没落2
その話の内容に、体の震えが止まらなくなったガレベーラは我が身を両手できつく抱いた。
抱く手も自分のものしかなく、その手で抱きしめるものも我が身しかない。
「……わたくしが……北の辺境へ嫁ぐ……?」
「辺境伯辺りに姫さんが高値で売れたんだろうさ」
「確かに、お義母様は支度金がとおっしゃっていた……」
「奥様にしてみりゃ金は入るわ、姫さんは厄介払いもできるわでメデタシメデタシだぁな。ま、北はひどく荒れた地だけど、見る限りここにいるよりゃマシかもしんねぇよ? 領主もトシだからそのうちぽっくり逝きなさりゃあ、いい目見られる日がくるだろうよ。これも人生さぁ」
「ねぇ……北まではどのくらいかかるの?」
「七日もありゃあ着くだろ。ちょっとばかし長い旅だが、それまではわしと仲良くしとくんなせえ、お姫様」
御者は下品な笑いを浮かべてガレベーラを振り返った。
恐怖と絶望で再び涙が溢れ出る。
ガレベーラは右に左に揺れる不安定な板の上を這うようにして、御者から離れた。
荷台の縁から見ると、すぐそこにガラガラと過ぎて行く地面が見える。
御者の話はともかく、北の地に連れていかれることだけは間違いないようだった。
膝をかかえて、そこに額を押し付けた。
「なぜこんなことに……? ああ、グウィディウス、どうすればいいの」
外出するような恰好ではない。なにより侍女もつけず、どこに行くかもわからないのにトランクの一つもない。
荷台にはいくつかの木箱や麻袋が積まれているだけだ。
ガレベーラは必死に落ち着こうとした。
この先、たとえ北に嫁ぐことになったとしても、とにかく今の状況を知りたい。
アルディウスに会いに王城に行けば、全ての事情はわからないまでも、助けてはもらえるだろう。
再び、路面の凸凹に揺られながら這って行き、前方の御者に尋ねた。
「……あの、北に行く前にお城に寄ってもらえないかしら」
「はあ? 無理に決まってら! 奥様からけして寄り道するんじゃないってこちとらきつーく言われてんだ! 北まで寝ずに走れなんて無茶まで言いやがる。大金もらう前に俺も馬も死んじまうって話だ!」
そして、御者は鼻で笑ってから、
「だいたい、この馬車で行ってお城の御門が開くとでも?」
自分で言って自分でガハガハと笑っているのを、ガレベーラは胸の潰れる傷みを感じてぎゅっと目を閉じた。
北はどのようなところなのだろう。
幸せとは言わないまでも、心穏やかに暮らすことくらいはできるだろうか。
いつか、帰国したグウィディウスが迎えに来てくれたとしても、その時にはもう遅い。
優しい笑顔が脳裏に浮かんで、胸が張り裂けそうになる。
『ガレは本当におてんばが過ぎるよ』
グウィディウスは、よく困った顔で笑ってそう言った。
ガレベーラは唇を噛んで、顔を上げる。ドレスのスカートで涙を拭いた。
まだ震えている手を、もう片方の手で包み込むように握りしめる。
そろりと御者台を窺って、辻で馬車がいったん止まった隙を狙ってそこから飛び降りた。
実際には転がり落ちたと言った方が正しい。
「ッ……!」
身一つとはいえ、そこそこの高さがあったので体への衝撃は大きかったが、不思議と痛みは感じなかった。
逃げるところを人に見られて御者の男に知らされるとも限らない。
声を押し殺し、痛みに耐えながら、なんとか立ち上がると急いで路肩の人込みに紛れ込む。
空になった馬車が、ガレベーラの逃亡に気づかないまま遠ざかっていくのを、息をひそめて見送る。
そこでようやく体の痛みと震えがガレベーラを襲う。
「いたい……」
日の暮れた街中に立つことなど、人生で初めての事だった。
ガレベーラは恐ろしくもあり、恥ずかしくもあって下を向いた。
髪も結わず、傘も帽子もかぶらず出歩くなんて。
肩掛けも、首巻もなく、頼れる人もいない。御者の男すら、もういなくなった。
しかし、恐怖を天秤にかけた結果だ。
北へ行ってしまえば、簡単には帰ってこられない。
「どうしよう……」
貴族でも歩いていれば助けを求めようと思ったが、夕暮れの街は労働階級の人ばかりだった。
家に戻っても、先ほどの剣幕では迎え入れてもらうのは難しいだろう。
いきなり王城を訪ねても通してもらえないそうだから、まずアルディウスに手紙を出して、迎えを寄こしてもらえばいい。
とにかく、どこか落ち着いた場所で、よく知る誰かに話を聞いてもらいたい。
