでも理解を強要されている感じがした。

それに極めつけはあの日記。家を出るときに一緒に持ってきた鞄から取り出し、机の上に広げて、もう一度ちゃんと読んでみる。私の最後の記憶の日からほぼ三年分、ご丁寧に書かれていた。

私の字で、私が体験したであろうことが書かれているが、勿論にそんな記憶はない。よく読んでみると、日記の中の私も一ヵ月置きに記憶がなくなっているらしい。でもその中のすべての私が悲観するでもなく、多少の動揺はあれど素直に状況を理解していた。そして同様に、今の私もそうだ。

昔から色んな人達に能天気だ、楽観的だと言われ、その度にそんなことは無いと否定してきたけど、あながち間違っていなかったのかもしれない。漠然とした不安や戸惑いは当然あるけれど、くよくよ考えるのは小さい頃からあまり好きではないのだ。

多分お母さんの言っていることは本当だろうし、私は記憶をなくしているのだろう。でもそれを悩んだところで解決はしないし、記憶が戻るわけでもない。ならせめてこれからの事を考えたほうがいいはずだ。

ただ一つだけ気がかりな事がある。私は日記帳をめくっていき、一番新しい日付のページを開いた。そこに書かれたいた日付は、今日からちょうど二か月前のもの。その先は何も書かれていない。

おかしい。いくら何でも記憶を亡くしてからもつけ続けていた日記を、突然やめるだろうか。一ヵ月前、というか三年分の記憶がないので確信をもって言える訳ではないが、それでも自分自身の事だ。私はそんな事はしない。きっとこの一ヵ月の間に何かがあったのだ。

そう言える根拠がもう一つあった。それは誰の目から見ても明らかな事だったが、私の日記帳はその空白の一ヵ月間が記されていたであろうページが、綺麗に破られているのだ。

お母さんは絶対にそんな事はしないし、勿論私だってしていないはずだ。

「ねえ私。この一ヵ月の間に、一体何があったの?」

そんなおかしな質問に答えてくれる人は、当たり前だけど、誰もいなかった。


     ・・・


 電車に揺られる事三十分。車内には終点を告げるアナウンスが流れ、難しい顔で座席に座っていた人々も、その重そうな腰をゆっくりと上げ始めていた。僕は開く方向のドアのすぐ前に立ち、電車が完全に停車すると同時に開いたそこから一番に降りて、そのまま改札を出る。そしてしばらく歩いた所で道の端により、ずっと担いでいたギターケースを地面に降ろした。

自宅からは多少離れているが、都市部に近く、走る路線も多くあり、尚且つ終点にも始発にもなるこの駅は人通りが多い。加えてテレビの街頭インタビュー等もちょくちょく行われているため、ストリートミュージシャンにはよい立地だ。

半年ほど前から、道端のこの狭いスペースが、僕の唯一のステージだった。

地面に直に座り、ギタケースから相棒を取り出す。少しチューニングをしてから静かに歌い出した。

僕の座っている場所まではギリギリ雨避けが設置されているが、もう少し行くとそれもなくなる。駅を出た時には気付かなかったが、外は少しづつ雨が降り始めていた。そのため駅付近を歩く人々は、皆もう傘をさし始めている。

周りの人々の会話や雑音。雨に濡れた靴が地面と擦れる音や、少し遠くから聞こえる電車の音。そして降り続ける雨といった様々な音が交差するこの空間で、僕の歌に耳を傾けようとしてくれる人は見当たらない。

でも別に構わない。僕がここで歌うのも今日で最後だ。ケジメをつけよう。彼女の事と、そして自分自身のあり方に。そして新しい一歩を踏み出すんだ。

ふと一瞬、雨が止んだ気がした。気がしただけで、勿論本当は止んでなんかいない。でも僕にはそう感じられた。時が止まったのかと錯覚してしまうくらいだった。

向こうからこちらに走ってくる人がいる。運悪く傘を持っていなかったのか、雨に濡れながら必死に雨宿り出来る場所を探しているようだった。やっと雨避けがあるところまで着くと、一安心といった具合に鞄からハンカチを取り出し、濡れた髪の毛を拭き始める。

