ずっと意地悪してきた宮廷騎士(元奴隷)に求婚されてるんですけど、これってあの時の仕返しだったりしますか?
私はレフィア・ノシュタルト。ノシュタルト公爵家に生まれた一人娘だ。
楽観的で人の良すぎるところがある優しいお父様と、朗らかでしっかり者のお母様、そしてたくさんの使用人たちに囲まれて、穏やかな毎日を過ごしている。
「今日から私たちの家族になる子だよ」
――そんな代わり映えのない日常に変化が訪れたのは、白い雪がちらちらと降り始めた、寒い冬の日のことだった。外出していたお父様が連れ帰ってきたのは、痩せ細り薄汚れた服を身に纏った、仄暗い目をした男の子で。
「アレン、挨拶を」
「……」
お父様に“アレン”と紹介された男の子は、無表情のまま小さく頭を下げると、直ぐに俯いてしまった。
お父様に話を聞いたところ、彼は両親に売られて、奴隷として働かされていたらしい。
街中で引ったくりに遭ったお父様の財布を取り返してくれたそうで、その身のこなしを気にいったお父様が、高値で彼を買い、連れ帰ってきたというわけだ。
執事のジャーナルなんかは頭の痛そうな顔でお父様にやんわり苦言を呈していたけれど、お母様は「全く貴方って人は」なんて言いながら仕方なさそうに笑って、アレンを快く迎え入れていた。
「レフィア。アレンに屋敷の案内をしてあげてくれる? 年も近そうだし、良いお友だちになれそうね」
部屋で本を読んでいれば、お母様が訪ねてきた。隣にはアレンもいて、居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。一瞬目が合ったけど、直ぐに逸らされてしまった。
「何だか、さっきとは別人みたい」
「ふふ、本当よね。しっかり食事をとって鍛えれば、将来、かなりの男前になると思うわ」
楽しそうに笑ったお母様はアレンの背中を軽く押すと、私たちを残して行ってしまった。
お風呂に入って身を清め、ジャーナルが調達してきた服に身を包んだアレンは、先ほどまでとは雰囲気がガラリと変わっていた。
ボロボロの格好をしていたので気がつかなかったけど、実は目鼻立ちの整ったとんでもない美少年だったみたい。この辺りでは珍しい艶やかな黒髪に、切れ長の涼しげな目元。ターコイズグリーンの瞳はとても綺麗で、吸い込まれてしまいそう。
「私はレフィアっていうの。今日からよろしくね?」
見目麗しい少年の顔をまじまじと見つめながら、改めて挨拶をする。けれどアレンは私の言葉を無視してフイッと顔を逸らしたかと思えば、無言でこの場を立ち去ろうとする。私は慌てて、彼の服の裾を掴んだ。
「ちょっと、どこに行く気?」
「……」
「もう、黙ってないで、何か言いなさいよ! ……もしかしてあなた、話せないの?」
もしかして、言葉が分からないのかしら? それとも、急に知らない場所に連れてこられて、怯えているとか? 私はつい最近十歳になったばかりだけど、見た目的に、アレンは私よりも年下だろう。背だって私よりずっと低いし、幼い顔立ちをしているから。だとしたら、お姉さんの私が安心させてあげないとよね。
そう決心しながら、黙ったまま俯いているアレンの肩にそっと手をのせようとした。けれど彼に触れる前に、私の手は払われてしまう。
「おれに、関わらないでください」
「えっ」
「……おれは、独りでいたいんです」
平坦な声でそう言ったアレンは、興味なさげに私から視線を外すと、そのまま部屋を出ていってしまった。一人取り残された私は、目をパチリと瞬かせて、放心状態。
――おれに、関わらないでください? 今の言葉って、私に向けられたものよね?
