05
「この場所までお願いします」
渡したメモを運転手がじっと見つめる。しばらく反応がなかったので、言葉が通じていないのかと思って、今度はスマートデバイスの翻訳アプリを通じて同じことを伝えた。
すると、メモを俺に返しながら運転手が聞いてきた。
「お客さん、どこから来たんだい?」
「地球です」
「ほぉ、それは珍しい」
前を向いて、運転手がようやく車を出発させる。ホッとしてシートに背中を預けた時、運転手がぼそっと呟いた。
「ま、この星に異星人が来ること自体、珍しいんだけどね」
デバイスが拾った小さな声に、俺は苦笑した。
水と森の惑星。この星はそう呼ばれている。それだけ聞くと、豊かな自然を求めて観光客が押し寄せるのではないかと思われがちだが、それはない。では、この星の文明レベルが観光客を呼べないほど低いのかと言えば、それも違う。
この星が異星間交流を始めたのは、今から二百年以上も前だ。科学レベルは地球以上で、当然人々の知能も高い。施設は整っているし、町並みもきれいで治安も良い。
にも関わらず、この星を異星人が訪れない理由はただ一つ。それは、この星の人間が、非常に特殊な能力を持っているからだった。
精神操作。
それが、この”アユール星”の人たちの固有能力だ。
アユール星人同士であれば、それは説得力、あるいは魅力という言葉に置き換えられる程度のもの。しかし、耐性のない異星人に対しては、強力な催眠術や暗示とも呼べる力を発揮する。自分の思い通りに相手を動かしたり、思い通りの景色を見せたりできるのだ。
だが、アユール星人がその能力を使って不当な利益を得たことはなかった。自分たちの能力の特異性を知った時から、アユール星人はとても慎重に異星間交流を行ってきたのだ。
それでも、そんな能力の持ち主に近付きたくないと思うのは仕方のないことなのだろう。アユール星人は、他の星の人々から敬遠されている存在なのだった。
その能力を、アトリーも当然持っていた。その力を使って、アトリーは、本当とは違う自分の姿を俺に見せていたのだ。
俺が放った不用意な言葉。
「アジュール星の方ですか?」
これがすべての始まりだった。
ほとんど見ることなく捨ててしまったアトリーの資料。覚えていたのは、名前と出身の星だけ。そう思っていたのだが、俺はとてつもなく愚かな思い違いをしていた。
アトリーの生まれ故郷は、アジュール星ではなく、アユール星だったのだ。
唯一会ったことのある異星人がアジュール星人だったこともあって、完全に思い込んでしまった。
アジュール星人なら、留学生の受け入れ先はいくらでもある。だが、アユール星人となると話は別だ。友人が困っていたのも頷ける。
だから、アトリーは俺に力を使ったのだ。
アトリーは、毎朝リビングで俺が起きてくるのを待っていた。
「おはようございます」
真っ直ぐな視線ときれいな声。それは朝の挨拶。それは、暗示の効果を維持するための儀式。
揺れる車の中で、俺はデバイスをタップしてあの写真を開く。
ターコイズグリーンの豊かな髪と、長いまつげに彩られたディープグリーンの瞳。顔の輪郭と体のライン。それらは記憶の中のアトリーと同じだ。
だが。
その肌は、真っ白ではなかった。
その肌は、少しくすんだ緑色だった。
その唇は、ふっくらとした桜色ではなかった。
その唇は、少し厚ぼったくて青みがかっていた。
それだけでまったく別人に見える。
アトリーではない誰か。
アユール人の力は、写真などの間接的に見る画像には効果が及びにくい。それを知っていたから、アトリーは写真を拒み続けた。
それなのに、アトリーは最後に写真を撮った。短いメッセージとともにそれを送ってきた。
写真のアトリーは笑っていた。とても寂しそうに笑っていた。
「ごめんなさいって、それ、俺のセリフだよ」
デバイスも拾えないほど小さな声で俺が呟く。
「俺って、ほんと最低だよな」
俺は強く唇を噛んだ。
その時。
「着きましたよ」
運転手の声で俺は顔を上げる。
「この路地を入った右側がご指定の場所です」
「ありがとう」
料金を払って俺は車を降りた。
路地を入った右側。鮮やかな緑の生け垣に囲まれた、白い壁の集合住宅。部屋の窓辺は、住む人の個性を表しているかのような色とりどりの鉢植えで飾られていて、訪問者の目を楽しませてくれている。
何となく”らしいな”と思いながら、俺は敷地に足を踏み入れた。
建物入り口の扉は、両側に大きく開かれていた。入り口をくぐった俺は、エントランスの奥にある大きなドアの前に立つ。地球でもよく見るオートロック式で、横に呼び出し用のパネルがあった。
部屋番号は分かっている。パネルの操作方法も問題ない。
だが、俺はパネルを見つめたまま動けなくなってしまった。
この期に及んで、俺は怖じ気づいていた。
あれから半年も経っているのだ。しかも、アポなんて取っていない。
最初に何を話せばいい?