「……」

 一瞬の間が僕らの間にはあった。それは長いようで短い、それでも僕が行動を起こすには充分な時間だった。

 彼女から目をそらせばいい。簡単な話だ。そうすれば全て終わる。いや、その表現は正しくないかもしれない。だってきっと、今の僕と彼女は始まってすらいないはずだから。

 でも僕にはそれが出来なかった。

「どうして」

 零れたその言葉は、一層強さを増した雨に掻き消された。

 きっと彼女には、届いていない。


     ・・・

「あーあ、やっぱりか」

 喫茶店を出た私は、運悪く突然の雨に降られてしまった。まあ雲を見ればなんとなく予想は出来た、。というかしていたのだけれど、流石に遅かったようだ。

 もう一度喫茶店に戻っても良かったけれど、店員さんに怪訝な顔をされても嫌なので、どこか雨宿り出来る場所を探して走った。

 やっと見つけたその場所は、駅が近くにあるせいか人通りが多く、ゆっくり出来るスペースとはいいづらい。

「ふう」

 軽く息をついて、乱れた呼吸を整える。バックからハンカチを取り出し、気休め程度に濡れた髪を拭いた。

 ふと、誰かの視線を感じた。辺りを見回すと、道端に座っている男の人が、驚いたようにこちらを見ていた。

 その人は、私と同じくらいの年齢で、夏にしてはちょっと厚手の恰好で、それなりに恰好よくて……どこか、懐かしい感じがした。

「……」

 見つめ合うなんていうロマンチックな表現は似合わないかもしれないけれど、私とその人はしばらくお互いを見ていた。一瞬だけ、その人の口が何か言おうと動いたような気がしたけれど、声は聞こえなかった。

 どうしよう。流石に少し気まずい。見ず知らずの男の人と、こんなに長く視線を交わした経験がある人がいるならば、今すぐ私に取るべき行動を教えてほしい。

 取りあえずにこりと微笑んでみた。けど反応がない。まずい、本当にどうしたいいか分からない。

「あの」

 しかしこのままでは埒があかないので、意を決して話しかけてみた。

どうしてだろう。私に、何もせずにその場を去るという選択肢は浮かんでこなかった。

「えっと、私の顔に何かついてたりします?」

 我ながら随分とベたな話しかけ方をしてしまった。

「……あ、いえ。すみません。そういう訳では」

 その人は随分と申し訳なさそうに謝った。まるで、絶対にしてはいけない事をしてしまったかのように。

「本当にすみません。じっと見ちゃったりして。気分、悪くされましたよね」

「いえそんな私の方こそ」

 だからそんなに謝らないでくださいと声を掛けるが、その人は悲しそうに俯いてしまった。

 不思議だ。さっきも感じだけれど、この人とは初めて会ったような気がしない。似ている知り合い何ていなかったはずだけれど。

 そんな事を考えていると、再びその人は口を開いた。

「似ていたんです」

「え?」

 掠れるような、雨音に攫われてしまうんじゃないかというぐらい、小さい声だった。

「昔の……古い、知り合いに」

「私が、ですか?」

「ええ」

「ひょっとして、彼女さんとか?」

 その言葉に、その人の表情が一瞬曇った。

 しまった、デリケートな事に無粋な質問をしてしまった。私の悪い癖だ。

「あ、ごめんなさい。変なこと聞いちゃって」

「いえ、構いませんよ。そう、ですね。恋人ではなかったですよ。でも僕にとっては、とても大切な人でした」

 そういったその人の瞳は、とても優しかった。優しすぎて壊れてしまいそうで、私の胸が少しだけ、痛くなった。


     ・・・


「私、一ヵ月で記憶がなくなっちゃうんだって」

 自分のしてきたことの愚かさや、情けなさに自暴自棄になり、傘もささずにいつもの駅近くで歌っていた僕に、声を掛けてきてくれたのが彼女だった。ずぶ濡れの僕に傘を差しだしながら笑顔を向けてくれたあの瞬間は、今でも覚えている。