アレンに何を言われたのか、私は数秒遅れて、やっと理解することができた。
「なっ、何よそれ」
ムカつくっ! 関わるなって、何様のつもりよ! いいわ。そっちがその気なら、こっちにも考えがあるんだから。
今まで甘やかされて育ち、ぞんざいな扱いを受けたことがなかった私は、視線すらまともに合わなかったアレンの顔を思いだして、つんっと唇を尖らせてしまう。
胸の中にふつふつと込み上げる感情は、憤りと、それから、少しの悲しさからくるものだった。だって、せっかく仲良くなれるかもしれないって……そう思ったのに。それに、独りでいたいだなんて、そんな寂しいことはないわ。そもそも、これから一緒に暮らすのだから、関わるなだなんて、到底無理な話じゃない? 気に入らないわ。
(見てなさい。あなたを独りになんて、させてやらないんだから)
だから私は、次の日からアレンに、しつこいくらいに付き纏ってやった。
「アレン! 一緒に買い物に行きましょう」
「いえ、おれは…「いいから行くわよ!」
嫌がるアレンを無理矢理外に連れ出して、荷物持ちをさせたこともあった。
「あら、いらないなら私が食べてあげるわ」
「……おれ、いらないなんて、一言も言っていませんよ」
アレンが甘いものが好きと知りながら、おやつのプディングを横取りしたこともあった。
「あら、アレンったらこんなこともわからないの? 私はもうシャーティア・ビス機能主義理論の中巻まで終わってるんだから!」
「……さすがお嬢様ですね。おれも精進します」
お母様の勧めで家庭教師をつけられたばかりのアレンのもとを訪ねては、冷やかしたり、自分の才能をひけらかしたりした。
初めは慣れない環境に戸惑いを見せていたアレンだったけど、元々地頭が良かったらしい。何でも卒なく熟してしまう、器用な男だったのだ。
勉強はもちろん、お父様に勧められて始めた剣の稽古も、めきめきと実力をつけていき、先生には「筋が良い。これなら何処でもやっていける!」と太鼓判を押されていた。
そんなアレンを、お父様もお母様も大層褒めていた。だから私は、余計に彼のことが気に入らないと思ってしまった。
だって今まで、褒めてもらえるのは、私だけの特権だったから。それなのに、私よりアレンばかりちやほやされていることが面白くなかった。ただの子どもじみた嫉妬だ。
「はい、また私の勝ちね。アレンったら、本当に弱いんだから……って、え!? ちょ、ちょっと、何で泣くのよ……!」
そう言えば、得意なチェス勝負を持ちかけて、大人げなくアレンをこてんぱんに負かせて、最終的に泣かせてしまったこともあったわね。アレンが泣く姿なんて初めて見たから、あの時はすごく動揺したわ。
そんな小さな意地悪をしたりしながらも、月日はあっという間に流れていき、アレンを我が家に迎えた日から、早くも七年が経った。
今では私も十七歳になり、アレンは十八歳だ。初めはアレンのことを年下だと思っていたけれど、栄養のとれていない貧相な体躯のせいで、そう見えていただけだった。
此処で暮らすようになってから、成長期を迎えたアレンの身体は逞しく成長し、今では身長だって追い越されてしまった。
そしてアレンは、宮廷で働いている父の推薦もあり、騎士団入団試験に見事合格し、晴れて宮廷騎士となった。
宮廷騎士の大半は宮廷で暮らしているみたいだから、きっとアレンも、近いうちに家を出ていってしまうだろう。――アレンが家を出ていく前に、私はどうしても、あの頃のことを、彼に謝りたかった。
幼稚な意地悪ばかりしていたことを、ずっと後悔していたから。簡単に許してもらえるとは思っていない。それでも私は、アレンのことを、もうずっと前から大切な家族の一員だと思っていた。だから簡単に会えなくなる前に、一言謝罪がしたかった。
「お嬢様、どうしたんですか? 改めて話したいことがあるだなんて」
夕食をとり終え、部屋に戻ろうとしていたアレンを引き止めて、私の部屋に招いた。
アレンは夜遅くにレディが易々と男を招き入れるなんてと苦い顔をしていたけど、私の固い表情を見て、何か察したらしい。文句を言いながらも、大人しく付いてきてくれた。
子どもの頃は常に無表情で、話しかけても淡々とした言葉しか返ってこなかったけど……あの頃に比べたら、アレンも随分明るくなったわよね。これなら宮廷の人達とだって、上手くやっていけるだろう。
