生まれ変わればあるいは
1つ、息を吐いた。
白い息と煙が空中に溶けて、ほどけて霧散して消えていく。
建設途中で放棄された廃ビルの屋上で、1人夜空を見上げては何度それを繰り返したか分からない。
光り輝くビル群を臨む場所。
煩わしく喧しい雑踏。
この機械的に発展していく都心部において、それらから逃れることは誰であれ不可能だろう。
わたし。
アイルシャレール・ニューグリフは、大団長である。
立派な肩書だ。
皇国アウゲアクラフト、その国軍における総大将としての任を拝命している。
かなり正直な話をするが、わたしはこの席に座りたくて座っているわけではない。
半ば「強引に座らされている」というのが、本当のところだと真に認識している。
もともと辺境のグルビッツ族───ウサギ系獣人種の閑静な集落で暮らしていたわたしが、何の因果でこんなところまで来てしまったのか。
力は人より強い方であった。
男の子との喧嘩でも負けることは絶対になかったし、力仕事でも大人だって相手にならないくらいの力持ちだった。
そして無邪気だったわたしは、それを隠そうとすらしなかったのだ。
転機は唐突に訪れた。
ある酷い雨の日だった。国軍の部隊が、理由あって集落に立ち寄ったときのこと。
わたしのことを見たその部隊の隊長が「ぜひ軍に入らないか」と提案してきたのだ。
急すぎるその提案を、わたしは当然ながら拒否した。
わたしは踊り子になりたかったのだ。
観客の前で煌びやかな衣装を身にまとって、優雅で美しい踊りで人々を魅了する踊り子に。
心から憧れていた。
集落育ちには難しい話だったかもしれないが、それでも夢だけなら十分に見れた。
───気付けば馬車に乗っていた。
目が覚めたとき、わたしは馬車の中で兵士たちに囲まれ、ガタゴトと揺られながら車窓から入る雷光に照らされていた。
寝ている間に何があったのかは知る由もない。
いくら泣き叫ぼうとも誰も教えてくれなかった。飛び降りようとすれば数人がかりで抑えられ、しまいには縄でぐるぐる巻きにされた。
あれからどれほどの月日が流れただろうか。
いったいどれだけの研鑽と、苦労と選択をしてきただろうか。
軍学校に放り込まれてしごきにしごかれ、軍の監視下に置かれながら徹底的な訓練を受け続けた。
───半ば強引に座らされている。
「半ば」と付けざるを得ないのは、わたしが抗うことを途中であきらめたからだ。
その環境で生きていくことを受け入れてしまったが故に、わたしはその全てを他者のせいにはできない。
わたしはまた1つ、白い息と煙を吐いた。
右手には火のくすぶる安タバコが、左手にはとても小綺麗に飾られた小瓶が。
考えることがある。
もし、今とは違う人生があったなら。
それはここまで歩いてきたからこそ耽ってしまう空想だった。
いま以上の最善がないことなど分かっている。
わたしは常に、その時点で自分が出来る最善の判断をしてきたつもりだ。
もし他に最善の道があったとしても、それはこの先の未来には存在しない。いま現在がすべてなのだ。
今という現実に「たられば」はない。
だが、それでも考えたっていいだろう。
わたしにはその権利が少なからずあるはずなのだ。
───生まれ変わりの神秘薬。
それがこの、左手の小瓶の正体。
飲むことでこの肉体が終わりを迎え、この世界のどこかに新しい肉体が編み上げられる。
「創造主の祭殿」と呼ばれる遺跡の最奥で、派遣された部隊が手に入れたもの。
記録では「魔獣との戦闘の最中に紛失」となっているだろうが、事実はわたしの側近にくすねさせた。
小瓶を揺らせば、内部の液体が揺れ動く。
飲むか、飲まぬか。それはこの人生において二度とない、一番大きな博打でもあった。
◇
「レーネル。またぼーっとして」
「ん?」
頬を突かれて、わたしは我に返る。
そう。今のわたしはレーネル・エル・アルシェツェインだ。
頭の中で記憶を再生するのを止めて、わたしは目に映る景色に意識を向ける。
第2校舎2階の女子トイレ。
