君のいるあの街へ
帰りの電車。もう暗くなった光の街が流れて溶けていく。ただぼんやりと眺めた。アキが見ることが出来る最後の夜を僕の網膜に焼き付けておきたかった。もうそれしか写してくれない目になっても別によかった。徐々に削られていく心が、僕の涙腺を揺らす。
好きだったのだろうか。君は僕を。僕は君を。同じだけ愛せたのだろうか。
初めの愛の言葉を聞いてからたったの三ヶ月。一番アキのことを考えていた三ヶ月。長い人生の中でたった三ヶ月。
手が勝手に動いた。きっと空の手触りが余りにも切ないから、アキの手を無意識に求めたのだ。心よりも体はアキの体温を覚えていた。心よりも体は正直で悲しいと泣いた。
「あ……、なんだ……、ははっ……」
自分の不甲斐なさに失笑した。僕はもう彼氏でも何でもないのに、アキが……僕を悲しませないためにしてくれた最後の優しさだったのに……。僕がアキを引きづらないように、前に進めるように、立ち止まる理由を奪ってくれたというのに。
それなのに止まらなかった。挙げ句の果てに嗚咽まで漏れ始めた。突然泣き出した僕に気付いた人はチラチラと心配そうにこちらの様子を覗く。しかし、自分の意思ではもう止められなかった。体は言うことを聞いてくれやしない。
「お兄さん大丈夫かい?」
隣に座っていたおばあさんが、僕に声をかけてくれた。
もう返事をする余裕がなかった。
「何か辛いことがあったのかい?」
僕は必死に首を横に振る。辛いから泣いているわけではない。
「じゃあ悲しいことがあったのかい?」
悲しいことなのだろうか……。確かにアキが死ぬのは悲しい。でもきっとこの涙は違う。罪悪感に溢れた感情。僕はアキがくれた愛よりもたくさんの愛を返せなかった。
返せないくらいの愛を、僕はもらっていたことに今更気付いたのだ。
「……彼女に振られました」
おばあさんはそれを聞くと、鞄からハンカチを取り出して僕の涙を拭いてくれた。
「別れてこんなに泣いてくれる男の子を振るなんて酷い子だねぇ。そんな子のことは忘れなさいね」
そう言うと、僕の背中を優しく摩ってくれた。その手は温かかった。
「いや、おばあちゃん違うんだよ。たぶんきっと、すごくいい子だったんじゃないかな」
目の前に立っているサラリーマン風の中年のおじさんが話に入ってきた。
「あら?それはどうして?」
「どうでもいい女に振られたときに男は泣かないものだ。なぁ、兄ちゃん。それ程泣くってことはいい子だったんだよな」
……いい子だった。こんな僕を愛してくれた。返せないくらいの優しさを。
「………はい」
そういうとおじさんは頭をポンポンと叩いた。
「生きていればこれから、もっとたくさんの楽しいことがあるさ」
死んでしまったら、もう楽しいことも悲しいこともなくなってしまうのだ。当たり前のことなのに気付かなかった。
アキは僕とキスをしたかっただろうか。きっとしたかっただろうな。
僕は恋人とキスというものをしたことがないから本当に分かってあげることは出来ないけれど、想像することくらいは出来る。相手の気持ちに寄り添うことは出来る。
生きているうちにしか伝えられないことがある。生きているうちにしか返せないものがある。
僕は立ち上がった。
「僕……、もう一度だけ彼女と話してきます。迷惑だと思われるかもしれないですけど」
おばあちゃんはニッコリと微笑んで頷いてくれた。
おじさんも力強く頷いてくれた。
名前も知らない駅に飛び降りて、今まで来た道を逆走する電車に乗った。
迷惑かもしれない。彼女の勇気を、優しさを踏みにじる行為かもしれない。
それでも僕は向かう。君のいるあの街へ。




