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それから数日もしない内に、なんと阿部が目覚めた。
前兆はなく、こーじに強引に連れてこられたひかるがため息をついた直後だった。
「ほらひかる兄さん!俺に遠慮せんと話かけてあげてください!」
「…」
何故こうなった。
自分は言いたいことを言っただけで懐かれるようなことをした覚えはない。
今からでも追い出してやろうか。けど気づけばラウールまで仲良くなっていてそんな事をすればどうなるか。
おい、阿部。こいつはお前のだろう。
どうにかしろ。
そんな恨みをこめたため息。
それに反応したのか突然パチリと阿部が目を開けた。
「あ、阿部ちゃん…?」
「…」
しばらく眠っていたからか反応は鈍く、完全には開いていない瞳。
しかしそれが反応が鈍いのではなく考えている、開いていないのではなく座っているのだと気づいた時には遅かった。
「何だ」
いつも通り声などかけていない。こーじはずっとうるさかったが。
自分がした事と言えばため息を吐いたくらい。
なのに阿部は迷わずひかるを見つけた。
人の目覚めと聞き思い付くのは、焦点の合わない瞳、長く眠っていた阿部は特にだと思うが今自分のいる場所の確認、それまでの自分の行動の思い返し。ともかくすぐに行動するなどあり得ない。
だけど阿部は真っ先に自分を見た。まるで自分がここにいる事を分かっていたかのように。
じっとひかるを見つめる瞳。
ゆっくりとふとんから出した手が、ひかるに向かって手招きする。
その手を見て、細くなったな、なんてのんびり考えつつ。何か言いたい事があるのかと顔を寄せた瞬間。
「ぐっ」
今まで寝ていた人間とは思えないほどの力で殴られた。グーだった。
しかしそこはさすがのひかる。鍛えられた体幹により首がちょっと曲がっただけだった。
「阿部ちゃん!?」
「チッ」
「え、ちょ、阿部ちゃん!」
悔しそうに舌打ちをした阿部は、再び目を閉じた。
殴られた左頬は数日腫れる事となったが、ひかるは全く気にしていなかった。
むしろひかる的に大変だったのはその後だった。
「やっぱり兄さんやないとあかん!」
こーじも同じくひかるが殴られた事など気にしていなかった。と言うより初めて見た自発的な阿部の行動がまさか人を殴る事だなんて!と、あまりの衝撃に恐らく記憶から削除された。
その場に崩れ落ち咽び泣くこーじ。
阿部が自分を目に入れなかった事などどうでもいい、それより大切なのは幼なじみの絆。
「さすがです!兄さん!!」
おいおい泣くこーじにひかるは引いた。
別に心配などしてほしいとは思わないが、とりあえず兄さんは止めてほしい。
「あ、俺やっぱり邪魔ですかね?今日は廊下で寝るんで兄さんどうぞ阿部ちゃんと!」
勘弁してくれ。
ひかるは再びため息をついた。
俺たちがその事を知らされたのは翌日の午後だった。
ラウールは家庭教師の日で王子の元へ行っていておらず、目黒と二人俺の執務室で昼食後の休憩をしているとひかるがひょこっと顔を出した。
「話がある」
ラウールの護衛につくようになってから長く経つが、そのせいで顔を合わす事が増えたためにわざわざこっちまで来ることは珍しく。
何故か腫れてる頬も気になったしとりあえず部屋の中に招き入れた。
「お茶をお出ししますので、どうぞ」
「結構だ」
「深澤さんも今飲まれていますが」
「いただく」
可愛げのない返事に一瞬真顔になった目黒。
見間違いかと思うほどほんの一瞬の後、ふわりと笑いソファーをすすめる。
「左頬どうした」
待て目黒、それ絶対俺と違うお茶。
同じものを出すならポットに残っているものを淹れてやればいい。その方が手間もかからないし洗い物も減る。
なのに素知らぬ顔で新しいポットに棚の奥から出した茶葉を入れお湯をそそぐ目黒に恐怖を覚えた。
怖い怖い、目黒怖い。
そんな事に気を取られ反応が遅れた。
「阿部に殴られた」
「へー」
「…」
「…」
え、何?誰に殴られたって?