その手洗い場の前に私は立っていた。
鏡に映るのは奇遇にもあの頃と同じ、茶髪黒目のウサギ系獣人種。ウサギらしい長い耳が特徴的。
「なんでもないよ。どうしたの?」
頬をつついていたアイライナーペンをつまみ取り、微笑んでそのほうを見る。
つついてきた子。リネア・スカーレットはわたしの親友で、桃色の髪をした人族の女の子。
「次の授業、体育だって。ねー、いっしょに休まない?」
「リネア、だめだよ。授業にはちゃんと出ないと。内申点が下がってしまうよ」
「そう言うと思った! ほんとに真面目なんだから!」
わたしは苦笑しながらリネアの提案を断る。
彼女は本当に無邪気な子だった。まるで幼い頃の自分自身を見ているかのよう。
あの転機がなければ、わたしもこの様に育っていたのだろうか。
ふと、トイレの窓から校庭のほうに目を向ける。
そこにはなにやら見慣れた、今となっては思い出したくもない服装をした人たちが5、6人ぐらい立っていた。
次の体育の授業は、たしか校庭で行うはず。
「ねえリネア。あれ、なんだろう?」
「どれどれ? ……あー、あれじゃない? なんか軍の人が説明会みたいなのしに来るって」
リネアのその言葉を聞いて思い出す。
そう。たしか先生がそんなようなことを言っていた。
高校1年生を対象とした軍の職業紹介を、5時限目の道徳の時間を潰して体育館で行うとか。
それだけなら別に気にならないけれど、それで体育の授業も視察するつもりなのだろうか。
それは、いやだな。
「リネア、やっぱりサボろっか」
「ええ!? どうしちゃったのレーネル! 頭でも打った!?」
「声が大きいってば。ちょっとそういう気分になっただけだよ。ほら、行こ?」
リネアの手を握って、彼女がいつも使っているサボりスポットへ向かうことにした。
第2校舎のはずれにある自習室。
そこはわたしたち以外、誰も来ることのない絶好のサボりスポットだった。
◇
門から続いている広い庭を抜け、わたしは家の玄関扉を押し開ける。
「ただいま」
あれからだいたい2年くらいが経過している。
新しい身体へ、わたしが生まれ変わったのが1年ほど前。
神秘薬を飲んでから1年の空白期間があり、それで合計2年という具合である。
周囲の環境を理解しながら、なんとかここでの暮らしに適応してきて今日に至る。
周りの人たちは、ぽっと生えてきたようなわたしのことをまるで不思議に思っていない様子だった。
───アルシェツェイン家。
このアウゲアクラフトにおいて、十大貴族の1つに数えられる名家中の名家。
だが、わたしの知る限りアルシェツェイン家に女の子は生まれていなかったはずである。
当主であるエドモンド伯とも何度か話をしたことがあるが、男の子ばかりだと嘆いていた記憶しかない。
女の子が生まれたとあれば、あの御仁ならば四方八方に騒ぎ立てそうなものだが。
そのようなことは一度たりともなかった。
「おかえりなさいませお嬢様」
「ただいま、ハウヒルト。これから少し出かけてくるから、お母様に伝えておいて」
「かしこまりました。供は必要でしょうか?」
「必要ないよ」
「私といたしましては、付けていただいたほうが心から安心できるのですが」
「どうせ影からこっそり見てるだろう? それで構わないよ」
スクールバッグを私室に置き、制服のブレザーを脱いでチェックのジャケットを羽織る。
リネアとの遊ぶ約束。放課後だから服は適当で、いっしょにお買い物をしようという話だ。
さて、世間ではわたしは病死したことになっているらしい。詳しくは分からない。
実際のところ自分の前の身体がどうなったかなど、いまのわたしに確認できようはずもなく。
エドモンド伯やお父様にそれとなく聞いてみたりもしたけれど、要領を得ない回答しか返ってこなかった。
──そうだと言われているのならそうなのだろう。
もはや捨てたもの、あまり興味を抱くべきではない。
それといまはもう、踊り子になりたいとは思っていない。
