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集(2025年)  作者: Onfreound
2/5

遮光

「月明りを見たんです」


午前5時半、優しい朝焼けが広がる。

居場所のないコテージから抜け出した先、呟いた。


「昨晩のことか、ですか?」

「いえ。先週、自宅で」

「大変素敵だったものですから、是非お話したくて」


和やかな笑みを前にする。

騒めく何かに目を瞑りながら、次の言葉を待つ。


「布団の上が菜の花色で、外を見上げたら満月で」

「きっとその日は、たくさんの人が空に心惹かれたのでしょうね」

「どのぐらい狼が現れたのかは、存じ上げませんが」


「その時に、分かったんです」

「雲に隠れてしまえばよかったのに、って」




「お兄さん、まるで雲のようですね」


誰かと巡り会う度に、不思議な比喩に挑戦しているのだろうか。

初対面。急に寄ってきたかと思えば、挨拶もなしに声を掛けられた。


「...どこが、だなんて」

「的外れな言い回しをするのが、街の文化ですから」


壁に背を預け、窓に視線を移す少女。

放課後の夕陽が好きなのだろうか。恐らく、こんな部屋よりもっと相応しい場所があるはずだ。


「お一人ですよね」

「安心しました。本当に雲のような方がいたら大変なので」

「しかし、山ばかりですね」

「一日中見ていたつもりでしたが、何ら変わることのないみたいで」


柔らかく舞う髪を見た。

知らないはずの微笑みが、またこちらに向く。


「...ああ、私ですか?」

「転校してきたんです、昨日」

「私のことは、好きに呼んでくださって構いません。例えば、ハリーとか」

「どうしてもって言うなら、お兄さんでもいいですよ」

「私はお兄さんって呼ぶので、お揃いですね」

「...なんて」




1ヶ月経った。

放課後を待ち、部室で彼女の気まぐれに応える。そんなルーティンを、飽きずに繰り返す。

彼女の呼び名は、未だ知らない。


「夕陽が宝なんて、結局彼の優しさだと思うんです」


いつもの窓際。

見慣れたはずの、悠然とした姿を眺める。


「彼が期待するからこそ、なり得るのであって」

「あるに過ぎないじゃないですか。空は」


覆い隠す人もいますけど...と註釈を加えつつ。


「空は嫌いです」

「言葉足らずでしたね。散々弄ばされる、空を妬んでいるんです」


「あそこには、たくさんのものがあるでしょう」

「太陽や星々はもちろん」

「鳥とか、神様とか、あの世で過ごす方々の住処」

「それだけではないです。私達が投げ込んだ、期待や喜び、悲哀に怒り、感動とか」


照らされる彼女の視線は、今日も屋外に向かっている。

握る手に、僅かに力が入るのが分かる。


「雲に惹かれるんです」

「毎日自由な姿で、あの空を彷徨っていて」

「何というか...ズルいと思います」

「空を塞ぐ役目については、もっと頑張ってほしいですが」


そう言い、彼女は軽く伸びをする。

多分、お茶でも用意しておけばよかった気がする。




特段目立った経験もない。

称されることさえない、凡庸。


強いて言えば、人の輝く姿に興味があった。兄姉が褒められる度、友人が賞を取る度、誰かが成果を語る度に、私の意識は引き寄せられた。


それは、持たない故の逆情でありつつ、純粋な憧憬だったのだと思う。

光を目にし続けて、月並みな自分を覆ってきた。



ある日、クラスメートに声を掛けられた。


「あたし、海外に引っ越すことになったんだ」

「え...急だね、それは」

「でしょ。詳しいことは聞いてないけど、オランダとかだったはず」


長い付き合いだったから、鼓動が早まった。でも、それを口に出す勇気はなかった。

あの子は笑顔だった。いつも通りでありながら、素敵な人だなと思った。


「え、いつ?」

「実はね、来週だよ」

「早くない?それなら、もっと前から知ってたでしょ」

「まあね。でも、今ぐらいの方が丁度いいかなって」

「何で...遊ぶ予定立てたりとか、色々出来たでしょ」

「やっぱさ、あたしへ気遣いしてもらっちゃうのは、何か嫌じゃん?でも......」

「結局、何だかんだ空回りしちゃうんだよね。ごめんね?こんなタイミングで」


意図を聞き、感じたのは怒りだった。

その考えが理解できない訳ではない。私があの子の側だったら、選択し得た行動だったと思う。


(だけど、浴びるべき光は、どうするの?)