「悪いな、夕べは忙しくて来れなかった」
阿部に殴られた後、「部屋に泊まれ、阿部の傍にいろ、何なら一緒に寝ろ」としまいに鳥肌の立つような事を言い始めたこーじを撒き。
王子の部屋に行こうとした所、同じく別の報告に来ていたであろう部下と部屋の入り口で出会った。聞けば「城下の酒場で何者かが暴れている」と。
なかなかの能力者のようで見回りの兵士だけでは手が足りず、ひかるは阿部の元へ行っているので邪魔は出来ない。なのでとりあえず王子に人員を増やす報告に来たのだと言う。
それを聞いて知らん顔は出来ない。兵士と共に現場に向かえばなるほど元の店内が分からないほどに暴れてくれていた。
ひかるに掛かれば“なかなか”の能力者など子供のようなもの、ともかく酔っぱらいを確保したひかる。
事が片付いた頃には陽が上りかけていた。
「お疲れさん」
「ああ」
「で、誰に殴られたって?」
「だから阿部だ」
「あべ」
「寝起きの一発目だから威力はなかったがな」
いやそこどうでもいい。
「阿部さん、目が覚めたのですか?」
「いやまたすぐに寝た」
「何かお話はされましたか?」
「俺を殴って終わりだ」
「それは深澤さんのお茶ですが」
「遠慮するな、ふっか。熱い茶を飲め」
さりげなく淹れたお茶を出しながら話を進める目黒。
それに返しながら何かに感付いたのか口元に充てたカップを離し、さりげなく俺のものと交換するひかる。
スムーズすぎるわ二人共。
「いつ起きたんだ?」
「夕べだ。部屋にいたらいきなり目を開けた」
「いきなり?」
「そうだ」
それから詳しく聞いた夕べの話。
疲れを隠さずため息をつくひかるに、俺と目黒は絶句した。
色んな突っ込みどころに脳が追い付かない。
まず、こーじ。
お前はどうしてそうなった。
この数年、ずっと阿部の傍にいて見守っていた。「何か放っといたらダメな気がする」なんてふんわりどころじゃない感情のみで献身的に。
それをどうして幼なじみだと言うだけで全てをひかるに譲るんだ。むしろお前はひかるを、いやひかるだけじゃなく俺たちを怒ってもいい立場だ。
もっと自信を持てよこーじ。阿部を目覚めさせたのは自分だと胸を張っていいんだ。
そして、阿部。
いきなり目を覚ましていきなり人を殴るんじゃない。
お前の手の早さはひかるから聞いていたけどそこまでとは思わなかったぞ。昔は天使のようだったのにいつからそんな子になった。
そりゃ悔しかっただろう。手が届かない場所で、駆け寄ってもやれない場所で自分を置いていったひかるを、いつか殴ってやろうと思ってたんだろう。もしかしたら阿部のことだ、もっかい殺してやるくらいは思ってたかもしれない。
それでもお前が真っ先にしなくちゃいけないのはひかるを殴る事じゃない。
こーじに感謝を伝える事だったはずだ。いくらそれをこーじが望んでいなかったとしても。
最後に、ひかる。
お前に言いたいのは一つ。
「もっと慌てろよ!」
何平然としてんだよ!
グーパン避けられなかったこと悔しがってんじゃねえよ!避けかた考えてる場合じゃねえだろ!今その反省いらねえんだよ!
ほんとは嬉しいくせに!テンパってるくせに!俺たちの前でくらいそれ出したっていいだろ!
「深澤さん、落ち着いてください」
今にも立ち上がろうとしていた肩を後ろから目黒に押され、再びソファーに深く沈む。
感情的にならないようにしようと思ったばかりなのに全然できない。
「嬉しくないのかよ」
「何がだ。阿部が目覚めたことか、それとも寝起きで人を殴る元気が残ってたことか」
「どっちもだ」
「嬉しいさ、嬉しくないわけがないだろう」
ふぅ、と大きく息をつくひかる。
カップを手に取り、口に充てる。
「だが俺が喜んだらあいつはどうなる。俺たちが騒げば騒ぐほどあいつの居場所はなくなるんだぞ」
「こーじの事か」
「そうだ。一番に喜ぶべきなのはあいつだ。俺に感謝してるようじゃそれも遅そうだがな」
ぐいっと飲み干しカップをテーブルに戻す。
「俺は阿部に何もしてやれなかった。そんな俺が喜ぶなんて筋違いもいいとこだ。殴ってあいつの気が済むならいくらだって殴られてやるよ。俺に出来るのはそれくらいだ」
ひかるの表情は変わらない。だけどカップを持つ手が震えていたように見えた。
立ち上がり、部屋を出て行こうとするひかるに声をかけたのは目黒だった。
「あなたはもっと、阿部さんに感謝すべきです」
「してるさ」
「言葉にしてあげてください。言葉にしないと伝わりません」
「…、考えとく」
珍しく口ごもったひかる。
短い言葉を返し部屋を出て行った。
「さすがの団長様も平静ではなかったようですね」
「そうか?」
「はい。二杯も召し上がるのは初めての事です」
「二杯?」
ほら、と言われ覗いたテーブルの上の二つのカップ。
俺に淹れてくれたひかるが飲んだものと、ひかるに淹れて俺の前に移動してきたもの。
そのどちらも空になっていた。
「…ひかるのやつ」
飲んだことはないがどう考えても普通の味がしないであろう目黒のお茶を、その事を忘れ平気な顔して飲み干したくらいには気が動転してるらしい。
感情を表に出さない人間というのはややこしい。
ひかるのこーじへの感謝は俺たちとはまた別物だと分かってる。
自分がしてやれなかった事をずっとしてくれていたこーじには何度頭を下げても伝えきれないだろう。
だからひかるは自分の気持ちを抑えた。それよりもこーじを優先しようと。
俺はそれをバカだと思う。一緒に喜べばいいんだ、阿部を大切に思う気持ちは同じなんだから。
まぁどうせそれも阿部が本当に目覚めるまでの話。
阿部が言えばひかるは言うことを聞かざるおえない。
二人で一緒に感謝を伝えて、謝って、こーじを喜ばせてやればいい。