幼い頃は踊り子になりたかったけれど、不思議と、この環境に慣れてからはそういう願望を抱かなくなった。
時代も時代だろう。
いまのわたしの夢は「アイドル」になること。
たくさんの綺麗だったり可愛い衣装を身にまとって、踊って、それを素敵な歌と共に披露する。
以前とは真逆すぎる出自ゆえにまた、この夢も叶うかどうかは分からないけれど。
それでも今度は夢を見続けられる。
◇
パーティというのは嫌いではない。
少なくとも昔よりは、わたしにとって楽しめる行事の1つとなっている。
なんと言っても綺麗で華やかなドレスを着れるのが良い。
昔は堅苦しい軍服だの、制服だの、その立場にあった正装を求められて息苦しいことこの上なかった。
話す内容さえ、息苦しい牽制ばかりで辟易とするものだ。
だが、コネクションを作れるのは良い点だった。
人脈を広げることは自分の身を守ることにも繋がる上、とくに財務系と交流を深めることは、円満に予算を組むことにも大きく影響するだろう。
美味しいワインだって楽しむことができる。飲む量には当然気を付けなければならないが、稀有な銘柄を味わえるのはとてもよい。
残念ながらこの身体では楽しむことはできないが。
それでも綺麗なドレスに身を包んで、美味しい食事に舌鼓を打ち、良家のお嬢様方と交流するのはとても楽しいことである。
少なくともそれだけでむかしよりはずっと楽だ。
「レーネル様、今日もお美しいですわ。惚れてしまいそうです」
「ありがとうございます。シャティエール様こそ、また一段とお綺麗になられたご様子。赤子のようなお肌は、さすがシャティエール様です」
「まあ───ふふふ!そうですの! 最近はとくにお肌のケアをしていますのよ」
パーティが始まってからそれなりに時間が経ち、出席した人たちとの会話もある程度済ませたかという頃合い。
「こっそりワインを飲んでみようか」などと無邪気な考えを巡らせていたわたしは、ふと隅のほうに1人で佇んでいる人物を見つける。
見覚えがある。
それは、わたしの良く知っている人物であった。
ルメル・セト・ロイロバーツ。
アウゲアクラフト国軍の現大団長補佐役。
彼は十八貴族に数えられる古くからの名家、ロイロバーツ家出身の軍人である。
齢24にして、補佐役まで登り詰めた「傑物」とも呼ばれる男。
わたしが居なくなれば、もしかすれば大団長に昇格するやもと思っていたけれど。
心ばかりの推薦状もしたためていたが、どうやらあの時と階級は変わってないらしい。
背の高い、ブロンドヘアに端正な顔立ちをした彼。
変わらないその青い切れ長の瞳は、いまは少し先の床をじっと見つめているようだ。
「ロイロバーツ殿。パーティは楽しんでおられますか?」
少し気にかけてやるのも、悪くはないだろう。
彼に対してはわたしも少しばかり負い目がある。
「……おっと、アルシェツェイン家のご令嬢。レーネル殿、でしたよね」
「はい。お初にお目にかかります」
「いえいえ、こんな男に声をかけていただけるとは。嬉しい限りです」
佇まいを直した彼は、空のワイングラスを片手に柔和に微笑んだ。
「浮かない顔をされておりましたが、なにか気がかりなことでもありましたか?」
「ああ。いえ、あまり人様にお話できるようなことでもありませんので」
「ふふ、結婚でも急かされたのですか? お話だけでも良ければ聞かせてくださいな」
彼の手から空のワイングラスを受け取り、白ワインの入ったグラスを「どうぞ」と差し出す。
それを受け取った彼はじっとグラスの中を見つめたのち、笑顔を浮かべてわたしの方に向き直る。
「ははは、まさか……と言いたいところですが、実はその通りでしてね。困っていたところです」
眉を下げた彼。
わたしは微笑んだ表情のまま、ぴしりと自分の心が冷えたのを感じる。
───色恋話は苦手である。
ならばなぜそんなワードを口に出したと言われればそれまでなのだが。
わたしとしては小粋なジョークを飛ばしたつもりが、まさかほんとうにそうであったなど、反応に困ってしまう。
