第5章 闇の侯爵と砕けた仮面
星々の涙が夜空に瞬く中、ローゼンタール邸の石壁は、まるで古の秘密を囁くかのように冷たく佇んでいた。
ハインリヒ・フォン・シュヴァルツとエレオノーラ・フォン・ヴァイスの亡魂は、私、クラリッサ・フォン・エルヴィングの心に、緋色の謎を刻みつけていた。
ヴィルヘルム・フォン・ローゼンタールの裏切りは、私の誇りを塵に変えたが、その代償として、彼の家門の闇が私の手に握られつつあった。
ローゼンタール家の日記と借金の証書は、まるで運命の剣のように、私に真実を切り開く力を与えていた。
今宵、私はその剣を手に、コンラート・フォン・ローゼンタール侯爵へと立ち向かう。
「クラリッサ様、こんな危険なことを……。」
マリアンネの声は、まるで風に揺れる鈴のように震えていた。
私たちは、舞踏会の混乱がようやく収まり、貴族たちが邸宅の客間に戻った後、ローゼンタール邸の応接室へと向かっていた。
私のドレスの内側には、日記と証書が隠され、その重みが私の決意をさらに固くしていた。
「マリアンネ、恐れることはないわ。」
私は彼女の肩に手を置き、微笑みを浮かべた。
「コンラート侯爵は、ヴィルヘルムの裏切りを隠そうとした男よ。彼の仮面を剥がすのは、私の役目なの。」
「ですが、クラリッサ様、コンラート様は王国でも指折りの権力者です。」
マリアンネの青い瞳は、恐怖に揺れていた。
「もし、彼が怒ったら、エルヴィング家にも危害が……。」
「マリアンネ、私の家名は、そんな脅しに屈するものではないわ。」
私は彼女の手を握り、静かに言った。
「エルヴィングの血は、誇りと正義のために流れるものよ。コンラートがどんな闇を抱えていても、私はそれを暴く。」
応接室の扉は、黒檀に金の装飾が施された重厚なものだった。
衛兵が二人、扉の前に立ち、私を一瞥した。
私は背を伸ばし、毅然と言った。
「クラリッサ・フォン・エルヴィング、コンラート侯爵に謁見を求めます。」
私の声は、まるで剣の刃のように鋭く響いた。
衛兵たちは一瞬、互いに顔を見合わせたが、エルヴィング家の名前に押され、扉を開いた。
私はマリアンネに小さく頷き、応接室へと足を踏み入れた。
部屋の中は、まるで王宮の一室のように豪華だった。
壁にはタペストリーがかけられ、暖炉の炎が赤々と燃えていた。
コンラート・フォン・ローゼンタールは、革張りの椅子に座り、ワイングラスを手にしていた。
彼の灰色の髪と鋭い瞳は、まるで鷹のように威圧的だった。
「クラリッサ・フォン・エルヴィング嬢、深夜に何の用だ?」
コンラートの声は、低く、まるで岩を砕くハンマーのようだった。
「私の息子の婚約破棄で、恨みを晴らしに来たのか?」
私は彼の視線を真っ直ぐに受け止め、微笑んだ。
「コンラート侯爵、恨みなどという小さな動機で、あなたの時間を無駄にはしません。」
私はドレスの内側から日記を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは、ローゼンタール家の秘密を記したもの。あなたがエレオノーラ・フォン・ヴァイスを排除しようとした証拠よ。」
コンラートの瞳が、一瞬、鋭く光った。
彼はグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「クラリッサ嬢、随分と大胆なことを言うな。」
彼は日記に手を伸ばし、ページをめくった。
「このようなものを、どこで手に入れた?」
「それは、あなたの息子が教えてくれるはずよ。」
私は冷たく答え、彼を見据えた。
「ヴィルヘルムは、エレオノーラとの愛を隠し、私を裏切った。だが、あなたはその愛を許さず、彼女を排除しようとした。ハインリヒ・フォン・シュヴァルツはその秘密を知り、殺されたのね?」
コンラートは低く笑い、椅子に座り直した。
「クラリッサ嬢、君は賢いが、想像力が過ぎる。」