「その、私ね……ずっとあなたに謝りたかったの。子どもの頃は意地悪ばかりしてしまって……本当に、ごめんなさい」
頭を下げて、数秒。ゆっくりと顔を上げれば、アレンは心底驚いているような顔をして、切れ長の瞳を瞬いていた。
「別に俺は、何も気にしていませんけど……」
「いいえ、そんなはずないわ! 私、あなたに散々酷いことをしたもの。嫌がるあなたを無理矢理外に連れ出したり、おやつを横取りしたり、勉強できないことを馬鹿にしたり……。その、簡単に許してもらえるなんて思ってないの。でも、私にできることなら、何だってするから……」
呆けた顔で私の謝罪を聞いていたアレンの目の色が、変わった。
「何でも、ですか?」
「えぇ。で、でも、私ができる範囲でのことだからね? 新しい剣でも、装飾品や服でも、欲しいものがあるなら何でも言って。買い物の荷物持ちだって手伝うし、それに、えーっと……」
思いつく限りの私に出来そうなことを挙げていけば、アレンは私の言葉を遮って、ニコリと、それは綺麗に笑った。
「それじゃあ、俺と結婚してください」
「結婚ね、わかったわ。……って、え? ……結婚?」
「はい。俺と夫婦になってください」
身を屈めたアレンの甘い瞳と、至近距離で視線が絡む。美しいターコイズグリーンには、ポカンと間抜け面をした私が映っていた。
◇
アレンに求婚されてから、早一週間。プロポーズを受けた時は、いつもの冗談か、若しくは新手の嫌がらせかもとすら思ったけど、アレンは本気のようだった。
アレンはあれから毎日、顔を合わせる度に「好きです」と、愛の言葉を伝えてくれる。
それが一週間も続けば、さすがに「冗談でしょう」と躱し続けることなんて、できるはずもない。
アレンに真っ直ぐ見つめられるだけで、身体中が熱くなって、その場から逃げ出したくて堪らない気持ちになってしまう。こんなこと初めてで、どうしたらいいか分からなくて、私は頭を悩ませていた。
そもそもアレンは、本当に私のことが好きなのかしら? だって今まで、意地悪ばかりしてきたのよ? あんな意地悪をされておいて、私を好きになる要素なんてないだろうし……もしかしてアレンって、被虐趣味でもあるのかしら? ……いいえ、むしろアレンは人を揶揄ったり、虐めたりする方が好きなはずよね。
だって、それこそ子どもの頃は私の方が彼に意地悪ばかりしていたけれど、年齢を重ねるにつれて、口達者なアレンに言い負かされることの方が多くなったもの。
ついこの間も、大好きなケーキを堪能している私を見て、アレンったら「そんなにばくばく食べていたら、買ったばかりのドレスが入らなくなりますよ」って。
笑顔で嫌味を言ってきたんだから! 全く、うら若いレディに向かって、失礼しちゃうわ。 ……そう考えると、何でもしてあげるだなんて言う必要は、なかったかもしれないわね。
でも、それじゃあどうしてアレンは、私と結婚したいだなんて言うのかしら……。
答えの出ない問いに頭を悩ませながら、悶々とした時間を過ごしていた私のもとに、今日もまた、アレンが訪ねてきた。
入室の許可をとるノック音にも気づかずにボーッとしていたみたいで、突然目の前にアレンが現れたものだから、驚いて大げさに肩を揺らしてしまった。
「何か考え事ですか? お嬢様がそこまで悩ましい顔をしているなんて、珍しいですね」
「し、失礼ね! 私だって、物思いに耽ることくらいあるわよ」
「へぇ。もしかしてその考え事って、俺のことだったりしますか?」
まさかの図星を突かれてしまい、咄嗟に言葉を返せずにいれば、アレンは目を細めてゆるりと笑う。
「嬉しいです。もっと俺のことだけ、考えていてくださいね」
「なっ……か、揶揄うのもいい加減にしなさいよ!」
「揶揄ってなんていませんよ。本心です」
また身体が熱くなってきた。赤くなった顔を見られるのが恥ずかしくて下を向けば、そのタイミングで、執事のジャーナルが部屋を訪ねてきた。
「失礼いたします。……やはりお嬢様のところにいたんですね。アレン、貴方にお客様ですよ」
「俺に、ですか?」
「えぇ。ファビット家のアイリーン様です」
「……あぁ」
その名を聞いたアレンは、納得した様子で頷いて立ち上がる。
――ファビット家のご令嬢が、アレンに何の用かしら?