もし留守だったらどうする?
もし、ここに住んでいなかったらどうする?
会話のシミュレーションは済んでいる。鏡に向かって練習もしてきた。
留守だったら出直せばよいとも思っていた。引っ越していたら、写真を頼りに何としてでも探し出すと決めてきた。
何度も考え、何度も決断しては挫ける。それでもやっぱり諦められず、考えてはまた決断する。そんなことを繰り返して、ようやく俺はここに立っているのだ。
俺は深呼吸をした。
もう一度深呼吸をした。
俺がパネルに指を伸ばす。
ごくりと唾を飲み込んで、最初の数字を押す。
直後。
「どうして……?」
突然真後ろから声がした。
俺の肩が跳ね上がる。
振り返らなくても分かった。その声を忘れるはずがなかった。
「元気、だったか?」
シミュレーションにない事態に混乱した俺は、間抜けな返事をしながらゆっくりと振り返る。
ターコイズグリーンの髪が風に揺れていた。
ディープグリーンの瞳が大きく開いていた。
青みがかったその唇は、小さく震えているように見えた。
「急にごめん。えっと、今日は祝日だって聞いたんだけど、合ってるかな?」
「そう、ですね」
「そっか。じゃあ、今日はきみも休み、なのかな?」
「はい、休みです」
「そっか、よかった」
我ながら情けないほど意味のない会話だ。
「あの、どうしてここが?」
「えっと、宇宙省の友達に、無理矢理教えてもらったんだ」
「そう、ですか」
彼女が戸惑っているのが分かる。
その戸惑いに、俺が追い打ちを掛けた。
「じつは俺、会社を辞めたんだ」
「え?」
「しばらくこの星にいようかな、なんて思ってる」
彼女の目がまん丸くなる。戸惑いを通り越えて混乱しているのが分かった。
会話の流れも順番もあったものではない。すべてのシナリオが崩れ、俺の思考回路は彼女以上に混乱していた。
その思考回路が、やけくそ気味に結論を出す。
今こそここに来た目的を果たす時だと思った俺は、鞄を置いて姿勢を正した。
「じつは、ずっと言わなきゃいけないって思ってたことがあるんだ」
彼女を正面から見据えて腹に力を込める。
そして。
「すまなかった!」
俺は思い切り頭を下げた。
「俺は、君の出身の星を間違えていた。そのことで、君にものすごく迷惑を掛けた。ものすごくイヤな思いをさせてしまった。本当にすまなかった!」
写真を見た後は混乱した。パニック状態で友人に電話をした俺は、呆れたような友人の言葉で自分の愚かさを知った。
部屋に残された鉢植えを眺めながら、俺は考えた。考えて、考えて、半年間考え続けて、俺は結論を出したのだ。
だから俺はここに来た。
俺は、彼女に謝るためにここに来たのだ。
両手を体の横にビタッと固定し、目を閉じたまま、俺は頭を下げ続けた。
「それを言いに、この星まで来たのですか?」
「そうだ」
そのままの姿勢で答える。
「会社を辞めてまで、わざわざ?」
「そうだ」
きつく目を閉じたまま答える。
彼女の問い掛けはそこで止まった。と思ったら、間を空けて問いは続いた。
「あの時買った鉢植えは、どうなりましたか?」
ここで鉢植えの話が出てくるとは思わなかったが、俺は素直に答える。
「ちゃんと世話をした。いくつかの鉢は、植え替えもした」
「その子たち、今は?」