彼は日記を閉じ、私に視線を戻した。
「ハインリヒの死は、ローゼンタール家とは無関係だ。エレオノーラの死も、ただの悲劇にすぎん。」
「ただの悲劇?」
私は一歩踏み出し、証書を取り出した。
「なら、この借金の証書はどう説明するの? エレオノーラがローゼンタール家の借金を肩代わりしていた。ハインリヒはそれを脅迫の材料にしていた。これが、彼の死の動機よ。」
コンラートの唇が、微かに震えた。
彼の仮面が、初めて揺らいだ瞬間だった。
「クラリッサ嬢、君は危険なゲームを始めたな。」
彼の声は、まるで毒蛇の囁きのように低かった。
「ローゼンタール家の名誉を傷つければ、エルヴィング家も無事では済まんぞ。」
「脅しは無意味よ、コンラート侯爵。」
私は彼を睨みつけ、毅然と言った。
「ハインリヒとエレオノーラの亡魂は、真実を求めている。あなたの家門の紋章が、二つの殺人に刻まれている。これは偶然ではないわ。」
コンラートは立ち上がり、私に迫った。
「クラリッサ、忠告する。この件から手を引け。」
彼の瞳は、まるで闇の深淵のように冷たかった。
「さもなくば、君の美しい首に、ワイヤーが巻きつくことになる。」
私は一瞬、息を呑んだ。
彼の言葉は、エレオノーラの死を直接示していた。
だが、私は後ずさらず、彼を見据えた。
「コンラート侯爵、あなたの脅しは、私を止めるには弱すぎる。」
私は日記と証書を手に、冷たく微笑んだ。
「あなたの息子が私を裏切ったように、あなたの家門も裏切られる時が来るわ。」
その時、扉が勢いよく開いた。
「父上、クラリッサ! 何をしている!」
ヴィルヘルムの声が、応接室を切り裂いた。
彼の金髪は乱れ、青い瞳は怒りと混乱に揺れていた。
「ヴィルヘルム、ちょうどいいところに来たわ。」
私は彼に向き直り、日記を掲げた。
「あなたの父が、エレオノーラを排除しようとしていた証拠よ。あなたは、彼女の死にどれだけ関わっているの?」
「クラリッサ、黙れ!」
ヴィルヘルムは私に駆け寄り、日記を奪おうとした。
だが、その手を、別の者が掴んだ。
「ヴィルヘルム、落ち着きなさい。」
ルートヴィヒ・フォン・ヴァルデック公爵が、静かに現れた。
彼の黒いマントが、まるで夜の精のように揺れ、その瞳は、ヴィルヘルムを射抜いていた。
「ルートヴィヒ公爵、なぜここに!」
ヴィルヘルムは後ずさり、顔を青ざめさせた。
「クラリッサ嬢の安全を確保するためだ。」
ルートヴィヒは私の側に立ち、静かに言った。
「彼女がローゼンタール家の闇に迫るなら、私はその盾となる。」
私は彼の瞳を見上げ、胸の高鳴りを感じた。
ルートヴィヒ、あなたの存在は、まるで私の心に灯る炎のようだ。
だが、あなたの真意は、まだ見えない。
「クラリッサ、お前は俺を破滅させるつもりか!」
ヴィルヘルムの声は、絶望に震えていた。
「エレオノーラは死に、俺はすべてを失った! なのに、なぜお前は俺を追い詰める!」
「ヴィルヘルム、あなたが私を裏切ったからよ。」
私は冷たく答え、彼を見据えた。
「あなたがエレオノーラを選び、私を捨てた瞬間から、この戦いは始まった。あなたの家門の秘密は、私の手で暴かれるわ。」
「クラリッサ、君は誤解している!」
ヴィルヘルムは叫び、髪をかきむしった。
「俺はエレオノーラを愛したが、彼女の死には関わっていない! ハインリヒも、俺が殺したわけじゃない!」
「なら、誰が?」
私は一歩近づき、彼の瞳を覗き込んだ。
「あなたの父か? それとも、ローゼンタール家の借金を隠すために動いた誰か? 教えて、ヴィルヘルム。」
彼は唇を震わせ、目を逸らした。
その仕草に、私は確信した。
彼は知っている。
だが、口を閉ざしている。
「ヴィルヘルム、黙っていては、あなた自身が疑われるわ。」
私は静かに言い、日記を手に持った。
