27. 僕の体は覚えてる
翌日
重い指で教室のドアを開けると、彼女は既に神谷さんと楽しそうにお喋りに興じていた。1度眼を逸らし、呼吸を整える。
「お。若松おはよう。もう大丈夫なの?」
先に気付いたのは神谷さんだった。
「おはよう。もう大丈夫だよ」
自然に、自然に。僕は柄にもなく明るく笑って、彼女へと視線を移した。
「……?」
僕に気付いているハズなのに、目が合わない。神谷さんと話していた時はいつも通りだったのに。彼女は見たことのない硬い表情で、目を伏せていた。
「……おはよ、若。よかった、元気そうで」
張りの無い声とようやくこちらを向いたぎこちない視線。つられて、こちらまで硬くなる。
「う、うん……昨日はありがとう、ついててくれて」
「いや、あたしは何も」
会話が続かない。間に挟まれた神谷さんも、怪訝な表情だ。
「あ、あたしちょっと手洗ってくるね」
「あ、うん。いってらっしゃい」
このとき、背中を追いかけなければよかった。
何も覚えていなかった僕の眼は、馬鹿正直にその後を追いかけて
ご丁寧に、(昨日)を呼び出した。この背中には、見覚えがある。
昨日の、僕が意識を失っている間の、知るはずのない記憶。
「お、れ……?」
慣れない1人称が、異物のように口の中で転がる。
そもそも、(僕)の体で経験したことなのだから、思い出すのは容易い。
(僕)の記憶が飛んでいたこと。
その間、保健室で起こったこと。
そして彼女の今の態度の理由も、全てが、押し寄せた。背中を冷たい汗が伝う。
「若松、大丈夫?顔色悪いわよ」
「大、丈夫」
「でも、しんどそうじゃない。まだ本調子じゃないなら……」
「ごめん神谷さん。今は、放っておいて」
今まで、こんなことなかった。脳の処理が追いつかない。朝一番の授業が何だったかさえ、分からなくなっていた。とりあえず、自分の机に鞄を置いて、ふらつく体をなんとか席に着けた。僕は1人になりたくて、両手で周りを遮断した空間に逃げ込んだ。
どうか、少しだけ時間を下さい。今起こっていることと向き合う時間を。
僕は簡易的な暗闇の中で、祈るように目をつぶった。
昨日の放課後、保健室で。
「やるじゃねぇか、嬢ちゃん」
そう言った(僕)は、逃がさないように彼女の腕を握る手に力を込めた。
「っ、放して!」
彼女が、おびえたように身を起こす。今すぐ離せと願っても、記憶の中ではどうしようもない。記憶の中の僕は放すことなく話を続ける。
「嬢ちゃん、落ち着きな。何も、とって食ったりしねぇよ。あんたは、コイツのことをどこまで知っている?」
「どこまで……?」
どこまで。それは、途中までがある場合の言葉だ。
「何も、知らない」
そう、彼女は何も知らない。知りようがない。
「ほぅ?何も、ときたか。ここがどこだか知らねぇが、2人になるくらい仲がいいんじゃねぇのかい」
「仲は、いいと思ってた。でも、あたし若のこと、何も知らない。今何が起来てるのかも、さっきみたいな笑い方をすることも」
「……教えてやろうか」
記憶の中でも、(僕)がどんな顔をしているのか分かる。この状況を楽しんでいる表情だ。
やめてよ。何も言わないで。今まで、僕がどれだけ必死で隠してきたと思ってるの。
自分の記憶の上映会は無情に進み、彼女は戸惑いを顔に浮かべた。
「嬢ちゃん、選びな。全てをキレイに忘れて大人しくこの場を去るか、コイツの秘め事を聞いて一生誰にも話さない覚悟を決めるか」
「若の、秘密?」
「あぁ、コイツの秘め事は1度知ったらもう後には退けねぇ。」
僕と同じ悩みを持っていた(その人)は、試すように彼女を見上げた。
「嬢ちゃんは、コイツのことを信じられるかい?」
「——信じるよ」
戸惑いは、一瞬だった。彼女は真っ直ぐに(僕)を見据えていた。覚悟がないのは、僕だけらしい。そんな僕を置き去りに、(僕)は口を開き、全てを語り始めたのだった。