これはデリケートな話題に踏み込んでしまった。
「久しぶりに実家の方に呼び出されたかと思ったら、いつ結婚するのかと詰問されてしまいましてね。まったく頭を抱えてしまいますよ」
「それは……確かに大変ですね。お相手はいらっしゃらないのですか?」
「ありがたいことにお見合いはあるのですが、当の私に結婚願望がないんです。形だけの結婚というのも相手に失礼でしょう」
むずかしい、むずかしいなあ。
いや、踏み込んでしまったのならもう最後まで聞いたって構わないだろう。
踏み抜いてしまえ。
毒を食らわば皿までと言うではないか。
色恋話はあまり得意ではないが、これもまた経験である。
「ふむ、そうなのですね。ちなみに……願望がない理由をお聞きしても?」
「いやははは……。はは、お恥ずかしい話なのですが、初恋の方が未だに忘れられないのですよ。もう、居ないんですがね。その人は」
彼は観念した様子で後頭部をさすりながら、苦笑混じりにそう話してくれる。
聞いてしまって本当にすまななかった、ルメル。
だが、わたしは完全に理解した。
「コイバナ」は得意ではないが、決して理解できないわけではないのだ。
つまりあれだろう。初恋が強烈過ぎて、未だにその想いが燻ってしまっているということなのだろう。
納得はできないが理解はできる。
ならばまあ、この言葉を彼に送るのが良いかもしれない。
「雲煙過眼ですよ、ロイロバーツ殿」
彼の顔から苦笑いがゆっくりと消えていく。
こちらを見るその表情は目が見開かれており、すこし驚いているようにも見える。
「「物事は雲や煙のようなもの」という古語です。景色は常に移り変わるもの。そうでしょう?」
出せる言葉の限界。
これ以上の言葉はアクとなり、相手を殴る鈍器になってしまうに違いない。
色恋沙汰はただでさえ個人の感情が大きくなりがちなのだ。
何度かの失敗を経て学んだことは、少々分かりづらく、そして含みを持たせるくらいが丁度いい塩梅だということ。
「………驚きました。その言葉を僕に言ったのは、貴女で2人目です」
「2人目?」
「……いえ、気にしないでください。ありがとうございます。………そうですね。すこし考えてみます」
それから数日後。
なぜかわたしのもとに、ルメルからコンサートの招待状が届いた。装飾の綺麗な便箋で「2人でいかがですか」と。
当然ながら丁寧にお断りを入れたが、彼はいったい何を考えているのだろうか。
いまのわたしは彼より一回り近く年齢が離れているというのに。
意味不明である。
やはり、その手の話となると人は変になってしまうのだろうか。
◇
「お慕いしておりますわレーネル様! どうか、どうか私と……!」
校舎裏に呼び出されたわたしは、1人の女の子と向かい合っていた。
同学年、つまりは高校1年生の別クラスの女の子。
「ごめんね、ユリネさん。気持ちはすごく嬉しいんだけどわたしは、貴女と付き合うことはできない」
「そ、そんな……私が女だからでしょうか!?」
「うん。もちろんそれもある。それもあるけど、正直恋愛とかには興味がないんだ」
背を向けて走り去っていく女の子の背中を、わたしは申し訳なく思いながら見つめていた。
今年に入ってから、この学園に入学してから2か月だと言うのに告白されるのはこれで7回目。
それも全て女の子からである。
同性に告白するというのがどういう感情なのか。それを理解することは難しいが、その勇気には真摯に応えてあげなくてはならないだろう。
「また告られてたの?」
「そう。また断ったけど」
「ほんと、女にばっかモテるよね! なんで?」
「分かるわけないでしょ、そんなの」
教室にて。
ほとんどの生徒が帰った放課後の時間。
わたしとリネアはよく、この誰もいなくなった教室で2人で話をしていた。
告白の件。どうにも自分が「女性ウケが良い顔をしているらしい」ということだけは分かっている。
それはつまり男っぽいということなのだろうか?
