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式部卿宮が住まいとしている里内裏は、元は藤原家が所有していた邸宅だった。十数年前に内裏で火災があった際に天皇のお住まいにと提供され、しばらく使われていた場所だ。内裏の機能が戻り、天皇をはじめとする人々が戻っていった後も、遠方からの人を泊めたり方違えに使われたりなど今に至るまで何かと便利に利用されており、常駐の使用人もいて暮らしに不自由はない。
高澄はそちらへ使いを出し、太白や月白を招く手はずを整えた。除目は十日後だからあまり日数に猶予はない。
しかし、太白が頼りになりそうなことは期待以上だったし、その協力を取り付けられたのも大きかった。何とかなるのではないか、と高澄は楽観している。
式部卿宮にお目にかかかる前に内裏を一度見ておきたい、と月白が言ったので、高澄は翌日の職務をあらかた終えた後、昼下がりに牛車を手配して月白を迎えに行き、ふたたび内裏へと戻った。内裏外郭の南西の方向にある修明門の前で牛車を止め、月白を連れて門を通る。除目が行われる清涼殿は内裏の中でも西の方にあるので、少し北へ歩いて内郭西側の陰明門へ向かう。
隣を歩く月白が硬い表情なので、高澄は気遣って少し歩く速度を落とした。
「月白どの、大丈夫か? 内裏は陽の気が強いというお話だったが……」
もしかして尊継のように陽の気にあてられているのだろうかと心配して声をかけたが、月白は首を横に振った。
「私は大丈夫。多少のことでは気を乱さないように修練を積んでいるから」
「そうか、すごいな。もしかして、その修練とやらをなされば宮も体調を崩さなくなるかも……」
「かもしれないけれど、おすすめはしないわ。時間がかかるし、できない人の方が圧倒的に多いから。殿下がお時間をかけられるほどの確かさは保証できない。それに、どちらにしろ十日弱ではどうにもならないわ」
「それもそうだな。まずは除目のことを考えないといけないしな……」
少しだけ落胆したが、元々の予定通りになるだけだ。高澄は気持ちを切り替えた。
「月白どのも修練を積んでおられるのだな。太白どののことを師匠と呼んでおられたようだし、弟子でいらっしゃるのか?」
「そうよ。……私にまでそんな敬意を払うことないわよ。私は半人前の……なのだし」
半人前の、の後に続いた言葉が聞き取れなかったが、あまり触れない方がよさそうだったので高澄はそのまま流した。
「では、もう少し気楽に話させてもらう。だが、技術のある者に敬意を払いたいとは思っているぞ。陰陽道のことはさっぱり分からないが、なんだかすごそうだというのは分かる」
「それは分かっていないと言うのよ」
「違いない」
思わず笑ってしまった高澄に、月白は戸惑ったような呆れたような視線を向けた。その反応の意味がよく分からないが、怒っていないようなので気にならない。高澄はさらに聞いてみた。
「月白は太白どのから信頼されているのだな。一人で送り出したり、内裏の確認を任せたり。何があるか分からないからついて行こうとはならないのだな」
月白は溜息をついた。
「一緒に来るのは私が止めたの。どうせ一度は来ることになるでしょうし、師匠ならそれで充分だわ。それよりも……あの人を何度も連れてくる方が不安よ。それこそ何があるか分からないのだもの。声をかけられたらほいほいついて行っちゃうんだから」
「声を、というのは……」
「誘いの声を。男性からも女性からもやたらめったら掛けられるのよ」
「ああ……なるほど……」
高澄は納得して頷いた。太白は美しさもさることながら、無邪気さと達観が共存したような不思議な包容力を持っている。誘いをかけても手ひどく撥ねつけられはしないだろうと思えるのだ。それは声も掛けやすいだろう。月白は頷く高澄を横目で冷たく見やった。
「お願いだから、あなたまで師匠に手を出すのはやめてね。第二皇子の覚えめでたい高官をたぶらかしたなんて箔がつくのはごめんだわ。そういう評判がさらに人を呼ぶのよ」
高澄は苦笑して首を横に振った。
「さすがにそれはしないから安心してほしい。殿下の大切な時期であるし、そもそも私は女性が好みだ」
月白が妙な顔で高澄を見上げた。
「師匠のこと、女性に見えない?」
「そう言われれば……髪を解いたところは女性に見えたな」
そう言うと、月白はますます妙な顔をした。
「鈍いのか何なのか分からないけれど……師匠の魔力がここまで通じない人を見たのは初めてかもしれないわ。師匠はね、男性にとっては女性に、女性にとっては男性に見えるのよ。それも、とびきり魅力的な異性にね。ついでに言うなら、同性を好む人には同性に見えるみたいだけど」
それで言うなら高澄は男性が好きな男性ということになる。そうでないことは自分でよく分かっているのだが。
「それで……結局、太白どのは男性なのか? 女性なのか?」
高澄の問いに、月白は黙って肩をすくめた。知らない、なのか、答えたくない、なのかは分からないが。
もしかして太白と月白の二人が師弟のみならず恋愛関係にあるのかもしれないと思ったのだが、違うのだろうか。そういう関係であれば知っていそうなものだが。
高澄の視線の意味を察したのか、月白は高澄に冷たい視線を寄越した。高澄は思ったことを口に出すのを控えた。
(しかし……この子はこの子で目立っているような……)
内裏で立ち働く女性はもちろんいるのだが、それでも行き交う者は男性が多い。月白はそうした男性たちの視線を集めていた。今日も相変わらずの男装だが、むしろ少女の可憐さを引き立てる要素にしかなっていない。男性にはまったく見えなかった。
こうした格好をする者は、巫女か、その流れを汲む白拍子などだ。潔癖な印象があるから後者には見えないだろうと思うのだが、それでも好色な視線がないとは言えない。もしかして月白の表情が硬いのはそのせいもあるのだろうか。高澄は提案してみた。
「清涼殿を見てみたら、少し後宮で休ませてもらおうか。内裏の中でも後宮は陰の気がどのくらい強いものなのか、君の見立ても聞いてみたい」
「ええ、じゃあ後でお願い」
「分かった」
月白が頷いたので、高澄はまず清涼殿へと彼女を案内した。天皇が寝食をお取りになったり日常の政務をこなされたりする場なので高澄にとっては割と訪れることの多いところだが、市井の者にとっては気圧されるくらい立派で目新しい場所と映ることは承知している。
月白は間取りや用途を高澄に尋ねたり、天皇にお目にかかろうとする貴人たちが待っている様子を眺めたりしながら思案を巡らせているようだった。
「……予想していたとはいえ、陽の気が強すぎるわね……」
「そういえばそんなことを言っていたな。私にはさっぱり分からないのだが」
「あなたは充分以上に適応しているもの。むしろ快適なくらいなんじゃない? そういえば源姓だったわね」
「ああ。高祖父が一条帝だ」
「……すごいお血筋ね……」
源姓、つまりは天皇を祖とする男系子孫だ。だが祖先が臣籍降下して三代を経ているし、高澄は皇子と呼ばれる身分ではない。そのことに不満はまったく無いし、尊継という尊敬できる主君に仕えられていることを幸せに思う。もちろん帝への忠誠は揺るがないが、藤原氏に対して一歩引いたような形になっている天皇陛下のお力に――尊継殿下とともに――なれたらいいと思うのだ。
清涼殿に少し上がったあとは建物の周りを一周し、高澄は後宮へと月白を案内した。