しかし、常に馬車で出かけ、次に停まったときには目的の場所にいることが当たり前だったガレベーラに、友人の屋敷の場所などわかるものではない。
遠いのか、近いのか、今いる場所さえわからない。
「あの、失礼。少しお尋ねしますが……」
勇気を出して道行く人に声をかけ、ようやく耳を傾けてもらえたのは何人目かのことだった。
いくつかの貴族の名前を挙げて、一番近い屋敷への道順を教えてもらう。
どうにか見覚えのある屋敷にたどり着き、門番の男性に声をかける。
「あの、ごきげんよう……。私はガレベーラ・カトルと申します。こんな夜分に、突然に失礼とは承知で、ローズ様にお会いしたいのですが」
門番は不審な目でガレベーラをじろじろと見てから、少し待つように言われ、しばらく門の外で待たされた。
屋敷の中で待たせてくれるだろうと思っていたのに、そうではないようだ。
やがて戻ってきた門番は、
「明日、お越し頂きたいとのことですが」
「あ、明日では遅いのです……、今お会いしたいのです!」
「そうは申されましてもなぁ、なんせこんな時間ですから」
「ではせめて紙とペンを貸していただけませんか。お手紙を……」
「書くのは構いませんが、ローズお嬢様にお渡しするのは、どのみち明日にりますよ?」
予想していなかった対応に、ガレベーラは藁にも縋る思いで、次の友人の屋敷を尋ねた。
「あの、お助けいただきたいのですが」
その屋敷でも、執事と同じ問答だった。
「ご友人でいらっしゃいますか。では、明日お改め下さいますでしょうか。よろしければ馬車でお屋敷までお送りしましょう」
そのとき、屋敷の窓に人影が見える。
逆光でそれが誰だかわからなかったが、カーテンに隠れるような影は、友人の令嬢がガレベーラの様子を見ていたのかもしれなかったが、どうぞ中へと言われることはついぞなかった。
次に訪ねたのはポピー嬢の屋敷だった。
「……旦那様がお許しになりませんでしたので、あいにくですが他をお当たり下さい」
バスケットを手渡された。
「お嬢様が御用意下さいました」
ナプキンをめくるとクッキーが美しく並べられていた。
親愛なるガレベーラ様へと書かれたカードまで入っている。
薄いピンクの可憐なリボンが結われている。
こみ上げてきた涙を必死に堪えながら屋敷を辞すと、途方に暮れてまた歩き出した。
*
どのくらい歩いただろうか、孤児院の院長は扉を叩いたガレベーラを見て驚きの声を上げた。
「どうなさったのですか……!」
「……急なことで申し訳ないのだけれどお願いがあるのです。一晩、泊めていただけないでしょうか」
髪は乱れ、がくがくと震えるガレベーラのただならぬ様子は一目見てわかるものだったのか、
「まあまあ……、そんなお姿では寒かったでしょう」
そう言って、中へ誘ってくれる。
ほんのり暖かい建物の中の空気に触れて、ガレベーラは声を上げて泣きたくなった。
しかし、泣いてはいけない。ここには子どもたちがいる。ガレベーラが泣くわけにはいかない。
「……あの、みんなの食事はもう済んだ? デザートにクッキーがあるのよ」
「いえ、ちょうどこれからでして。ようございました。もう少し遅ければガレベーラ様の分がなくなってしまうところでしたわ」
「ありがとう。みんなと一緒に頂いてもかまわない?」
院長は困ったように微笑んだ。
その、困惑の意味を知ったのは食卓を見て知る。
子どもたちは、ガレベーラの意外な訪問に興奮した様子だったが、その食事の内容を目の当たりにし、ガレベーラは言葉を失った。
いくら子どもの食事とはいえ、パンは半分、チーズが一欠片と、お飾り程度の具しかないスープ。
ガレベーラも同じものが並べられた。
ひどく空腹だったが、空腹など感じている場合ではなかった。
「ご寝所にはこちらの部屋をお使い下さいませ」
個室に案内されるも、急ごしらえとわかる。
「みんなと同じでもいいのだけれど、それだと迷惑がかかるのかしら……」
ガレベーラが尋ねると、
「申し訳ございませんが、子どもたちに一人一つのベッドはないのです。みな、床で寝ておりますので、さすがにガレベーラ様をそちらにお通しするのは……」
「食事も……ごめんなさい。私が頂いたせいで院長は食べてないのではなくて? 教会にお願いした方がよかったわね……」
「いえ、大した差はございませんでしょうが、こちらは子どもだけですので、ガレベーラ様の御身を考えれば、まだこちらの方が望ましいといえるかと」