遮光
「月明りを見たんです」
午前5時半、優しい朝焼けが広がる。
居場所のないコテージから抜け出した先、呟いた。
「昨晩のことか、ですか?」
「いえ。先週、自宅で」
「大変素敵だったものですから、是非お話したくて」
和やかな笑みを前にする。
騒めく何かに目を瞑りながら、次の言葉を待つ。
「布団の上が菜の花色で、外を見上げたら満月で」
「きっとその日は、たくさんの人が空に心惹かれたのでしょうね」
「どのぐらい狼が現れたのかは、存じ上げませんが」
「その時に、分かったんです」
「雲に隠れてしまえばよかったのに、って」
「お兄さん、まるで雲のようですね」
誰かと巡り会う度に、不思議な比喩に挑戦しているのだろうか。
初対面。急に寄ってきたかと思えば、挨拶もなしに声を掛けられた。
「...どこが、だなんて」
「的外れな言い回しをするのが、街の文化ですから」
壁に背を預け、窓に視線を移す少女。
放課後の夕陽が好きなのだろうか。恐らく、こんな部屋よりもっと相応しい場所があるはずだ。
「お一人ですよね」
「安心しました。本当に雲のような方がいたら大変なので」
「しかし、山ばかりですね」
「一日中見ていたつもりでしたが、何ら変わることのないみたいで」
柔らかく舞う髪を見た。
知らないはずの微笑みが、またこちらに向く。
「...ああ、私ですか?」
「転校してきたんです、昨日」
「私のことは、好きに呼んでくださって構いません。例えば、ハリーとか」
「どうしてもって言うなら、お兄さんでもいいですよ」
「私はお兄さんって呼ぶので、お揃いですね」
「...なんて」
1ヶ月経った。
放課後を待ち、部室で彼女の気まぐれに応える。そんなルーティンを、飽きずに繰り返す。
彼女の呼び名は、未だ知らない。
「夕陽が宝なんて、結局彼の優しさだと思うんです」
いつもの窓際。
見慣れたはずの、悠然とした姿を眺める。
「彼が期待するからこそ、なり得るのであって」
「あるに過ぎないじゃないですか。空は」
覆い隠す人もいますけど...と註釈を加えつつ。
「空は嫌いです」
「言葉足らずでしたね。散々弄ばされる、空を妬んでいるんです」
「あそこには、たくさんのものがあるでしょう」
「太陽や星々はもちろん」
「鳥とか、神様とか、あの世で過ごす方々の住処」
「それだけではないです。私達が投げ込んだ、期待や喜び、悲哀に怒り、感動とか」
照らされる彼女の視線は、今日も屋外に向かっている。
握る手に、僅かに力が入るのが分かる。
「雲に惹かれるんです」
「毎日自由な姿で、あの空を彷徨っていて」
「何というか...ズルいと思います」
「空を塞ぐ役目については、もっと頑張ってほしいですが」
そう言い、彼女は軽く伸びをする。
多分、お茶でも用意しておけばよかった気がする。
特段目立った経験もない。
称されることさえない、凡庸。
強いて言えば、人の輝く姿に興味があった。兄姉が褒められる度、友人が賞を取る度、誰かが成果を語る度に、私の意識は引き寄せられた。
それは、持たない故の逆情でありつつ、純粋な憧憬だったのだと思う。
光を目にし続けて、月並みな自分を覆ってきた。
ある日、クラスメートに声を掛けられた。
「あたし、海外に引っ越すことになったんだ」
「え...急だね、それは」
「でしょ。詳しいことは聞いてないけど、オランダとかだったはず」
長い付き合いだったから、鼓動が早まった。でも、それを口に出す勇気はなかった。
あの子は笑顔だった。いつも通りでありながら、素敵な人だなと思った。
「え、いつ?」
「実はね、来週だよ」
「早くない?それなら、もっと前から知ってたでしょ」
「まあね。でも、今ぐらいの方が丁度いいかなって」
「何で...遊ぶ予定立てたりとか、色々出来たでしょ」
「やっぱさ、あたしへ気遣いしてもらっちゃうのは、何か嫌じゃん?でも......」
「結局、何だかんだ空回りしちゃうんだよね。ごめんね?こんなタイミングで」
意図を聞き、感じたのは怒りだった。
その考えが理解できない訳ではない。私があの子の側だったら、選択し得た行動だったと思う。
(だけど、浴びるべき光は、どうするの?)
