鎌鼬を侮る
おれはジャンパーのポケットに手を突っ込み、周囲の様子をちらちらと窺いながら足を動かしていた。肩が小刻みに震えているのは、寒風の吹きすさぶ田舎道を歩いているからという理由だけではなかった。雪はもうちらついてはいないものの、空は薄暗く曇っていて、どことなく不吉な印象を受けた。
隣を一緒に歩く友人が「どうかしましたか?」と尋ねてきた。「調子が悪そうですよ。顔色がよくありませんし、さっき話をしている時も、ずっと上の空だったじゃないですか。ほら例の、ぼくたちが通っている大学の研究棟で起きた窃盗事件のことですよ」
道の幅は五メートル強で、地面は舗装されておらず、湿って焦げ茶色になった土が剥き出しになっていた。両脇には畑が広がり、遠くには家だの蔵だのがぽつぽつと建っている。目に見える範囲内には、他に人の姿はなかった。
「ああいや、えっと……」
反射的に曖昧な笑みを浮かべたが、すぐ真顔になった。しばらく考え込む。つい、いつものように誤魔化そうとしてしまった。この友人とは大学の入学式からの付き合いで、誠実な性格をしていることはよく知っている。もしかしたらこいつなら、おれの言うことを馬鹿にせず、ある程度は真剣に受け止めてくれるだろうか。
一分ほどが経過したところで意を決した。「実は、ちょっと怖がっていることがあってな」と零す。「もっとも、恐れているのはおれくらいで、他の人にしてみれば大したことじゃないんだろうが」
「いやでも、今のきみの様子は尋常ではないですよ。いかにも具合が悪そうです。よければ聞かせてもらえませんか? 助言ができるとまでは言いませんが、話すだけでも楽になるかもしれませんし、ぼくは雑学にもいろいろと詳しいですから、案外、本当に助言ができるかもしれません」
「ありがとう」強張らせていた頬を緩めた。少しばかり気分が和らいだ。まあ、馬鹿にされるようならもうこの話をしなければいいだけだし、試しに打ち明けてみようかな、という気になった。「実はな、鎌鼬が怖いんだ」
「鎌鼬……ですか?」友人は目をぱちくりさせた。「それって、あれですよね? 昔からの日本の伝承で、鎌を持った鼬が風とともに襲いかかってきて体を切りつけてくるとか、そういう話ですよね?」
「ああ、それだ」頷いた。「その鎌鼬だ」
「それだ、って……」友人は呆れた表情になった。まあこういうリアクションをとられることは想定内である。「きみ、古い伝承の妖怪なんて信じているんですか? いや、信じているだけならともかく、本気で怯えるだなんて……子供じゃあるまいし」
「いやいや、もちろん妖怪の存在なんて信じていないよ。子供じゃあるまいし」慌ててぶんぶんと首を横に振った。「そうじゃなくて、物理的な現象としての鎌鼬のほうを恐れているんだ。
ほら、聞いたことくらいあるだろう? 強烈な旋風の内部に真空が発生して接触した皮膚を切り裂く、そういう現象が鎌鼬の正体なんだ、という話。その現象の被害に遭うのが怖いんだよ。小学生の頃に図書館で読んだホラー漫画が鎌鼬をモチーフとしていてな。めちゃくちゃおどろおどろしい絵柄で、鎌鼬の詳細な科学的解説も載っていて……すっかりトラウマになってしまって。今でも、風の吹く寒い日に外に出る時は、びくびくしてしまうんだ」
前から強い風を浴びた。唇を閉じ、冷気の侵入を防ぐ。さいわい数秒も経たないうちにやんだため、再び口を開いた。
「そうだ、いい機会だしついでに尋ねたいんだが、お前は怖くないのか? 鎌鼬のことが。鎌鼬の正体がそういう物理的な現象だという話、聞いたことはないのか? 聞いていても、鎌鼬の被害に遭うことを恐れてはいないのか?」
「まあ、聞いたことくらいはありますよ。でも、恐れてはいません」友人は軽く笑った。「だってその話、間違っていますからね」
おれは思わず片方の眉を上げた。「何だって?」
「ですからその、強烈な旋風の内部に真空が発生して接触した皮膚を切り裂く、という話ですよ。もしかして、きみが小学生の頃に読んだ漫画って、けっこう前の、昭和とかに描かれたものじゃないんですか?」
ぽかんと口を開けた。「そうだ、かなり古い本だった」
「昔はその、強烈な旋風の内部に真空が発生して接触した皮膚を切り裂く、という話は、鎌鼬の正体としてもっともらしくて、いかにも科学的な説明がついているような印象もありましたから、娯楽作品の題材としてよく採用されていたんです」友人はやれやれという風に首を左右に振った。「現代ではその説、ほとんど否定されています。真空に皮膚が接触しても切り裂かれないだの、そもそもそんな真空が発生するほどの旋風は起きないだの」
「そんな……」おれは友人の言うことを信じられず、数秒だけ俯いた。「でも、鎌鼬の伝承は昔からあるわけだろう? それもまるっきり架空だって言うのか? 寒い日に外にいる時に風が吹いて肌が切り裂かれた、という言い伝えはすべて作り話だと?」