「お嬢様。少し行ってきますね」
「……ええ。いってらっしゃい」
「……続きはまたあとで」
アレンは腰を折って、私の耳元でそう囁く。そして、再び熱を持った私の顔を見て満足げに目を細めると、部屋を出ていってしまった。
顔の熱を冷ましながらアレンが出ていった扉を睨みつけていた私だったけど、ファビット家のご令嬢とアレンにどんな接点があるのか、つい考えてしまう。わざわざ家まで訪ねてくるなんて、余程大切な話でもあるのかしら。うーん、気になるわね……。
ジッとしていられなくなった私は、こっそり様子を見にいくことにした。
(あら、ずいぶん可愛らしい子ね)
綺麗にウェーブがかった金色の髪に、ぱっちりとしたアイスブルーの瞳。小さい顔に、バランスのとれた目鼻口が配置されたその顔は、お人形のようだ。
遠すぎて何を話しているのかまでは分からないけど、こちらから見えるアイリーン嬢の顔はとても嬉しそう。熱のこもった目でアレンを見上げている。
(……私ってば、何やってるのかしら)
のぞき見なんて趣味の悪いことをして、アレンにバレたらまた嫌味の一つでも言われちゃうかもしれないわね。それに、あの二人を見ていると……何だか胸のあたりがモヤモヤして、苦しい。
これ以上二人が話している姿を見たくないと思った私は、アレンたちから視線を外して部屋に戻ろうとした。――その時だった。
「……えっ」
背伸びをしたアイリーン嬢が、アレンの手を引き、その整った顔を近づけたのだ。二人の距離が、ゼロになった。
(今、キスしてた……?)
その場で固まっていれば、アイリーン嬢に何か話していたアレンが、こちらに振り向いた。視線がばっちり交錯する。
「っ、お嬢様、待ってください!」
思わず逃げ出してしまえば、アレンは私を追いかけてくる。
何よ、そんなに懇意にしているご令嬢がいるなら、教えてくれたっていいじゃない。もしかして、私が知らないだけで、二人は婚約者だったりして? そんな相手がいるのだったら、私のことなんて放って置いてくれたらいいのに。そもそも、何で私なんかにプロポーズしたのよ。……アレンの馬鹿!
