(1)裏切りの序章
王子は念話を使えない。
だからということもあり、王女よりは日本語の習得速度が速いことは知っていた。
もっとも、少し程度早いからと言って使いこなせるわけでもなく、一紀から見ればそれほど大きな差異があるわけでは無い。
ただ、王子はどうも一紀が王女を奪ったと感じているようで、あまり友好的ではない。
確か最初は懐いていた紗江子さんとも、ここにきて疎遠になりつつあるというのは、あまり良い傾向とは思えない。
安西は王子を気に入っていろいろと教えているようだが、今回のように勝手に出歩かれるのも問題だ。
児島を呼び出し叱責を与える。
安西の命とは言え、一紀に情報を伝えないというのは大きな瑕疵である。
やや軽薄な感じの児島ではあるが、腕の方は折り紙つきだ。
今回は大人しく一紀の言葉を受け入れていた。
(安西にも、今回は言ってきかさねばな。)
しかし、状況は一紀が考えるような甘いものではなかった。
さして時間をかけずに安西らは戻ってきたが、戻るや否や王子は王女に話があるそぶりでそのまま二人で部屋の方に行った。
安西の報告は特に変わったものではなかったが、その刹那一紀の頭の中に大きな声が響き渡る。
『小僧!謀りよったな!!』
それは、アレクサンダラスからのメッセージであることが瞬時にわかった。
一体どういうことだろうか?
そして、嫌な可能性について確認する。
「安西。どういうことだ?」
紗江子さんは、安西の隣で意味が判らないと言った表情を浮かべている。水橋はポーカーフェースのままだ。
「どういうことだと言われましても、先ほど説明した通りですが。」
「それではない。今、あちらに襲撃があったようだが、お前か。」
「おや、一紀さまは魔法を習得されていないはずでしたが。」
安西の口端には小さな笑みが見える。
「まさか、油断していたな。」
相変わらず、安西は余裕の姿勢のままだ。
それもそうだろう。
この部屋には、安西と一紀の他は紗江子さんと水橋。
紗江子さんが安西の仲間である可能性は非常に低いが、水橋は安西が連れてきたメンバーである。
知っていたということだろう。
「油断と仰いますと?」
「お前を信用し過ぎたということだ。」
「いえいえ、できればこのまま信用していただきたいのですが。」
「できるわけないだろう!」
さすがに何か異変が起きたことがわかったのだろう。
紗江子さんが素早く一紀の方に寄ってくる。
「水橋。お前も裏切っていたのか?」
これは、念のための確認だ。
仮に裏切ってないと説明しても、信じる筈もない。
「いえ、私は何のことやら。」
と水橋が無表情に答え、それに被せる様に安西が言う。
「彼女は裏切ってなどいませんよ。ちなみに私もですがね。」
「何? 安西さんや水橋さんが敵に回ったってこと?」
紗江子さんが驚いたように、一紀に聞いてきた。
紗江子さんの理解は曖昧だが、今は丁度良い。
敵か味方かの認識が今は適当だろう。
ただ、裏切りならこの部屋にいるメンバー以外にも、外で多くの者が待機している筈だ。
モニターにはそのような気配は出てなかったが、それすら操作されていると考えた方がいいだろう。
そして、安西ならその程度は余裕でできてしまう。
「そうだ。だとすれば、一旦逃げないとだめだな。」
王女を王子が連れて行ったのもこのためとすれば、既に王女は確保されていると考えた方が良い。
「安西さん相手にねー。水橋さんもいるとすれば、ちょっと厳しいかも。」
「この家の構造も抑えていますし、外にも手だれの者を揃えています。逃げ道はありません。無駄な抵抗は止めた方がいいですよ。一紀さま。」
安西からすれば、紗江子が今日ここにいたのは予想外であろう。
部屋の外の状況は不明だが、この部屋にもっと人数を揃えていないということは、人員に余裕がないということである。
扉の前に安西がいるが窓側には誰もいない。
一紀は諦めたような様子を見せながら、傍らにいる紗江子さんに微妙な接触で合図を送る。
一紀が窓側へ動き出すと同時に、紗江子はなぜか安西の方に動く。
「紗江子さん!」
「かずちゃん、今よ。逃げて!」
紗江子さんを助けに動こうと体を捻った瞬間、安西の手に銃が握られているのが見えた。
その横には呆然と立ち尽くす水橋。
「紗江子さんごめん。」
そう言うと、一紀は壁際にあった照明器具で窓ガラスをたたき割り、できた空隙に飛び込む。
もちろん割れた部位は非常に小さく、体で押し破る形となる。
一瞬鈍い銃声が聞こえたが、幸い一紀には当たっていない。
ここの外には1mほどの隙間を囲む2mほどの塀があるが、一紀の飛び出した場所に丁度黒服の男が身をひそめていた。
まさにその上に落下した形である。
降ってきたガラスの破片が体に刺さったのか、男は顔に怪我を負ったようだ。
