第1章 星屑の夜に砕けた誓い
私の名はクラリッサ・フォン・エルヴィング。
十七歳の春を迎えたばかりの伯爵令嬢である。
この世界は、星々が神々の涙のように瞬く中世の幻想に彩られ、魔法の微光が石畳の街を照らす。
私の人生は、父の遺した広大な領地と、母の優雅な微笑みを継ぐ者として、まるで絹のドレスのように滑らかに織り上げられてきた。
だが、今宵、その織物は無残にも引き裂かれた。
舞踏会の会場は、燭台の炎が揺れる壮麗な大広間だ。
クリスタルのシャンデリアが天井で虹色に輝き、貴族たちの笑い声が楽団の調べに溶け合う。
私は、薄紅色のドレスに身を包み、髪には銀の髪飾りをあしらって、この夜の主役の一人として立っていた。
私の婚約者、侯爵ヴィルヘルム・フォン・ローゼンタールが、私の手を取って踊る瞬間を、誰もが待ち望んでいたのだ。
だが、彼の瞳は、私を映さなかった。
「クラリッサ、話がある。」
ヴィルヘルムの声は、冷たく、まるで冬の湖面を滑る風のようだった。
彼は私を大広間の隅、薔薇の彫刻が施された柱の陰へと導いた。
その瞳には、かつての愛らしい輝きはなく、代わりに何か決意めいたものが宿っていた。
「何でしょう、ヴィルヘルム? 今宵は私たちの婚約を祝う夜のはず。」
私は微笑みを浮かべ、胸の鼓動を抑えた。
彼の言葉が、私の心に突き刺さる予感がしていた。
「クラリッサ、率直に言おう。」
彼は一瞬、視線を逸らし、すぐに私の目を見据えた。
「俺には別の恋人がいる。エレオノーラという名の女性だ。彼女こそが俺の心を掴んだ。だから、お前との婚約は破棄する。」
その言葉は、まるで剣のように私の胸を貫いた。
婚約破棄。
この言葉が、どれほどの重みを持つか、彼は知っているはずだ。
私の名誉、私の家名、そして私の心――すべてが、この瞬間、ガラスの彫刻のように砕け散った。
「ヴィルヘルム、あなたは……。」
言葉が喉に詰まり、私は唇を震わせた。
「私を、こんな公の場で辱めるつもりなのですか? エレオノーラとは、どのような方なのですか? なぜ、今、このようなことを……。」
「彼女は、俺にとってかけがえのない存在だ。」
ヴィルヘルムの声には、微かな熱がこもっていた。
「お前は立派な令嬢だ、クラリッサ。だが、俺の心はもう彼女に奪われている。悪いが、これが俺の決断だ。」
私は拳を握りしめ、涙がこぼれぬよう目を閉じた。
この屈辱を、どのように飲み込めばいい?
周囲の貴族たちは、まだ私たちの異変に気づいていない。
だが、彼らの視線が、まるで針のように私の背に突き刺さる。
「ヴィルヘルム、あなたの心が変わったことは、理解しました。」
私はゆっくりと目を開け、彼を見つめた。
「ですが、このような形で私を捨てることは、許されません。あなたの決断は、あなた自身に返ってくるでしょう。」
彼は一瞬、眉をひそめたが、すぐに肩をすくめた。
「好きに思え、クラリッサ。俺はもう自由だ。」
そう言い残し、彼は私を柱の陰に置き去りにして、舞踏会の喧騒へと戻っていった。
私は一人、冷たい石壁に背を預け、胸を押さえた。
心が、まるで嵐に翻弄される小舟のように揺れていた。
だが、その時だった。
「きゃあっ!」
大広間を切り裂くような悲鳴が響き渡った。
楽団の演奏が途切れ、貴族たちのざわめきが一瞬にして静寂に変わった。
私はハッとして顔を上げ、悲鳴の方向を見た。
大広間の中央、絨毯の上に、一人の男性が倒れていた。
彼の胸には、銀の短剣が突き刺さり、緋色の血がドレスのように広がっていた。
その顔を、私は知っていた。
ハインリヒ・フォン・シュヴァルツ、近隣の男爵で、ヴィルヘルムの親友だ。
「ハインリヒ!?」
ヴィルヘルムの叫び声が響いた。
彼は人垣を押し分け、倒れたハインリヒの側に駆け寄った。
「誰だ! 誰がこんなことを!」
貴族たちの間に、恐怖と混乱が広がった。
女性たちは扇で顔を覆い、男性たちは剣に手をかけ、衛兵たちが入口を封鎖した。
私は、柱の陰からその光景を見つめながら、胸の鼓動が速まるのを感じた。
これは、ただの悲劇ではない。
私の心に、鋭い直感が閃いた。
この殺人事件は、ヴィルヘルムの婚約破棄と、何か深い関わりがある。
私はドレスの裾を握り、静かに歩み出した。
周囲の混乱をよそに、私はハインリヒの亡魂が残した謎に近づいていった。
彼の死体は、まるで夜の闇に浮かぶ星のように、私に何かを訴えているようだった。
「クラリッサ様、危険です! お下がりください!」
侍女のマリアンネが私の腕を掴んだ。
彼女の青い瞳は、恐怖に震えていた。
「マリアンネ、心配しないで。」
私は彼女の手を優しく振りほどき、微笑んだ。
「私は、ただ真実を見たいだけなの。」
ハインリヒの亡魂は、冷たく硬直していた。
彼の胸に突き刺さった短剣は、精巧な彫刻が施されたものだった。
その柄には、蛇と薔薇が絡み合う紋章が刻まれている。
私はその紋章に見覚えがあった。
それは、ヴィルヘルムの家門、ローゼンタール家のものだ。
「これは……。」
私は息を呑み、ヴィルヘルムを見やった。
彼はハインリヒの側で膝をつき、顔を覆っていた。
だが、その指の間から覗く瞳は、まるで嵐の海のように揺れていた。
「ヴィルヘルム、あなたは何か知っているのね?」
私は心の中で呟き、彼の背中を見つめた。
この事件は、単なる殺人ではない。
私の婚約破棄と、この血の惨劇は、まるで運命の糸で結ばれている。
私はドレスの裾を翻し、決意を胸に刻んだ。
クラリッサ・フォン・エルヴィングは、ただの令嬢ではない。
私はこの謎を解き、ヴィルヘルムの裏切りを暴き、そして私の名誉を取り戻す。
大広間の喧騒は、まるで遠い波の音のように私の耳に届いていた。
燭台の炎が揺れ、シャンデリアの光が血の色に染まる。
今宵、星屑の夜に、緋色の謎が幕を開けたのだ。