胸中で文句をこぼしながら走り続ける。だけど、私が走りでアレンに敵うはずもなくて、庭園にきたところで呆気なく捕まってしまった。
「お嬢様。さっきの、見てたんですか?」
「……えぇ、見てたわ。よかったじゃない。可愛らしいご令嬢にキスしてもらえて」
ズキズキ痛む胸には気づかないふりをして笑いかければ、アレンは唇をグッと噛みしめて、傷ついたような顔をする。
「それ、本気で言ってるんですか」
「……えぇ、本気よ。お似合いだと思うわ」
私の言葉に、アレンは薄く笑った。だけどそれは、私の好きな笑顔ではなかった。出来損ないの、無理やり作った笑顔。いびつで、とても悲しそうな笑顔。
切なそうに歪んだ瞳を無視することなんてできなくて、私は思わず、彼の頭に手を伸ばしていた。
「……お嬢様は、ズルいですよね」
触り心地のいい黒髪を撫でれば、アレンは切なそうに声を絞り出して、私を見つめる。
「俺の顔、よく見てください。もし本当にキスされていたのなら、口許にルージュが付いているはずですよね?」
言われた通り、視線をアレンの口許に移す。確かに口許に、口紅らしきものは付着していないみたい。
「アイリーン嬢とは、宮廷で何度か顔を合わせたことがありました。何度か食事に誘われたこともあって、全てお断りしていましたが、先ほど思いを伝えられました」
「……そうなのね」
「はい。もちろん、きっぱり断りましたけど。俺には、生涯愛する女性がいるから、と」
無意識に地面に向けていた顔を、そろりと上げる。
「何度も言っていますが、俺は本気ですよ。レフィアお嬢様を愛しています。だから、お似合いだとか、そんな言葉……あなたの口から聞きたくなかった」
アレンが、私の肩にもたれかかってきた。さらさらの黒髪が首筋に当たって、少し擽ったい。
「……ごめんなさい」
「嫌です。俺は傷つきました」
「い、嫌ですって、あなたね……」
「ごめんと思うなら、俺と結婚してください」
「結局そこに行き着くのね……」
視線を斜め下に落とせば、拗ねた子どもみたいな顔が見えて、何だか肩の力が抜けてしまった。
「私ね、さっきアレンがキスされてるところを見て……何故か分からないけど、胸が痛くて仕方なくなったの」
「っ、え?」
「これ以上見ていたくないって……嫌だって、そう思ったわ」
「お嬢様……」
アレンは目を瞠って、かと思えば、ふわりと花がほころぶみたいに笑った。
「……嬉しいです」
「嬉しいの? 私の胸が痛いのが?」
「はい」
「……それってひどくない?」
やっぱり子どもの時に意地悪したこと、まだ根に持ってるのかしら。
思わず唇を尖らせれば、アレンに抱きしめられた。伝わる熱に、心臓が跳ねて、緊張で身体を強張らせてしまう。
「ちょ、ちょっとアレン!」
慌てて身をよじって、アレンの胸板をグイッと突っぱねる。顔の熱さが尋常じゃない。多分、今の私の顔、リンゴみたいに赤く染まっているはずだわ。アレンのことだから、こんな顔を見せたら、絶対に揶揄ってくるに決まってる。
慌てて下を向けば、クツクツと楽しそうな笑い声が耳に届いた。
「お嬢様は、本当に可愛らしいですね」
鼓膜を揺らすのは、チョコレートみたいに甘い声。頬にアレンの手が添えられて、持ち上げられる。至近距離で見るターコイズグリーンの瞳は、やっぱりどんなに高価な宝石にも負けないくらいに綺麗だ。
「俺はね、あなたになら、何をされてもいいって本気で思ってます。俺はあの時からずっと、あなただけのものなので。でも、もし叶うのなら……あなたの感情を揺れ動かすのは、出来るなら、俺であってほしい。あなたの一番傍に、俺を置いてほしい。お嬢様のそんな顔も全部、独り占めしていたいんです」
そして、心底愛おしいものを見るようなまなざしで、私の額に口づけを落とした。
◇
お嬢様は、盛大な勘違いをしている。何故なら俺は、お嬢様に虐められていたという自覚が欠片もないので、彼女を恨むなどありえないことだからだ。
親に売られ、奴隷として過ごしてきた俺は、周囲の人間を誰一人として信用できなかった。独りでいたいと思っていた。だって、人は平気で嘘を吐く生き物だから。信じて裏切られるなんて、真っ平御免だと思っていたから。
だけど彼女だけは、俺が何度突っぱねても、冷たくあしらっても、めげずに俺に付きまとってきた。何度だって俺の名前を呼んでくれた。あの陽だまりのような笑顔を、俺に向けてくれたんだ。