 それから不思議と意気投合した僕らは、ほぼ毎日この場所で会うようになっていた。

 今まで誰にも気に留められなかった僕の歌を、彼女はいつも最後まで聞いていてくれた。彼女は、僕に初めてできたファン一号だった。

 そんなある日、突然の彼女からそんな事を言われた。

「記憶が、なくなる?」

 正直うまく理解出来なかった。というか突然こんな事を言われて理解できる人は、ものすごく能天気で、楽観的な人だろう。

「うん。実は私も良く分かってないんだけど、どうやらそうらしいんだ」

「えっと……」

 言葉が出なかった。そんなアニメや漫画みたいな話を、でも目の前に本当にそういう人がいて、それを告白されて、何て言えばいいんだ。

「ごめんなさい。突然こんな事言っても、訳が分からないよね」

 何も言い出せない僕に、彼女は笑いながら謝った。そして、静かに自分の事を話し始めた。

 その間、僕はどんな顔をしていただろうか。まるで思い出せなかった。

「でも安心して。私あなたとの事は忘れない。絶対に忘れないから」

 すべての事を話し終えた最後に、彼女は僕にそういった。笑いながら、大丈夫だから、と。

「私ね、その日あった事は、すべて日記につけるようにしているの」

 彼女はバックから使い込まれた日記帳を出しながら言った。

「一行、二行程度のものだけど、でもそのおかげで私は色んな事を忘れなくてすんでる。楽しい事や、嬉しい事。ちょっぴり悲しい事も。全部、大切な思い出だから」

 少し、本当に少しだけ悲しげ表情で、彼女は言った。

 記憶をなくすというのはどれほど辛い事だろうか。思い出をすべて忘れて、自分一人が時間に置いて行かれるようなそれは、果たして彼女をどれだけ苦しめているのだろうか。

想像も出来なかった。

 そして彼女の辛さを理解出来ない自分が、どうしようもなく、許せなかった。


     ・・・


「良ければ、一曲聞いていただけませんか?」

 あの後、何も言い出せずにいた私に、その人はさっきの瞳と同じくらい優しい声で言ってくれた。

「大した曲ではないんですが、一応僕のオリジナルなんです。とある人に向けて作ったんですが、もうその人には届きそうにないので」

 その言葉のある人と言うのは、きっとその大切だった想い人のことなんだろうというのは、聞かなくても分かった。

「いいんですか?私なんかがそんな大事な歌を聞いても」

「もちろん。歌は誰かに聞いてもらわないと、意味がありませんから。それに……」

「それに?」

「いえ、何でもありません。それでどうですか。お時間がないようなら、無理にとは言いませんので」

 その人が言い掛けた言葉の続きを、私は深く追及することが出来なかった。したくなかった。

「はい。私なんかで良ければ是非」

「良かった。それじゃあ」

 その人はそう言うと、一度大きく深呼吸をしてから、歌い出した。


     ・・・


 彼女と出会ってから、今日でちょうど一ヵ月が経とうとしていた。彼女がいう事が本当なら、今日が記憶を保てる最後の日。とても大切な日のはずだ。

 にも関わらず、彼女はいつもと変わらぬ様子で僕の歌を聞いていた。ただじっと、僕の歌う姿を見ていた。

「ねえ、この後時間ある?」

 観客一人のコンサートを終え、ギターをしまっていると、彼女にそう聞かれた。

「まあ、特に予定はないけど」

「ホント!じゃあちょっと付き合ってくれない」

 そう言われ、促されるまま一緒に歩き始めた。

 時刻は夜の八時を回っていた。彼女が記憶をなくすまで、あと四時間という事になる。

 正直まだ僕は信じられていなかった。

だってそうだろう。一ヵ月で記憶がなくなるなんてそんな事、普通あるわけがない。

でも心の底では分かっていた。その話をした時の彼女の目を見れば、疑う余地なんてなかった。きっと彼女は本当に……。

「着いた!」

 歩くこと数十分。連れて来られたのは、閑静な住宅街だった。

「ここは?」

「私のお気に入りスポット。あなたにも教えてあげる」

 そう自慢げに彼女は言った。

「私ね、昔から何か悩んだり、考え事をする時にここに来るの。そうするとね、何故かすっごく落ち着くんだ」

 確かに彼女の言う通り、この場所は、不思議と気分がすっきりするような気がした。

「ここの狭い道はね、私の中学の近道なの。でもこの先の家にすっごく怖い犬がいるから、一人じゃ絶対に使えなかった」

 再び一緒にゆっくりと歩きながら、話に耳を傾ける。

「ここに住んでるおばさんがすごく親切な人なの。昔よくお菓子をもらったりしてたんだ」

 ぽつりぽつりと語られる彼女の思い出は、どれも彼女が記憶をなくす以前のものなのだろう。そんな気がした。

「そして、ここが」

 先ほどの住宅街から少し離れた所で彼女は歩みをとめ、一軒の家の前で立ち止まると、振り返りながら僕に言った。

「私のお家です」

「へえ」

「もっと驚いてよ」

 つまんないの、と僕に文句を言ってくる。

「私ね、貴方に私の事、もっと知って欲しかったの」

「僕に?」

「うん。正直に言うとね、私怖いんだ。記憶がなくなっちゃうの。だってあなたと過ごした時間も、一時的とはいえ、私の中からなくなっちゃうんだもん。それがすっごく怖い」

 当たり前だ。いつも気丈に振る舞って、自分はこういう性格だからと笑っていたけれど、記憶がなくなるのが怖くないわけがない。

「だからね、貴方に私の事をもっと知っておいて欲しかったの。そうすれば、貴方の中の私は、私が記憶を亡くしている間も、ずっと強く残っているでしょう。そう考えるとね、何故かとても安心できるの」

「……」

「ねえお願い。明日この場所に私を迎えに来て。もちろん貴方の事は忘れるつもりなんてない。でも、もし何かあったとしても、きっとあなたの顔を一番に見れば、私思い出せる気がするの。だって私は――」

