第2章 血の薔薇と囁く影
星屑の夜は、なおもその闇を深めていた。
舞踏会の大広間は、まるで嵐に翻弄された船のように混乱に揺れていた。
ハインリヒ・フォン・シュヴァルツの亡魂が、緋色の血とともに絨毯に横たわり、その冷たい瞳は、まるで天上の神々に何かを訴えるかのようだった。
私は、クラリッサ・フォン・エルヴィング、十七歳の伯爵令嬢として、この惨劇の中心に立ち尽くしていた。
私の心は、ヴィルヘルム・フォン・ローゼンタールの裏切りによって砕かれ、しかし今、新たな炎がその破片を照らし始めていた。
謎を解くこと――それが、私の名誉を取り戻す唯一の道だと確信していた。
「クラリッサ様、お願いです、こちらへ!」
侍女マリアンネの声が、震える糸のように私の耳に届いた。
彼女の小さな手は私の腕を掴み、恐怖に青ざめた顔で私を引き寄せようとした。
「マリアンネ、落ち着いて。」
私は彼女の肩にそっと手を置き、微笑みを浮かべた。
「この混乱の中で、私が逃げるわけにはいかないわ。ハインリヒの死は、ただの事故ではない。何か大きな秘密が隠されているのよ。」
「ですが、クラリッサ様! もし犯人がまだこの場にいるなら……。」
マリアンネの瞳は、涙で潤んでいた。
彼女の忠誠心は、私の心を温かく包むが、今はそれに甘える時ではない。
「心配しないで、マリアンネ。私は自分の身を守れるわ。」
私は彼女の手を優しく振りほどき、決意を胸に刻んだ。
「あなたは安全な場所で待っていて。私には、やらなければならないことがあるの。」
大広間の空気は、まるで霧のように重く、貴族たちの囁きがその中を漂っていた。
衛兵たちが入口を固め、誰もが出入りできないようにしていたが、犯人がこの場に潜んでいる可能性は高い。
私は、ハインリヒの亡魂に近づき、その胸に突き刺さった短剣を改めて観察した。
蛇と薔薇が絡み合うローゼンタール家の紋章が、燭台の光に鈍く輝いている。
ヴィルヘルム、この短剣はあなたの家門のものよ。
あなたは、何を隠しているの?
「クラリッサ、何をしている!」
鋭い声が私の背を貫いた。
振り返ると、ヴィルヘルムがそこに立っていた。
彼の金髪は乱れ、青い瞳には怒りと動揺が混ざり合っていた。
ハインリヒの親友だった彼が、こんなにも取り乱しているのは、単なる悲しみだけではないはずだ。
「ヴィルヘルム、私はただ、真実を知りたいだけよ。」
私は静かに答えた。
「この短剣、ローゼンタール家のものよね? ハインリヒを刺したのが、あなたの知人だとしたら……。」
「何!? 俺を疑うのか、クラリッサ!」
彼の声は、まるで雷鳴のように響いた。
「ハインリヒは俺の親友だった! 俺が彼を害するわけがない!」
「なら、この短剣の紋章をどう説明するの?」
私は一歩踏み出し、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの家門のものが、なぜハインリヒの胸に刺さっているの? あなたが知らないはずがないわ。」
ヴィルヘルムは一瞬、言葉に詰まった。
彼の唇が震え、まるで何か言おうとして飲み込むかのように動いた。
だが、その時――
「うわああっ!」
新たな悲鳴が大広間を切り裂いた。
今度は、シャンデリアの下、舞踏会の中央に近い場所からだった。
私はハッとしてそちらを見やった。
貴族たちが慌てて後退し、絨毯の上に新たな亡魂が横たわっていた。
「エレオノーラ!」
ヴィルヘルムの叫び声が、私の耳を貫いた。
彼は人垣を押し分け、倒れた女性の側に駆け寄った。
私は、その名前に胸が締め付けられるのを感じた。
エレオノーラ――ヴィルヘルムが愛していると告げた女性。
私の婚約を破棄してまで選んだ、彼女。
私はゆっくりと近づき、その光景を目にした。
エレオノーラ・フォン・ヴァイス、黒髪に白い肌、まるで雪の精のような美貌の女性が、血の海に倒れていた。
彼女の喉には、細い銀のワイヤーが食い込み、鮮血がドレスの白を染め上げていた。
その瞳は、すでに光を失い、空虚に夜空を映していた。
「エレオノーラ! 目を覚ませ!」
ヴィルヘルムは彼女を抱きしめ、声を張り上げた。
「誰だ! 誰がこんなことをした!」
私は、ヴィルヘルムの悲痛な叫びに、奇妙な冷たさを感じていた。
彼の愛する女性が死に、彼は絶望に打ちひしがれている。
だが、私の心は、まるで氷の湖のように静かだった。
