序章 1
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
自室には全て揃っているが、階下のテラスに行こうと思い自室を出た。歩行の支障になるものは全て自動で開いていく。エレベーターの扉も開いていた。この建物はヒエラルキーの高い者の行動を予測して動作するようにプログラムされている。
向かうのはテラスを併設したカフェ。カフェはイタリアのカフェをモデルにした建築様式で、カウンターには最高級のウォールナットが使われ重厚感を醸し出す。エスプレッソマシーンは20世紀半ばに製造されたマニュアル式のもので、磨き上げられて美しい光沢を放っていた。このマシーンを使って初老のバリスタが手際よくエスプレッソを抽出している。まるで陶器の骨董品のような雰囲気の男性で、極めて無口だが、エスプレッソは本場にも負けない味だ。
カフェのあるフロアで停止したエレベーターは、ゆっくりと扉を開く。十年ぶりか?いや、もっとか…カフェ特有の雑踏と喧騒につつまれたが、私の来訪に気づいた職員がすぐに「マスタークラスの来訪です!」と大きな声を上げた。水を打ったように静まり返る店内。私は小声で「そのままに。気にせず。」と言った。初老のバリスタだけがにっこりと微笑んでくれた。私のことを覚えてくれていたのだろうか。
すぐにウェイターが駆けつけて来て、テラスの席に案内してくれた。頼むのはもちろんエスプレッソ。ほどなくテーブルにエスプレッソが届く。注文をしていないのにエッグタルトが添えられていた。やはり覚えてくれていたようだ。
研究職だった頃、夜食はいつもこれだった。それから、約百年。一研究者だった私は中央機関第三管区、時空管理室、室長となる。私の名前は銀白夜135歳だ。既に孫も他界している。孫より下の子孫とは交流がほとんどない。孤独だ。
久しぶりのエスプレッソとタルトを堪能した私は外を眺めながら決意した。地上1200メートルから見る世界は、いつもと変わらず美しい。美しいが、私はこの世界に飽きてしまったのだ。私は計画を行動に移すことにした。