「ここに来る前に、花屋に引き取ってもらった」
「そう、ですか」
それきり彼女は黙ってしまった。
そろそろ体勢がきつくなってきた。それでも俺は、じっと我慢で頭を下げ続ける。
長い沈黙の、のち。
「もし、私があなたのことを許したとして、その後あなたはどうするつもりなのですか?」
「その後?」
思い掛けない問いに、俺は顔を上げて姿勢を戻す。
彼女が俺を見ていた。そのあまりの真剣な眼差しに、俺はたじろいだ。
この答えは間違えてはいけない気がする。だが、何が正解なのかさっぱり分からない。
幸いにも、この時俺は、まだやけくそモードだった。だから、勢いに任せて言った。
「もしもきみが許してくれるなら」
彼女に負けないくらい真剣な目で伝えた。
「改めて、俺と友達になってください!」
彼女が目を丸くする。
口がポカンと開く。
そのまましばらく動かなかった彼女は……。
「ふふ、ふふふ」
突然、口に手を当てて笑い出した。
意表を突く反応を見て、俺は不安になる。
呆れられたのか、それともバカだと思われたのか。いずれにしても、あまり肯定的な反応ではない気がする。
視線を落とす俺の前で、いい加減笑った後、彼女が言った。
「本当にあなたは、おかしな人ですね」
見れば、その顔はなぜか楽しそうだ。
「とりあえず、私の部屋に行きましょう。地球から持ってきた、とっておきの日本茶を淹れて差し上げます」
「それは、その、許してくれるってことで、いいのか?」
「そうです」
はっきりと彼女が答えた。
「あなたは思い違いをしていた。私はあなたを騙していた。お互い様です。私もお詫びします」
彼女が頭を下げる。
「いや、きみは全然悪くなんて……」
「はい、この話はもう終わりです。さあ、行きましょう」
「わ、分かった」
どうやらこの星に来た目的は達成できたらしい。許してもらえたことに、俺は心の底からホッとした。
途端に俺は冷静になる。
「だけど、女性の部屋に上がるっていうのはちょっと……」
「今さら何を言っているんですか。六ヶ月も一緒に暮らしておいて」
「それはそうだけど」
躊躇う俺を横目に、彼女がパネルにカードキーをタッチした。
開いたドアをくぐって彼女が振り向く。
「どうぞ」
俺を内側に迎え入れると、彼女はエレベータへと向かった。その足取りが、気のせいか、少し弾んでいるように見える。
そんなはずはないし、仮にそうだったとしても、それは俺とは関係ない別の理由があるはずだ。
自分に都合のいいように考えてはいけない。
勝手な思い込みで、彼女にイヤな思いをさせてはいけない。
鞄を強く握り直して、俺は気合いを入れる。
ここからやり直すんだ
そして、いつか彼女に……
「早くして下さい。私の荷物も重いんですから」
「あ、ごめん」
エレベータの扉を押さえる彼女に向かって、俺は慌てて歩いて行く。
上昇を始めたエレベータの中で、彼女が聞いた。
「ところで、今夜泊まるところは決まっているんですか?」
「いや、まだだけど……」
「じゃあ、うちに泊まっていきます?」
「えっ?」
「冗談です」
彼女がいたずらっぽく笑う。
その顔がどうしても嬉しそうに見えてしまうのは、やっぱり都合よく考えすぎなのだろうか。
留学生は嘘をつく 完