きっとあの子は、ただ転校するのではないから。

類稀な才の卵として、それを開花する為の行き先だろうから。


「...他の人には、言ったの?」

「先生には話したよ。あとは、ふーちゃんだけ」

「これから、みんなにも言うの?」

「いや、転校前日のホームルームに時間もらって、そこで話すつもり」

「......」

「それでもね、ふーちゃんには、しっかり伝えたいと思ってたの」

「ありがとう。こんな面倒なあたしと、仲良くしてくれて」

「ふーちゃんぐらいしか...一緒に空を眺められた相手なんて、いないだろうから」




「送別会を開いたんです」

「みんながお別れを言う機会は、必要だよって伝えて」

「まぁ、余計なお世話だったでしょうけど」

「あの子が受けるべき称賛や感謝は、あの子に届けられるべきですから」

「同じ空の下にいたとして、運んではくれないですから」


頬に当てた手を、差し出したコーヒーに移す。

大した腕ではないはずだが、顔から不満を感じないのは救いだった。


「その後、ですか?」

「結局、音楽を極めるのは辞めたんですよね。今のところは、ですけど」

「体が追い付かなくなったのか、他に興味が向いたのか、やむを得ない事情があったのか。そんなことはわかりませんが」

「いい選択だと思います。私達は、在るようにしか在れませんから」

「まぁそもそも、行ったのはローマでしたし」

「見ていたのは一緒の空じゃなくて......」


雲が覆うまでもなく、陽はずっと早くその身を隠すようになった。

誰の視線も浴び得ない今でさえ、雲は自由に飛び続けているのだろうか。


「ねぇ、お兄さん」

「貶された鳥は、星になろうと願ったじゃないですか」

「凄い人達も、凄くなりたい人達も、凄くなり得なかった人達も輝いていて。きっと、星を目指しているんです」

「多分、本当に空を知ろうとしているのは、彼らの方で」

「空に幻影を求めているのは、私だったんです」

「どうしましょう、ね」

「何も見えていないのに」




溶け込めない自分が悪い。

だとしても、明け方まで馬鹿騒ぎするのは、あまりにも調子が良すぎる人達だと思う。


「......」

「おや、お兄さん」


微笑みを浮かべる少女が、そこにいた。

どうして大学でも付き合いが続くのか、理解し難い話だった。


「飲み会がうるさくて眠れなかった、ですか」

「それは、大変でしたね」

「蚊帳の外ほど、眩しさが目に入るのでしょうか」

「まぁ、宿舎はもう見えませんから」


躊躇いも無く隣に並ぶ。


山中の爽やかな空気に、毒される。

免罪符にするつもりはない。だが、あの目障りな空にさえ、縋ってしまいたかった。


「月明りを見たんです」


傾げる首を見て、微笑する。


「昨晩のことか、ですか?」

「いえ。先週、自宅で」

「大変素敵だったものですから、是非お話したくて」


「布団の上が菜の花色で、外を見上げたら満月で」

「きっとその日は、たくさんの人が空に心惹かれたのでしょうね」

「どのぐらい狼が現れたのかは、存じ上げませんが」


ゆっくり息を吐く。

鳥の鳴き声も届かず、言葉を紡いだ。


「その時に、分かったんです」

「雲に隠れてしまえばよかったのに、って」


自分には、そんな資格はないから。

せめて、目にも届かない場所であればよかった。


「......ところで」

「妹が、バイオリンから身を引いた後なんですが」

「空を見る相手を探そうとしたらしいです。もっと人がいる場所へ」

「でも」

「躊躇ったんです。この前話した時は...空が受け入れてくれるかどうか、分からないでしょって」

「どんな説教を受けたんでしょうね、あの子は」


下手な親切だった。

だとしても、後悔に過ぎなかった。


それでも、彼女は微笑んでいた。


「あの街は、そういう空なのかもしれないし」

「そう見えるだけの優しさが、あるのかもしれません」


「ただ、私がここにいるのは」

「月の光り方も、期待の行く末も知り得なかったのは」

「きっと、雲に視界を奪われていたから、ですよ」

「答えを指し示す訳でも、間違いを正してくれる訳でもない」

「ただ、爛れたように向き合う...向き合った気になっている、そんな関係があるから」

「なかったら多分、あの眩しさにやられて」

「近くへ行きたくて、首でも吊っていたでしょうから」


山中から眺める赤色は、いつの間にか青に落ち着いていた。

お兄さんと呼び得たことも、的外れだと思っていたのだろうか。それでも雲は、応じることなく彷徨っている。

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