きっとあの子は、ただ転校するのではないから。
類稀な才の卵として、それを開花する為の行き先だろうから。
「...他の人には、言ったの?」
「先生には話したよ。あとは、ふーちゃんだけ」
「これから、みんなにも言うの?」
「いや、転校前日のホームルームに時間もらって、そこで話すつもり」
「......」
「それでもね、ふーちゃんには、しっかり伝えたいと思ってたの」
「ありがとう。こんな面倒なあたしと、仲良くしてくれて」
「ふーちゃんぐらいしか...一緒に空を眺められた相手なんて、いないだろうから」
「送別会を開いたんです」
「みんながお別れを言う機会は、必要だよって伝えて」
「まぁ、余計なお世話だったでしょうけど」
「あの子が受けるべき称賛や感謝は、あの子に届けられるべきですから」
「同じ空の下にいたとして、運んではくれないですから」
頬に当てた手を、差し出したコーヒーに移す。
大した腕ではないはずだが、顔から不満を感じないのは救いだった。
「その後、ですか?」
「結局、音楽を極めるのは辞めたんですよね。今のところは、ですけど」
「体が追い付かなくなったのか、他に興味が向いたのか、やむを得ない事情があったのか。そんなことはわかりませんが」
「いい選択だと思います。私達は、在るようにしか在れませんから」
「まぁそもそも、行ったのはローマでしたし」
「見ていたのは一緒の空じゃなくて......」
雲が覆うまでもなく、陽はずっと早くその身を隠すようになった。
誰の視線も浴び得ない今でさえ、雲は自由に飛び続けているのだろうか。
「ねぇ、お兄さん」
「貶された鳥は、星になろうと願ったじゃないですか」
「凄い人達も、凄くなりたい人達も、凄くなり得なかった人達も輝いていて。きっと、星を目指しているんです」
「多分、本当に空を知ろうとしているのは、彼らの方で」
「空に幻影を求めているのは、私だったんです」
「どうしましょう、ね」
「何も見えていないのに」
溶け込めない自分が悪い。
だとしても、明け方まで馬鹿騒ぎするのは、あまりにも調子が良すぎる人達だと思う。
「......」
「おや、お兄さん」
微笑みを浮かべる少女が、そこにいた。
どうして大学でも付き合いが続くのか、理解し難い話だった。
「飲み会がうるさくて眠れなかった、ですか」
「それは、大変でしたね」
「蚊帳の外ほど、眩しさが目に入るのでしょうか」
「まぁ、宿舎はもう見えませんから」
躊躇いも無く隣に並ぶ。
山中の爽やかな空気に、毒される。
免罪符にするつもりはない。だが、あの目障りな空にさえ、縋ってしまいたかった。
「月明りを見たんです」
傾げる首を見て、微笑する。
「昨晩のことか、ですか?」
「いえ。先週、自宅で」
「大変素敵だったものですから、是非お話したくて」
「布団の上が菜の花色で、外を見上げたら満月で」
「きっとその日は、たくさんの人が空に心惹かれたのでしょうね」
「どのぐらい狼が現れたのかは、存じ上げませんが」
ゆっくり息を吐く。
鳥の鳴き声も届かず、言葉を紡いだ。
「その時に、分かったんです」
「雲に隠れてしまえばよかったのに、って」
自分には、そんな資格はないから。
せめて、目にも届かない場所であればよかった。
「......ところで」
「妹が、バイオリンから身を引いた後なんですが」
「空を見る相手を探そうとしたらしいです。もっと人がいる場所へ」
「でも」
「躊躇ったんです。この前話した時は...空が受け入れてくれるかどうか、分からないでしょって」
「どんな説教を受けたんでしょうね、あの子は」
下手な親切だった。
だとしても、後悔に過ぎなかった。
それでも、彼女は微笑んでいた。
「あの街は、そういう空なのかもしれないし」
「そう見えるだけの優しさが、あるのかもしれません」
「ただ、私がここにいるのは」
「月の光り方も、期待の行く末も知り得なかったのは」
「きっと、雲に視界を奪われていたから、ですよ」
「答えを指し示す訳でも、間違いを正してくれる訳でもない」
「ただ、爛れたように向き合う...向き合った気になっている、そんな関係があるから」
「なかったら多分、あの眩しさにやられて」
「近くへ行きたくて、首でも吊っていたでしょうから」
山中から眺める赤色は、いつの間にか青に落ち着いていた。
お兄さんと呼び得たことも、的外れだと思っていたのだろうか。それでも雲は、応じることなく彷徨っている。