「アレン、見て! 虹よ!」
「虹、ですか?」
「ええ、もしかして見るのは初めて? お父様がね、前に言ってたの。虹は幸せや希望の象徴なんだって! ふふ、何か良いことがあるかもしれないわね」
引きこもる俺を外の世界に連れ出して、知らなかった綺麗なものやワクワクすることを、たくさん教えてくれた。お嬢様と一緒に見る景色は、全てがきらきら輝いて見えて、空っぽだった俺の胸を満たしてくれた。
……あぁ、そうだ。そう言えば、お嬢様は勘違いしているみたいだけど、別に俺は、甘いものがトクベツ好きなわけではない。ただ、甘いものを食べて幸せそうな顔で笑っているお嬢様を見ることが好きなだけだ。
だから、むしろ俺の分までデザートを食べて喜んでくれることが、その笑顔を一番近くで見れることが、嬉しかった。
「ねぇ、先生。さっきアレンにわざと難しい問題を解かせていたでしょう?」
「……いえ。そんなことありませんよ?」
「あら、私見てたのよ? わざと習っていないところを解かせて、罰を与えていたじゃない。お父様たちに言ってもいいのよ? あなたがアレンに意地悪しているってこと」
「……」
「もうしないでね? アレンを虐めていいのは、私だけなんだから」
奴隷の身分で公爵たちに良くしてもらっている俺が、気に食わなかったのだろう。陰で家庭教師にいびられたこともあった。そんな俺を、お嬢様は庇ってくれた。
いや、別にお嬢様は俺を庇ったつもりはなかったのかもしれない。だけど、見て見ぬ振りができない、まっすぐで正義感の強いところも好きだった。
「アレン、行くわよ」
「……はい。何処までもお供します」
こんな風にずっと、お嬢様のお傍にいられたら、それだけで幸せだと思っていた。
だけどチェス勝負をした時、それは不可能であると、現実を突きつけられた。
「私ね、あと数年したら、お嫁にいかなくちゃいけないらしいわ」
「っ、え?」
「先生が言ってたの。そのためにも、立派なレディになってくださいねって。そうしたら、この家を出ていかなくちゃいけないらしいわ。あっ、でも、アレンは私がいなくなったら寂しいだろうし、たまには顔を見せにきてあげるわね」
――お嬢様が、この家を出ていってしまう。俺は一緒に行けない。お傍にいることも叶わない。それどころか、どこの馬の骨とも知れない男が、お嬢様のことを……。
「はい、また私の勝ちね。アレンったら、本当に弱いんだから……って、え!? ちょ、ちょっと、何で泣くのよ……!」
奴隷をしていた時でさえ、泣いたことなんてなかったのに。
お嬢様が居ない日々を想像した俺は、悲しくて寂しくて、苦しくて、ボロボロ大粒の涙を流してしまったのだ。思いだすと恥ずかしくもあるが、あの時のお嬢様の慌てっぷりは、見ていて少し面白かった。
それからは、お嬢様に相応しい男になるべく、勉強も剣の修行も、社交界でのマナーや立ち振る舞いなども完璧にするべく、一層努力した。
レフィアお嬢様は鈍感だ。色恋沙汰よりも、甘いものを食べたり、本を読んだりすることの方が好きらしい。東の国に“花より団子”という言葉があると耳にしたことがあるが、お嬢様にこそ相応しい言葉だと思う。
でも、それでいい。俺はありのままのレフィアお嬢様が好きだ。俺の気持ちを理解してもらうことにどれだけ時間がかかったとしても、俺の一番がお嬢様であることに変わりはないのだから。俺が側にいたいと望むのは、生涯お嬢様しかいないのだから。
「アレン。レフィアのこと、頼んだよ」
「アレンになら安心して任せられるわ」
「はい。お任せください」
ノシュタルト家の当主でありお嬢様のご両親であるお二人には、とっくに俺の思いも伝えているし、お嬢様が頷いたのなら結婚することも構わないと、了承も得ている。
あとは、レフィアお嬢様に分からせるだけ。家族だからとこれまで我慢していた分、一生涯かけても伝えきれないくらいの愛を伝えて、俺なしじゃ生きていけないくらい、どろどろに甘やかしてやりたい。培った知恵も、剣も、全てはあなたのために。
「レフィアお嬢様、愛しています」
「……うん。私も、アレンのことが――」
存分に“分からせ”られたレフィアが白旗を挙げ、二人が籍を入れるまで、それから二か月もかからなかったとか。
お読みいただきありがとうございました!
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