エレオノーラ、あなたは私の婚約を奪った。
だが、この死は、あなたへの罰ではない。
何か、もっと大きな力が、この惨劇を操っている。
「クラリッサ様、恐ろしいことに……。」
マリアンネが私の側に駆け寄り、震える声で囁いた。
「二度もこんなことが……。この舞踏会は呪われているのでは?」
「呪いだなんて、馬鹿らしいわ、マリアンネ。」
私は彼女の手を握り、静かに言った。
「これは人の手によるものよ。そして、私はその手を見つけるわ。」
衛兵たちがエレオノーラの亡魂を囲み、貴族たちは恐怖にざわめいていた。
私は、エレオノーラの喉に食い込んだワイヤーを観察した。
その表面には、微かに金色の刻印があった。
「L・R」と記された小さな文字。
ローゼンタール家の頭文字だ。
またしても、ヴィルヘルムの家門が、この殺人に結びついている。
「ヴィルヘルム。」
私は彼の名を呼び、冷たく言った。
「エレオノーラの死も、あなたの家門と無関係ではないようね。この『L・R』の刻印、どう説明するの?」
彼はエレオノーラの亡魂を抱いたまま、顔を上げた。
その瞳は、憎しみと恐怖に揺れていた。
「クラリッサ、お前は……俺を陥れようとしているのか? ハインリヒもエレオノーラも、俺にとって大切な人だった! 俺がこんなことをするはずがない!」
「私はただ、事実を述べているだけよ。」
私は一歩近づき、彼を見下ろした。
「あなたの家門の紋章と刻印が、二つの殺人に現れている。これは偶然では済まされないわ。」
ヴィルヘルムの唇が震え、彼は何か言おうとした。
だが、その時、衛兵の一人が叫んだ。
「皆さん、落ち着いてください! この会場は封鎖します! 犯人がまだ中にいる可能性があります!」
貴族たちの間に、さらなる恐怖が広がった。
私は、混乱の中、静かに周囲を見渡した。
この舞踏会には、数百人の貴族が集まっている。
犯人は、その中の一人だ。
いや、もしかすると、複数かもしれない。
「クラリッサ様、どうか安全な場所へ……。」
マリアンネが再び私の腕を掴んだ。
「マリアンネ、私は逃げないわ。」
私は彼女の手を振りほどき、決意を新たにした。
「ハインリヒとエレオノーラの死は、私に何かを訴えている。この謎を解くことが、私の使命よ。」
私は、ヴィルヘルムの背中を見つめた。
彼はエレオノーラの亡魂を抱きしめ、肩を震わせていた。
ヴィルヘルム、あなたの涙は本物かもしれない。
だが、あなたが何かを隠していることも、私は感じている。
あなたの裏切りは、私の心を砕いた。
だが、この殺人事件は、あなたの人生を砕くかもしれない。
その時、ふと、視線を感じた。
大広間の隅、黒いマントに身を包んだ男が、私をじっと見つめていた。
彼の瞳は、まるで夜の海のように深く、どこか神秘的な光を宿していた。
私は一瞬、息を呑んだ。
彼は誰?
なぜ、私をそんな目で見つめるの?
「クラリッサ様、あの方は……。」
マリアンネが私の耳元で囁いた。
「ルートヴィヒ・フォン・ヴァルデック公爵です。この王国で最も高貴な方の一人よ。」
ルートヴィヒ・フォン・ヴァルデック。
その名は、私の心に微かな波紋を広げた。
彼の視線は、まるで私の魂を覗き込むようだった。
だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
私は彼から目を逸らし、再びエレオノーラの亡魂に視線を戻した。
「マリアンネ、私に協力して。」
私は侍女に囁いた。
「この会場にいる全員の動きを、できる限り観察してほしい。特に、ヴィルヘルムと、彼の周囲の人々を。」
「かしこまりました、クラリッサ様。」
マリアンネは小さく頷き、すぐに人混みの中へと消えていった。
私は、深呼吸をし、心を落ち着けた。
ハインリヒの短剣、エレオノーラのワイヤー、そしてローゼンタール家の紋章と刻印。
これらは、まるでパズルのピースのように、私の前に散らばっている。
私はそれらを一つ一つ拾い上げ、真相に迫る。
ヴィルヘルム、あなたがどんな秘密を隠していても、私はそれを見つけるわ。
あなたが私を裏切った代償は、決して軽いものにはならない。
そして、この緋色の謎が解けた時、私は新たな自分として生まれ変わる。
大広間の燭台が揺れ、シャンデリアの光が血の色に染まる。
星屑の夜は、なおもその闇を深めていた。
私は、運命の糸をたぐり寄せ、謎の深淵へと踏み出した。




