スローモーション自殺
久しぶりに文を書くので、リハビリがてら短めの短編を。
俺は今すぐにでも死にたい。俺は所謂希死念慮なるものを、往年引っ提げてこんな歳まで生き延びてきてしまった訳だが、愈々そいつが噛む力を強めてきたのだ。
なにかキッカケがあったのではない。君たちも知っての通り、こういった思いはなんの前触れもなく牙を剥いてくる。それがまさに今この時だったに過ぎない。
駅のホームで俺は、線路の向こう側で談笑する人びとを眺めていた。俺には無かったものを持っている人間達だ。熱中するものがあり、それを共有する友がおり。俺には両者とも無いわけで、また、そもそも前提として───本当はこの前提自体を若いうちに疑っておくべきだったのかもしれないが最早手遅れである───俺にはなにかに熱中できるほどの才能も、熱中をするための才能も無いのだ。
そのうちの一人と目が合った。ああ、眉を顰めないでくれ。決して君たちの会話を糾弾している訳では無いのだ。俺は君になりたかった。なりたかったのだ。それだけなんだ。などと心の中で独り言ちてみるが、そもそも彼は俺の事などもう眼中に無いのだ。何故なら彼は話すべき相手がいるから。話すべき話題があるから。
俺の左手の携帯電話は俺が乗る電車が来るまであと二分もあると主張している。俺は思わず溜息を漏らす。俺は線路に今すぐにでも飛び込んで横になりたいと叫ぶこの希死念慮と取っ組み合いをあともう二分し続けなければならないのだ。
なにか別のことを考えねば意識がヤツに塗り潰されてしまうので、先程コンビニで昼食を買った時に貰ったレシートでも眺めるか、と考えた俺はポケットからシワくちゃのレシートを取り出す。
チョコチップスティックパン。百四十九円。ただそれだけの買い物だ。肝心のパンはリュックの中で夏の暑さにチョコを蕩けさせている。移動中に食べるつもりだったが生憎食欲は生の憎さに掻き消されてしまった。
俺の人生は言わば「凡庸に生きて、凡庸に死んだ」。それだけで総括出来てしまう。何事も中途半端だ。随想録にしようにも才能はハナからない上、内容も薄っぺらい。このレシートの裏の空白だけで収まってしまう程度には浅い。
ホームでベルが姦しく鳴く。俺はパブロフの犬が如く、いつも通りリュックを前に掛け直そうとする。電車がいつも通りやって来る。そしてくだらない俺のくだらない生活が始まるのだ。
やはり、俺は死ぬべきだ。
俺は来る電車に合わせて黄色い線の向こうに行こうと思い立った!
───しかし、情けないことに。俺は立ちすくんでしまった。俺は生きていく勇気も無ければ死んでいく勇気も無い。中途半端な人間にお似合いのオチだ。黄色い線の内側でお待ちくださっている俺の目の前に、電車の扉が開く。
俺の頬を汗が走る。何故か息を荒らげている俺を怪訝な目で見ながら人々は電車を降りていく。
俺が地面に挿した槍のように突っ立っているので、俺の後ろに並んでいた人々が俺を抜いて電車に入っていく。
俺はハンカチで額を拭って、電車に乗り込んだ。俺はまだ生きていて良いのだ。死ぬ資格も無いのだ。俺は歯車の中に戻った。
俺はこれからもこうして生きながらにして死んでいく。膨れ上がった希死念慮を解消することが出来ないまま。
煉炭に火を灯すことも、ドアノブや照明に縄を引っ掛けることも、降りた踏切に足を踏み入れることも、屋上に靴を並べることも、そういったことをせず、出来ず、グズグズと「俺は今すぐにでも死にたい」を引っ提げて、死んでいく。あわよくば突発的な死が俺に降り掛かってくることを祈りながら、俺は、死ねず、そして死んでいくのだ。
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