その上に一紀の体が落ちてきたためか、抵抗できずにうずくまる。
しかし、その先にも敵の近づく気配。
うずくまっている男の体を踏み台にして、一紀は一気に塀の上を掴んでよじ登り、塀を超える。
体力にそれほど自信がある訳ではないが、今は走るしかない。
塀の外は林がある。
そこを登れば山に抜けられる。山に入れば何とかなるかもしれない。
(紗江子さんごめん。必ず助けるから。)
一瞬見た安西の銃から、麻酔銃だと認識して飛び出した。
非合法なものだが、かつて一度安西が使うのを見たことがある。
殺すつもりはないということだろう。
安西なりの意思表明かもしれない。
とりあえず、敵がどの程度の規模かもわかっていない。
今は少しでも逃げておくべきだろう。
殺すつもりが無いのであれば、逃げ延びる方法はある筈だ。
一紀は、持っていた携帯を森の木の枝にハンカチでくくりつける。
GPSを追いかけて、このあたりに留まってくれればよいが、そう気楽に考えることはできない。
安西に見つけられれば、逃げ切れる自信は全くないのだ。
手元には、もう一台GPSを外したものがある。
こちらも、足がつくのは時間の問題かもしれないが、今は重要なツールである。
◆
幸いにも追手に遭遇することはなかった。
というのも、この山は子供のころに探検と称して遊びまわっていた場所であったことも幸運だったと言えよう。
少なくとも逃げ道はわかる。
ただ、いつまでも森の中に留まっているのは得策ではない。
早急に場所を変える必要がある。
そして、魔導師が無事かどうかを確かめなければならない。
あの警告がどのような魔法なのかはわからないが、アレクサンダラスも何らかの襲撃を受けたということである。
しかも、現時点では一紀の罠だと思っている。
誤解を解き、早々に魔導師との合流を果たしたい。
王女や紗江子さんを取り戻すためには、魔導師の力は絶対に必要だ。
一紀もネット操作で場所などを突き止めることはできるだろうが、二人を救い出す力はない。
既に抑えられている可能性はあるが、まずはもう一つの家に向かうこととする。
そこで、様々な物資の補給をするのだ。
食べ物ではない。
PCとそこに入っているハッキングツールである。
その存在は安西にも教えていなかった。
だが、安西の事である。
既に見つけている可能性は十分ある。
できれば、そこに安西が来ていないことを祈ろう。
その頃、別の場所では非公式な戦闘が行われていた。
日本国内で公式な戦闘はありえないのだが、そのことは誰にも知られることなく葬られる運命にある。
「くそっ!先手を取られた。」
「どういうことだ?」
「超能力者は先に日本政府の機関に抑えられたようだ。」
「ばかな。どこで計画が漏れていたのだ?」
「そもそも、政治家の方は押さえていたはずだが。」
「じゃあ、こいつらは誰なんだ!」
明らかに日本語ではない言葉が交わされている。
「子供の方はどうなんだ?」
「そちらも待ち構えられていた。二人はロスト。」
「なんだと!?いったいどこから情報が?」
「撤退だ。作戦は失敗! 撤退するぞ。」
◆
「一紀さま。あまりに迂闊すぎますよ。」
そう言いながら、一紀が確保していたもう一つの家の玄関先のリビングで椅子に腰を掛けながら、笑顔の安西が待っていた。
外部に追手の姿はなく、鍵もかかっていたはずだ。
もっとも、鍵は中から掛けることができる。
安西は一人だけで、しかも一紀が取りに来たノートパソコンをテーブルに置いている。
「くっ。」
「しかも、女性を放り出していくのはいただけませんな。」
「殺す気はなかったんだろう。」
精一杯の嫌味で返す。
「今も、荒事は避けたいのですよ。というか、あなたと私では勝負にすらならないですが。」
安西はプロだ。
紗江子さんに鍛えられているので、素人相手には十分やれる自信のある一紀ではあるが、安西に勝てる要素は全くない。
そして、ここで待っていたということは外にも部下を配置しているということだ。
先ほどのように、ガラスの破片が潜んでいた男に刺さると言った偶然を期待するのも難しい。
「なぜ、裏切った。」
「心外ですな。昨日も言いましたが、裏切ってなどいませんよ。安全な場所にお連れするだけです。ですから、抵抗しないでいただきたいですな。」
「そんな言葉を信じられる訳ないだろう。魔導師も襲撃しておいて、何が安全な場所だ。」
「そちらも、避難していただくための行動だったのですがね。」
安西の表情はほとんど変わらなかったが、雰囲気から魔導師が逃げたのではないかと想像する。
「魔導師はどうした?」
「おや。実は魔法が使えており、それであちらの状況を知ったのかと思いましたが、違うのでしょうか?」
「俺が魔法?」
「そうですか。まあ、それはあとでまた聞きましょう。ここは、大人しくしていただけませんか。一紀さま。」