秋桜
秋桜
それは、『恋』と呼ぶには落ち着きがありすぎて、しっとりした重みのある感情だった。
ある朝、目を開けたら世界が眩しく輝いていた。
窓の中には水色の空が美しく澄んで広がっていた。
手を伸ばすと私のラメを乗せたボルドーのネイルに、キラキラと朝日が反射した。
ー好き。
強く思った。
彼が好きだと、自覚した朝だった。
挙げた手を額に下ろして、私は深くため息を吐いた。
全然タイプじゃない人を好きになっちゃうのは、なんでなんだろう。
橘さんは、背が低くて、目が小さくて、体だけではなくて手もぽっちゃりとしている。
優しくて、よく笑い、よく食べ、酒の席でよく泣く。
私のタイプは、細身長身切れ長の目を持つクールな男性のはずなのに、なんでだろう。
ーおかしいな。
ーけど、好き。
ついでに、橘さんには可愛い奥さんがいる。
新卒で働き始めてから、すぐに結婚したと聞く。一度写真を見せてもらった。
なんでも橘さんとは同級生で、高校生の時から付き合っていたらしい。
そんなこと言えば、私だって彼とは同い年だ。
同じく同級生なのに、彼と出会えなくて、付き合えなくて、結婚もできなかった。
ただ、それだけだ。
「好きになったきっかけとかあるの?」
言いながら、吉川は、飲みかけの抹茶フラペチーノをストローでクルクルと回した。
彼は中途採用で入社したが、めちゃくちゃ仕事が出来る。
ちなみに、細身長身切れ長の目を持つが、ゲイなので、私たちは恋人にはなれない。
それ以前に、吉川のことは初めから同僚もしくは友人、それ以上には見れなかった。
「ある。」
「なになに? 何がきっかけ?」
吉川が身を乗り出してきた。
彼はこの手の話、つまり恋愛関係が大好きなのだ。
「奥さんのお誕生日にさ。」
「うんうん。」
「花束、買ってたこと。」
「え、花?」
「うん。」
「いや、それは、奥さんに?」
「うん。」
「え、相田にじゃなく?」
「うん。」
「いや、意味わかんない。」
吉川が露骨に肩を落としてガッカリする。彼の仕草はいちいち大袈裟だ。
「違うの、違うの。なんか…そういう、大事にしてる感がね? こう、好きな人を大事にしてるーって感じがさ。あーいいなあ、こういう人に愛されたいなあって、思っちゃったのよ。」
私はソイラテの入ったカップをひとくちすすった。
吉川が、うーんと目をつぶってうなる。
ハンサムは、目を閉じていてもハンサムだ。
彼は、今日はロイヤルブルーのハイネックのセーターを着ている。首と袖に太いリブが入っていて、とてもかっこいい。
「それは、わからないでも、ない。」
「でしょ!?」
思わず吉川の胸のあたりを指さしてしまった。
私は今日はチャイナレッドのボトルネックセーターに、ダークグレーのジレを重ねている。同じくダークグレーのワイドパンツに、足元はローファーを合わせた。
首元に添わせた太い金のチェーンネックレスが、前のめりになった瞬間、カチャリと音を鳴らす。
こんな時でもおしゃれはしていたいものだ。
「例えば、なんだけど。」
「うん。」
「橘さんがフリーだったら、今頃、相田と付き合ってると思う。」
「うわー! 聞きたくない! むなしい!」
「だって、2人とも平和を愛する人間の感じするし、年は同じだし、よくチーム組まされるし相性いいような。」
「やめてー! まじむなしい!」
「ごめん、ごめん。」
こうして、私たちは消化不良を少しずつ笑い話に変えていく。
日常のひとコマとして送り出せるよう、胸の中に留めないよう、努力していく。
「こちら、Aサンドのお客様。」
「あ、はい、私ですー。」
「俺、ベーグルです。」
カトラリーが楽しそうな音を立てて配られる。
サンドイッチの周りには、オレンジ、緑、紫、黄色の野菜たちが美しく盛られている。
「相田さあ。」
「うん?」
「『本気』になっちゃ、ダメだよ。」
「うん。そだね、ありがとね。」
私たちはそれから、全く別の話をわざとした。
私が私の気持ちを、私の日常に、落とし込んで行けるように、私たちは努力した。
でも、頑張っても、ほんのちょっとの歪みが残り続ける時はある。
吉川と分かれた後も、私は橘さんのことが頭から離れなかった。
ーやっぱり、好き。
小雨の降る日だった。
午前休をもらって病院に行っていた私は、熱でボーッとしながらバスを待っていた。
休むにしても、どうしても出社してその日じゅうに引き継ぎしなければいけない案件があった。
道路の向こうに小さな花屋があった。
橘さんが店先から出てきた。
小さめの、淡いピンクの花束を持っていた…。
ーあれ、秋桜、だっけ。
ーそういえば、今日、橘さん早引きするって言ってたな。
ーなんだっけ? 奥さんと…お約束があるとか…?
ボンヤリとした頭で出勤表を思い出す。
橘さんは傘を差さずに小走りで、そのまま入院病棟へ向かった。
奥さんが長く入院していると私が知ったのは、その日よりずっと後だった。
その日は奥さんの誕生日で、病室で2人はささやかなお祝いをしたらしい。人づてに聞いた。
大事にされたいという気持ちは、いつまで経っても頑固に全身に根付いているものだ。
私は奥さんを心底羨ましいと思ったし、雨に濡れるのも厭わず花を買っていった橘さんを魅力的だと感じた。
クレームがあっても、理不尽に上司から怒られても、笑顔を絶やさず冗談言ってる橘さんが、真剣な顔してるのを初めて見た。
「落ちた」瞬間だったと思う。
恋ではなく、もっと湿り気のある、ずっしりとした想いにはまった瞬間だったと思う。
ー…かっこいいじゃん。
ー全く好みじゃないけど。
その時の「いいな。」が忘れられなくて…
忘れたくても、忘れられなくて…
今に至っている。
そういう場合は、いつの間にか『本気』になってたんだと、認めるしかないんじゃないか。
「潔く。」
と、呟いてみる。
今日も空は晴れて、高く青く広がっている。
日に日に吐く息が冷たく、白っぽくなっている気がする。
季節が移り変わろうとしているのを肌で感じる。
たまには自分自身に花を買うのもいいかもね、なんて考えながら、私は薄いコートの裾をはためかせ、小道を歩いた。
秋の木の葉がカサカサと足元ではしゃぐように鳴った。