「いえ、そうではありません。そういう出来事自体は、実際にあったのでしょう。
その原因が鎌鼬という妖怪や旋風の内部に発生した真空などではない、ということです。現代では、風で飛んできた小石だの砂粒だのが皮膚をかすめたせいとか、もっとシンプルに、浴びた風の冷たさによりタイミングよくあかぎれが起きたせいとか、そう説明されています」
後ろから強い風が吹いた。おれはまるで風邪を引いた時の悪寒じみた寒気に襲われ、ポケットの中で両手の拳を握った。
「だいいち、もし鎌鼬が実際に起きうる物理的な現象なら、もっと自治体や省庁が注意喚起をしていますよ。例えばヒートショックだって、冬になったら危険性をアナウンスしているじゃないですか。気象庁も鎌鼬の注意報やら警報やらを出すでしょう。でも、そんなものは聞いたことがありません。どこかの町で鎌鼬による被害が発生した、なんてニュース、見たことがありますか? ないでしょう?」
「そうか……そうかあー…………なあーんだあー……」おれは、ははは、という気の抜けた笑い声を漏らした。「鎌鼬の正体が砂粒だなんて、あかぎれだなんて……そんな、しょうもないことだったなんて……」肩をがっくりと落とした。「安堵したというか……正直、失望しちゃったな。そんなしょぼいことなら、怖がる必要なんてなかった。今まで本気で恐れていたおれは馬鹿だな、そんな取るに足らないことを」
「まあまあ、そう落ち込まないでくださいよ。これからは気にしなくて済むじゃないですか」友人はおれの肩を軽く叩いた。「鎌鼬の正体が小石だのあかぎれだのといったたわいないことだとわかって、本当によかったでしょう。心配するなんて馬鹿げていますよ」はっはっはっと笑った。「くだらないことです、あんなもの」
「まったくだ。あほらしいあほらしい」おれもけらけらと笑った。「ふざけやがって」
後ろから一段と強くて冷たい風が吹いた。おれたちは思わず口を閉じて立ち止まり、風がやむまで待った。
「痛っ!」
友人の悲鳴が聞こえた直後、風は収まった。驚き、友人に視線を遣る。右手で左手の甲を押さえ、体を前にかがめていた。
「どうした!?」
友人は顔を歪めながら背筋を伸ばし、右手を離した。左手の甲には大きな切り傷が出来ていて、血が流れ出していた。
「い、いったい何が……」
再び強い風が吹いた。その時、何かぞっとする存在がおれたちのすぐそばを一瞬のうちに通り過ぎていったような感覚があった。
「ぐうっ!」
二回目の友人の悲鳴が聞こえ、おれの顔に生温かい液体がかかった。風がやむなり、手でぬぐう。真っ赤な血がべったりと付着した。友人のほうを見たところ、頬がすっぱりと切り裂かれていた。
「ま、まさか」おれは唾を飲み込んだ。「鎌鼬の仕業なんじゃ……」
「そんな、ありえません、ありえませんよ妖怪だなんて、そんなオカルトは――」
またしても強い風が吹いた。同時に友人は言葉を打ち切り、代わりに血を吐いた。切り離された舌や唇が地面にぼとぼとと落ちた。
「ふじゃけるな、ふじゃけるな!」友人は羽虫でも追い払うかのように両手をぶんぶんと振り回した。「ぼくは認めましぇん、認めましぇんよ! 鎌鼬の実在など!」ぶつかりそうになり、慌てて距離を取った。「そんにゃ馬鹿げた、あほらしいものは――」
これまで浴びた中でいちばん強く、冷たい風が吹いた。友人の胴が鎖骨から股間にかけて大きく切り裂かれた。体内の色鮮やかな臓物が露わになり、大量の血が噴き出した。
「ああ、ああ、ああ――」
友人は地面にばったりと倒れ、俯せになった。その体を中心として血が噴水のごとく広がり、水たまりのようになった。友人はしばらくの間、日本語では表現しがたい呻き声を上げながらもがき苦しんでいたが、十秒も経たないうちに静かになり、微動だにもしなくなった。
「うっ、うわあっ……!」
おれは後ろを向くと全力疾走で逃げ出した。しかし一秒後、背後から強い風が吹き、同時に左足のかかと付近に激痛が走った。
「ぎゃあっ!?」
転倒し、顔を地面にぶつけた。欠けた歯を吐き出しながら左足を見たところ、かかとの少し上あたりが大きく切り裂かれ、血が噴き出していた。腱を切られたに違いなかった。
「ひい……! ひい……!」
おれは右足を軸にして立とうとした。その時、再び強い風が吹いた。右足のかかと付近に激痛が走り、苦痛のあまり横に倒れた。そちらの腱も切られたことは確認するまでもなかった。
「ああ……ああ……うああ……」おれはだらだらと涙や鼻水を垂れ流した。「許してくだひゃい。許してくだひゃい」ちょろちょろと小便も垂れ流した。「お願いしましゅ。お願いしましゅ」
回答の代わりに強くて冷たい風が吹き、おれの頸動脈をすっぱりと切り裂いた。
〈了〉




