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人気のない局の中に案内された高澄は、几帳を動かして外からの人目を防ぐようにした。御簾は降りているが念のためだ。同じく案内された月白は何やら辺りを確かめたり懐から呪符を取り出して床に並べたりしている。
月白が一通りの準備を整えた後に籐式部が戻ってきた。どうやらお金を用意していたらしく、布袋を月白に渡そうとする。月白はそれを受け取る前に念を押した。
「もう一度伝えておくけれど、これは根本的な解決ではないわ。体の不調を一時的に改善するだけのもの。それは分かっておいて」
「分かっています。でも、今はとにかく不調を治したいのです。その後のことなど考えられなくて……」
藤式部は頷いた。一時的なものでもいいから不調から逃れたいと必死なようだ。
「請け負うわ。もしも希望するなら、根本的な解決についてのお話は後で。お体に触れても大丈夫?」
「……はい。お願いします」
「では、始めます」
宣言すると、月白は籐式部を誘導して呪符を配置した中に立たせた。そして彼女を抱きしめるようにする。身固めだ。月白が彼女よりも小柄なうえ、女房装束は小袖に単に重袿に表着にとかなりの枚数を重ねるものなのであまり直に触れているという感じではなかったが、藤式部は驚いたようだった。だが、制止はせず月白に任せている。
月白は彼女の背中に回した手で印を組み、呪を唱えた。
「ノウマク・サンマンダ……」
唱える月白の髪が、風もないのにふわりと舞った。高澄が驚いて見守る中で、月白の気配が変わっていく。
清浄で、目を奪われるような神聖さがあり、しかしどこか虚ろに陰るような……
(……この気配……何かに似ているような……)
覚えがあるのだが、掴めない。目を奪われつつも高澄がもどかしい思いを抱える中、月白は呪を唱え切った。
「……ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン! 悪鬼退散! 急々如律令!」
どん、と押されるような衝撃が走った。月白たちを中心に、なにか力の波のようなものが外へと波及していく。高澄は腹に力を入れて耐え切った。
普段から鍛えている高澄だからこそ耐えられたが、結構な衝撃だった。耐えられはしたが他の人を庇う余裕などなく、高澄は慌てて菖蒲の君の方を見た。
だが、彼女は倒れることもなく、それどころか衝撃を感じてすらいないようだった。急に視線を向けた高澄を訝しげに見返している。
(何だったんだ、今のは……?)
何かが起こったと思うのだが、さっぱり分からない。後で月白に尋ねてみようと思いつつ、高澄は月白と藤式部の方を振り向いた。そして慌てて駆け寄った。
藤式部が、体の力が入らない様子で月白にもたれかかってぐったりとしている。月白の小柄な体ではそれを支えきれずに一緒に倒れそうになっていた。
「大丈夫か!? どうしたんだ!?」
高澄は二人をまとめて支え、床に座らせた。
「……大丈夫、です。体が急に楽になって……」
藤式部がぼんやりと目を開けて言う。月白が説明を添えた。
「今まで体にかかっていた負荷がなくなったから、そのせいよ。菖蒲の君、藤式部にお水をあげてくれる?」
「あ、はい! すぐに持ってまいります!」
菖蒲の君が急いで部屋の外へ出ていった。足取りが乱れるようなこともなく、彼女は本当に何も感じていなかったようだと高澄は思った。
藤式部に向き直って問うてみる。
「その、つらかったら返事をしなくていいのだが。藤式部、何か衝撃を感じたりはしなかっただろうか?」
「……ええと、よく分からなかったのですが……何かが弾けた感じはしました」
少し意識がはっきりしてきたようで、受け答えをする声にも力が戻ってきている。しかし話の内容には首を傾げた。
「月白どの、何が起こったんだ?」
「物怪を追い払ったのよ。彼女の言う通り、これは物怪の障りだったから。彼女の中から追い出したから、弾けた感覚がしたのでしょうね」
「なるほど……。では、追い出したからこれで終わりなのではないか? 根本的な解決になっていないと言っていたが」
「それは……」
月白は藤式部に目を向けて聞いた。
「根本的な解決について話してもいい? 個人的な事情に踏み込むかもしれないから場所を改めた方がいいかしら」
「えっと、それは……二人で、ということでしょうか……?」
「そうなるわね。この人が聞いていてもいいならこの場で話すのだけど」
「構いません。ここで聞かせていただけますか?」
人見知りするたちなのか、藤式部は月白に苦手意識がありそうな様子だ。もっとも、月白の美貌や超然とした態度が近寄りがたい雰囲気を出していることは高澄にも分かる。後宮には美人が多いが、月白はその中に混ざっても目立つだろうと思える。
「何を聞いても他言はしない。約束する」
高澄は言った。本当だろうか、と言いたそうな視線を月白は寄越したが、何も言わなかった。
「あっ、籐式部、大丈夫そう? 気分が悪いとかは無い? これ、お水よ」
菖蒲の君が戻ってきた。ありがとうございます、と藤式部は水を受け取りつつ、月白と高澄にちらりと視線を寄越した。いったん話をやめたいということだろう。菖蒲の君は面倒見がよく世話焼きなたちだが、いささか口が軽いところがある。それを高澄は知っているので納得したが、月白は知らないだろう。高澄は彼女の視線を捉えると、口を少し開けてから閉めてみせた。察したらしく月白も浅く頷く。
菖蒲の君は嬉しそうな様子で藤式部に話しかけた。
「顔色がよくなってきているみたい。治ったのかしら?」
「治ってきています。さっきは体がびっくりしてしまったみたいで……。少し休めば大丈夫そうです。今までは、休もうにも気持ちが休まらなかったのでつらかったのですが……」
眠ろうにも夢見が悪く、さりとて起きていても頭の疲れは取れない。さぞかし苦しかったことだろう。懸念が払拭されて、藤式部の声に力が戻ってきている。
そのまま菖蒲の君が長々と話し込みそうだったので、高澄はやんわりと口を挟んだ。
「菖蒲の君、藤式部はもう大丈夫そうだが、少し休ませてやりたいんだ。今後の話もしたいし、この場所をもう少し借りていて大丈夫だろうか?」
「ええ、一時くらいは大丈夫なはずです。私は承香殿に戻りますが、何かあったらお呼びくださいましね」
「ありがとう。籐式部のことは任せてくれ」
高澄が請け合うのに頷き、月白にも頭を下げて菖蒲の君は場を辞した。それを見送り、高澄は局の隅にあった畳を中ほどへと移動させた。
「とりあえず座ろうか。私は適当にするから」
「じゃあ、遠慮なく。ありがとう」
「恐れ入ります」
二人に畳を譲って座らせ、高澄もその場に腰を下ろす。話の主導権を月白に譲り、高澄は口を閉ざした。月白が口を開く。
「先ほども話した通り、体の不調は物怪のせいだったわ。追い払ったから一時的には良くなったけれど、物怪はまた寄ってくるはず」
月白が言うと、藤式部の表情が強張った。具合が良くなったことを喜んでいたら、また同じ状態に戻ると言われたのだから当然だろう。不安そうに尋ねる。
「どうしてですか? どうしてこれで終わらないんです? せっかく治ったのに……」
先ほどまでは、いっときでも治ればいいという心境だったのだろう。いざ治ってみると、また以前の状況に戻ってしまうことが怖くなった様子だ。
「原因を断っていないからよ。物怪が寄ってくる理由はいくつかあるのだけど……」
月白は指を折って数え上げる。
「元々そういうものが見える体質だとか、誰かに呪詛されているとか、そうでなければ……」