 僕が彼女のその言葉の続きを聞くことは無かった。彼女は突然糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちた。

一瞬の出来事に呆けていたが、すぐに正気を取り戻した僕は、彼女の体を抱きかかえ、必死に呼びかけた。でも、彼女は何も反応を示さなかった。

 大きな声で呼んでいたからか、彼女の家から人が出て来た。知らない男が叫んでいるのだから、最初は怪訝そうにしていたけど、倒れている彼女を見ると、血相を変えて駆け寄ってきた。

 彼女の母親であろうその人から後で聞いたが、前にも一度だけこういうことがあったらしい。医者によると、どうしても忘れたくない記憶があると、その強い思いから脳に負担がかかり、こうなってしまうのだという。

 許可を得て彼女を家まで運びこみ、そのまま部屋のベットに寝かせた。彼女の部屋は、この年頃の女性にしては大分大人しめの作りで、いつもの彼女の元気な性格からは考えられないくらい質素だった。

 その後、彼女の母親に無理を言って、少しの間彼女と二人きりにさせてもらった。あなたの事は娘から聞いているからと、了承してくれたが、きっと本当はずっと娘の側にいたいはずだ。

 丁寧にお礼を言って、母親が出ていった後に、ベットで寝ている彼女に向き直った。そしてゆっくり近づき、その髪に触れた。よく手入れのされているであろうセミロングの髪は、さらさらと僕の手の隙間から流れていった。

「僕のせいだ」

 静かに呟く。そのまま彼女のバックから日記帳を取り出した。適当なページをめくると、記憶をなくしてからの様々な事が書いてある。そしてここ数週間は僕のことばかりで埋められていた。今日はどんな話をしただとか、歌った歌のどんなところがよかっただとか、そんな事ばかり。

 気付かないうちに涙が出ていた。零れ落ちた雫は、日記帳に小さなシミを作っていく。

 もし、彼女にまた同じような事が起きたら。考えただけで恐ろしかった。

 僕といることで彼女の体に負担がかかるのなら。彼女が苦しむことになってしまうのなら。いっその事僕が……。

 きっと彼女は僕がすることを許してはくれないだろう。でも構わない。それで彼女がまたあの笑顔でいてくれるなら。元気に過ごしていってくれるなら。例えそばにいるのが僕じゃなくたって。

「きっと出会ったあの時から、僕は君の事を」

 聞こえているはずのない彼女に、それでも言葉をかける。

 そして僕は、彼女の日記の今月一ヵ月分が書いてあるページをすべて破った。

 不思議と涙は収まっていた。


     ・・・


「ありがとうございました」

 歌い終えたその人は私にお礼をいうと、ギターをケースにしまって立ち上がった。

「あの!」

 そのまま立ち去ろうとするその人に、私は無意識に声を掛けていた。

「はい」

「あ、えっと、その。私達、どこかであったことありませんか?」

 何でそんな事を聞いたのか、自分でも分からなかった。

私の問いかけに、その人は少しだけ沈黙していたけど、すぐに口を開いて

「ありませんよ。初対面です」

 そう言った。

「そう、ですか」

「ええ」

「あの、歌。とっても素敵でした。また聞かせてください」

「ありがとうございます。もちろん、と言いたいところなんですが、すみません。あの曲は今日限りで封印です」

「え。そんな勿体ないです。あんなにいい曲なのに」

「そう言ってもらえると嬉しいです。本当に……。でも大丈夫。貴方が覚えてくれていれば、それだけでその曲は報われます」

「私が、覚えていれば?」

「ええ。貴方の心の中にあり続けてくれればそれで」

「わ、私忘れません。きっと忘れません」

 私のその言葉に、優しく微笑むと、その人はゆっくりと駅の方に歩いて行った。私はその後ろ姿をじっと見つめていた。

「あれ?」

 いつの間にか、私の目からは涙が溢れていた。それはしばらく止まることなく、すれ違う人達が奇異の目で私を見ていた。でも構わず私は泣いた。

 どれくらいそうしていただろう。気付けば、あの人はもう見えなくなっていた。涙もようやく流れきったようだ。手に持ったハンカチはぐしょぐしょに濡れてしまっていて、雨のせいなのか、涙のせいなのか分からなかった。

「よし」

 小さく呟くと、私は踵を返して、家路についた。

早く帰って、今日の事を日記にしなければ。とりあえずはあの歌の事を書こう。決して忘れないように。

 雨はいつの間にか止み、空は夕焼け色に変わっていた。

遠くで聞こえた電車の発車ベルは、どこか悲しげだった。


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