月に願いを
「じゃああなたは、その子と。……咲希さんと再婚したいから、私とは離婚したいってこと?」
リビングでふたり、向き合って座ったまま。
抑揚のない声でそういうと、妻は僕の顔を凝視した。
だから僕はコクリと小さく頷き、ありきたりな謝罪の言葉とサイテーなひと言を口にした。
「本当に、ごめん。一生君を、大切にするって言ったのに。……だけどこれからの人生、君じゃなく彼女と共に生きていきたいんだ」
妻は優しくて、穏やかで、ユーモアに溢れていて。
父の経営する会社を正社員として手伝ってくれながら、家事や育児も完璧にこなしてくれた。
僕と子どもだけでなく、両親のことも実の親同様に愛してくれた妻。
だけど、いつの頃からだろう?
……この生活に、息苦しさを感じるようになったのは。
「……なるほどね。分かったわ。離婚には、応じます。あなたが他の人を愛してるって分かってるのにこのまま一緒に居続けるのは、お互いにとって不幸でしかないし。……でも奈緒の親権は、私がもらうから」
もっと揉めるかと思ったのに、思いの外スムーズに進んだ離婚交渉。
可愛い娘ともう一緒に暮らせなくなるのだと思うと辛いが、これも自分が招いた結果なのだから仕方がない。
「あぁ……、うん。そうだね。奈緒にとっても、そのほうがいいと思う。……分かったよ」
僕はうつむき、拳を握り締めたまま答えたのだけれど。
……そこで彼女はクスリと笑い、思わぬことをいい始めたのだ。
「この世の終わりみたいな顔、しないでよ! 離婚してもあなたは奈緒の父親だし、それに義両親も奈緒のじいじとばあばなのは変わらない。だからあの子が望んだ時には、いつでも会ってやってね? 面会交流権とか、色々面倒な話は抜きにして」
「本当に、いいのか!?」
思わず、大きな声が出た。
すると彼女は、ニッと悪戯っぽく笑った。
「当然! その義務まで放棄したら、逆に絶対に許さないから」
離婚協議の真っ只中だというのに、彼女のその笑顔に見惚れた。
そうだ。なんで僕は、忘れてしまっていたんだろう?
……僕は彼女のこういうところが、一番好きだったんだ。
婚外恋愛の末に別れを切り出したのは僕のほうだったはずなのに、自分が失くしたものの大きさにこの時になりようやく気付いた。
「じゃあね、あなた。離婚届が書けたら、私の実家に送っといて。今夜はもう遅いから、明日の朝奈緒は迎えに来るから!」
場違いなぐらい爽やかな笑顔でそういうと、薬指にはめられた指輪を外してテーブルの上に置き、彼女は席を立った。
***
「さすがにちょっと、甘過ぎるんじゃないの? お姉ちゃん。慰謝料も養育費も、もっとふんだくってやればよかったのに!」
実家に戻り、離婚に至った事の経緯をざっくり説明すると、妹は私以上に散々ぶち切れた後、呆れたようにいった。
「アハハ、たしかに。でもほら、彼にもこれからの生活があるわけだし。離婚した後も会社は絶対に辞めないでくれってお義父さんに泣きつかれたから、仕事も続けるつもり。だからお金にも、困んないしねぇ」
「離婚した元旦那の実家で、働き続けるとか。気まずくないの!?」
へらへらと笑って答えると、心底ゲンナリした様子で聞かれた。
だけど悪いのは、私じゃない。浮気をした、彼のほうなのだ。
尻尾を巻いて逃げ出す必要なんて、どこにある?
「あの人とは今後、社内で会うこともないし大丈夫! 身内だったからサービス価格で働いてたけど、今後は給料も上げてもらえる予定だしね」
笑顔のまま告げたら、彼女はやれやれとでも言いたげに軽く左右に頭を振った。
そう。たしかに一見すると私の下した審判は、甘過ぎるモノに思えるだろう。……だけど実際は、そうじゃない。
私は彼とその愛人に、最大級の罰を下してやったのだ。
法的に罰するのではなく、清く正しく美しい妻のまま離婚することで。
夫と子どもを愛する、家事も育児も、仕事までも完璧にこなす明るくて聡明な妻。
今後略奪者であるあの女はことあるごとに私と比べられ、針のむしろに立たされることになるだろう。
特にお義母さんは私に絶対的な信頼を寄せているし、孫の奈緒のことを溺愛してくれている。
なのに私と奈緒を裏切って捨て、若くて可愛いだけしか取り柄のない小娘を選んだのだと聞けば。
……そんなのどうなるかなんて、火を見るより明らかじゃない。
私はあえて彼らと自分を繋ぐ縁の糸を、途切れさせなかった。
だってその方が、永く彼らを苦しめ続けることが出来るから。
つまりこれは私の、正当な復讐なのだ。
まぁ単純に義両親や職場の人たちのことが、大好きだっていうのもあるけれど。
なにが、婚外恋愛だ。そんなの、ただの不倫じゃない。
ふたりとも、生きたまま地獄を見るがいい。ザマァみろ!
『末永く、お幸せに』
明日の朝娘を迎えに行ったら、最後にこう言ってやろう。
根は素直で純粋なあの人はきっと、責められるよりもこんな風に優しい言葉を掛けられるほうが傷付くと思うから。
「『祝い』と『呪い』って文字、ちょっと似てるよね」
ククッと笑ってそう言うと、妹は怪訝そうに顔をしかめた。
「なによ? それ。……なんか、怖いんだけど」
だけどそれ以上なにも答えることなく、真っ赤なワインがたっぷりと注がれたグラスを手に取った。
彼らの未来が、最高に不幸なものでありますように。
そんな願いを込めて満月に向かって乾杯するみたいに掲げ、そのまま一気に煽った。
【了】