「この日記と証書は、ローゼンタール家の崩壊を招くかもしれない。あなたが真実を話せば、救われる道もあるかもしれないわ。」
「クラリッサ、黙れ!」
コンラートが割って入り、私を睨みつけた。
「ヴィルヘルム、口を開くな。この娘は、ただの復讐に燃える子供だ。」
「復讐?」
私はコンラートに微笑み、冷たく言った。
「侯爵、これは正義よ。あなたの息子が私を裏切り、あなたがその裏切りを隠した。その結果、二人の命が奪われた。私は、その真相を暴くだけ。」
ルートヴィヒが私の肩に手を置き、静かに言った。
「クラリッサ嬢、今日はこれで十分だ。」
彼はコンラートとヴィルヘルムを見やり、続けた。
「ローゼンタール家に、考える時間を与えよう。だが、クラリッサ嬢が求める真実は、必ず明らかになる。」
私は頷き、日記と証書をドレスの内側にしまった。
「コンラート侯爵、ヴィルヘルム、これが最後の警告よ。」
私は二人を見据え、毅然と言った。
「次の機会には、私は容赦しない。あなたの家門の闇は、私の手で白日の下に晒されるわ。」
私はルートヴィヒとともに応接室を後にした。
ヴィルヘルムの絶望的な視線と、コンラートの冷たい瞳が、私の背に突き刺さっていた。
だが、私は恐れない。
彼らの秘密は、私の手に落ちつつある。
邸宅の廊下に出ると、マリアンネが待っていた。
彼女の顔は、まるで月光のように青白かった。
「クラリッサ様、無事でよかった!」
彼女は私の手を取り、涙を浮かべた。
「コンラート様の声が、廊下まで響いて……私は、クラリッサ様が危険だと……。」
「マリアンネ、ありがとう。」
私は彼女の額にキスをし、微笑んだ。
「あなたの心配が、私の力よ。さあ、客間に戻りましょう。まだやるべきことがたくさんあるわ。」
ルートヴィヒが私の側に立ち、静かに言った。
「クラリッサ嬢、君の勇気は、まるで星のように輝いている。」
彼は私の手を取り、軽くキスをした。
「だが、コンラートは危険だ。彼の次の手を、君は警戒する必要がある。」
私の頬が熱くなり、胸が高鳴った。
「ルートヴィヒ公爵、あなたの助けに感謝するわ。」
私は彼の瞳を見上げ、言った。
「だが、あなたの真意は、まだ分からない。なぜ、私をこんなにも支えるの?」
彼の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
「クラリッサ嬢、君の知性と情熱は、私の心を掴んだ。」
彼は声を潜め、続けた。
「だが、私の過去には、君にまだ明かせぬ影がある。時が来れば、すべてを話そう。」
私は彼の言葉に、温かさと疑念を感じた。
ルートヴィヒ、あなたは私の心を揺さぶる。
だが、この謎が解けるまで、私は自分の心を守るわ。
「クラリッサ様、衛兵たちが新たな動きを!」
マリアンネの声が、私を現実に引き戻した。
「ハインリヒ様の懐から見つかった別の紙片があるそうです。そこには、謎の暗号が……。」
「暗号?」
私はハッとして彼女を見た。
「マリアンネ、詳しく教えて。」
「衛兵が言っていたのは、数字と文字が混ざった暗号だそうです。」
マリアンネは声を潜め、続けた。
「ハインリヒ様が、誰かと密かに連絡を取っていた証拠かもしれないと……。」
私は深呼吸をし、心を落ち着けた。
ハインリヒの短剣、エレオノーラのワイヤー、謎の紙片、血の箱、金の鍵、日記、証書、そして暗号。
これらのピースは、まるで運命の迷宮のように絡み合っている。
私はその道を進み、真相にたどり着く。
「ヴィルヘルム、あなたの裏切りは、私をこの戦いへと導いた。」
私は心の中で呟き、決意を新たにした。
「だが、私は勝つわ。あなたの家門の闇は、私の手で打ち砕かれる。」
燭台の炎が揺れ、ローゼンタール邸の石壁に長い影を投げかけた。
星屑の夜は、なおもその闇を深めていた。
私は、ルートヴィヒとマリアンネを従え、謎の深淵へとさらに踏み出した。