リネアにそう尋ねてみたけれど、それはどうやらちょっと違うとのことである。
意味が分からない。
考えてもわからないことのうち、考えなくてもいいことは山程ある。
わたしは手元の全国武術大会のチラシを眺める。
アウゲアクラフトで一番の武術家を決める大会。
目下、わたしが考えなくてはならないことはこれについてだ。顔がどうのこうのの話ではない。
これの高校生部門に参加してみないかと、お父様から提案を受けてしまったのだ。
わたしはこの身体になったあとでも、毎日の鍛錬を欠かしたことはない。
身に染み付いた癖。習慣である。
人より力が強いのは相変わらずで、だからこそ現在、わたしはそれを表に出したことはない。
せいぜいが庭で基礎鍛錬をしているくらい。
入っている部活も「美術部」という運動とはまったく関係のない類のものだ。
それを知っているのは、おそらくお父様とお兄様だけ。
(……いや、やっぱり良くないな)
チラシを無造作に破り捨てる。
こういうものに出ること自体危険極まりない。
わたしに対する印象に「武術」が加わることすらも避けるべきだと考える。
「え、なに破ってるのそれ」
「ただのゴミチラシ。拾ったやつだから」
「ふつーに捨てればいいのに」
お父様には「出ない」と伝えておくとしよう。
もう金輪際、こういった事柄に関わることはないだろう。
戦いや争いを眼前に見据え続けるのはもうこりごりなのだ。
◇
───もうすぐ夏が来る。
わたしは海岸沿いの人気のない、海がこっそりと砂を集めたような小さな砂浜にいた。
流木や貝殻が転がっている。
故郷と、いまは呼んでいいのか分からないけれど。
わたしが生まれたグルビッツ族の集落は海岸沿いにあった。
いつかの年。
調べたら12年前だったその年に、その集落は跡形もなく消え去っていた。
詳しいこと。わたしが見聞きしたこと。それらをいまは思い出したいとは考えない。
諦めたと同時に捨てたのだ。
諦めたということは捨てたということなのだ。
捨てたものに、いまさら何の郷愁を抱くことがあろうか。
旧姓リヒタ・テスカレント。
それがわたしの最初の名前。
軍人一家のニューグリフ家に養子として迎え入れられてからは、アイルシャレールという名を与えられ、名乗るよう命じられたけれど。
そう言えばついこの間、わたしと同じテスカレントという姓の女性がテレビに出演していた。
わたしと同じ茶髪黒目の、ウサギ系獣人種。
この身体になってからここ最近でようやく、世間一般の流行り廃りを覚えるようになった。
テレビを見るようになったのもわりと最近だ。
その女性。
彼女は有名歌手として、その番組では紹介されていた。
もともとアイドルユニットのリーダーをやっていたが、それを卒業してから歌手に転向したという経歴。
詳しい生い立ちまでは紹介されていなかったけれど、およそ21年前にとある海沿いの郊外から都心に移り住んできたらしい。
それなりの豪邸が実家として映し出されていた。
本名、歌手名はアウラ・テスカレント。
わたしの妹だった人物と同じ名前。
───分からない。
分かりたくもない。
知ったことではない。わたしが思い馳せるべきものはすべてなくなったのだ。
そうであると、真に認識しなければならない。
おもむろに足元に転がっていた石を拾い上げる。
それを海に投げ込んでしまいたくなる衝動を感じながら、わたしはその石をぎゅっと握りしめた。
ひびが入らない程度の力で、強く握りしめる。
衝動に身を任せてはいけない。
この石を海に投げ込んでしまえば、わたしはそれをした自分を嫌いになってしまうだろう。
「レーネル、なにやってるのー?」
不意に、後ろから声が掛かる。
全身に入っていた力がふっと抜ける。
振り返って見上げてみれば、坂上の道のガードレールからリネアがこちらに手を振っていた。
にこやかな笑顔で手を振るその可愛らしい姿は、わたしが無くした何かで多分に溢れている。
本当に明るい女の子。
わたしとはまるで違う性格。
自分の口元が無意識に綻ぶのを感じる。
わたしは握りしめていた石をゆっくり足下に置き、その代わりにスクールバッグを手に取って海に背を向ける。
「なんでもなーい。そっちに行くから待っててー」
歩き出した後ろからさざ波の静かな音が聞こえる。
それは思い出の中の、わずかな残滓に少し似ていた。




