17.バケツ男の自己嫌悪、そして退場
いつもより喉が渇いていたのも
持って来ていた水筒が空になったのも
そのために追加で飲み物を買いに来たのも
突然、すごい力で後ろから腕を引かれたのも
元はと言えば全て、午前の体育のせいだ。
僕はただ飲み物を選んでいただけなのに。
「ちょっ!ちょっとあんた!助けて!」
切羽詰まった顔で、渡部君は僕の腕をつかんだ。
「ど、どうしたの?」
「三木さんが!あれは、ヤバイ!オレっ、どうしたら……ッ」
「……えーと、渡部君。一旦落ち着いて」
断片だけで、嫌な予感しかしない。忠の名前を、できることなら彼の口からききたくなかった。
「あっ、えと、とにかく!三木さんがキレたんだよ!よく分からねぇけど、殴られてから別人みたいになってっ、それで……!」
「……成程」
さようなら、僕の平穏な昼休み。授業が始まるまでに、帰ってきてくれたらいいな。
「場所は?」
「ぶ,部室棟の裏。オレが呼び出されて、何でか三木さんがきて……」
僕は1度だけ頷いて、ポケットから携帯を取り出した。目当ての番号は、履歴の一番上にある。忠のところに向かう前に、1つ手を打っておく必要があった。
『もしもし、叶?どうしたの?』
「あぁ、吹雪。急にごめんね。……奴がキレた」
僕が心の中でついたため息が、2倍になって電話口から聞こえる。
『何やってるんだか……場所は』
「部室棟の裏手らしい。渡部君が絡まれちゃったらしくてね」
『いつものやつでいいのね?』
「うん、お願い。時間稼ぎはやっとくからさ」
通話を終えると、渡部君は苛立ったように靴底を鳴らしていた。
「何やってんだよ、早くいかねぇと!」
「いやぁ、忠は一旦キレると手が付けられないから。負けることはないだろうし大丈夫だよ。止めに行く前に、手を打っておかないとね」
「ハナからあの人の心配はしてねぇよ。やりすぎねぇか心配なんだよ」
「……そうですね」
正直、今すぐにでも帰りたいのだけど、そうもいかない。
僕は渡部君に急かされつつ部室棟へと向かった。
「あっ!あれだ!」
倒れる2つの影と、その前で仁王立ちになっている殺気の塊が1つ。
「ハァ……たーだひーらさーん!何やってんのさ……」
刺すような視線だけが、こちらを振り返る。後ろで、渡部君が体を強張らせるのが伝わってきた。
「渡部……?何で叶を連れてきた」
「あっ、だ、だって……」
「はいはい、威嚇しないの。落ち着きな」
勿論、こんな言葉でこのおバカが鎮まればさっきの電話はいらない。
忠は普段大人ぶっている分、一度爆発するとなかなかコントロールできないのだ。
「邪魔するな。渡部を連れてどっ.かいってろ」
「まぁそう言わないでよ。渡部君だって心配して僕を呼んでくれたんだから」
会話を止めてはいけない。僕の目的は、時間稼ぎなのだから。
「というか、2人とも戦意喪失してるじゃん。解放してあげれば?」
そうは言っても、ライオンに咥えた獲物を放せと諭しても、素直に放すはずもない。
「ふざけるな。俺の気がまだ済んでいない」
「やりすぎ。それ以上やると庇えなくなるよ。その辺にしときなって」
「うるさい。邪魔するならお前でも容赦しないぞ」
忠の標的が、2人から僕へと移る。成功だ。
「やだなぁ、僕は忠のために言ってるのに」
タイミングを見計らって、さりげなく1歩足を退く。
それと同時に、コントでよくある金ダライのような鈍い音が鼓膜を揺らした。
忠の周りにだけ雨が降ったかのように、水溜りが広がる。
「そこ.までよ。頭冷やしなさいこのおバカ」
10㎝以上身長が違うのに、吹雪は器用に水を入れていたバケツを忠の頭にスッポリと被せていた。
「ナイスタイミング、吹雪」
吹雪の向こうで、忠にやられていた2人が、呆気にとられたようにバケツを見上げている。
おそらく、僕の後ろにいる渡部君も同じだろう。
「えっ、ちょっ、大丈夫なのかよ、アレ」
「大丈夫だよ。ちょっと頭冷やさないとね」
僕らにとっては、見慣れた光景だ。
「(頭冷やす)ってあんな直接的な方法じゃなかったと思うんだけど!?」
そうはいっても、これが存外効果的なのだ。その証拠に、
「……俺、またやりすぎたか……?」
バケツを大人しく被ったまま、忠はようやく生気のない声をあげた。
「少しは落ち着いた?」
「あ、あぁ……すまん、俺……」
「渡部君が僕を呼んでくれたんだよ。それで、僕が吹雪に連絡したってわけ。後はいつも通り、僕が注意を引いて吹雪が水をかけた」
これが、忠がキレたときの1つのマニュアルだ。大抵はこれで大人しくなる。
「いつも通りって……こんなことがよくあんのかよ」
「!あぁ、そんなことないよ!多くて年に1回くらいだから大丈夫」
「全然何も大丈夫じゃねぇよ……」
渡部君の言葉が刺さったように、バケツ男は膝を折ってその場に座り込んだ。後輩の言葉だから、余計にこたえたのだろう。
「これでも、我慢してる方なんだ……っ!」
「昔に比べたらね。(正当防衛になるように、手を出すのは相手が先に手を出してきてからね)って躾けたからね」
「その躾の方向が間違ってたかもとか考えねぇの?」
渡部君の責めるような視線は、忠ではなく僕に向けられている。僕は気づかないふりをしてバケツ男の傍にしゃがみ込んだ。
「とりあえず、忠はジャージに着替えておいでよ。風邪ひくよ」
「あぁ、そうさせてもらう……」
バケツでこもっているとはいえ、忠の声は明らかに沈みきっていた、
生真面目すぎて、キレたあとは自己嫌悪でしばらく立ち直れないのがこの男だ。
「おっと……」
ゆっくりと立ち上がったバケツ頭が、グラリと揺れる。
「……吹雪、悪いけどこのバケツについててやって。1人で歩かせるの不安だコレ」
「仕方ないわね、行くわよ。……叶、あとはお願いね」
「え、ちょ、バケツとればいいんじゃねぇの?」
渡部君の至極もっともな指摘に苦笑しつつ、吹雪はバケツから伸びた手をひいて校舎へと向かった。吹雪のほうも、こういった時の対処はお手の物だ。任せていいだろう。
「忠は元が真面目だからね。今頃自己嫌悪でとてもじゃないけど顔を出せるような状態じゃないんだよバケツは見逃してあげて」
「それでいいのかよ……」
「しばらくすれば落ち着くから。吹雪に任せよう」
それより、僕は今この場を何とかしなければならない。
「さて、2人は大丈夫かな?」
倒れたまま呆けていた2人に歩み寄ると、2人は揃って怯えた表情を見せた。
2人をここまでしたのは忠なのに、どうして僕が怯えられているのか。少々納得がいかない。
「ごめんね、うちの馬鹿は手加減が下手なもんで」
「何なんだよアイツ!ぜってー許さねぇっ!」
ここまでやられておいて、よくそんな台詞が言えたものだ。1周回って変に感心しつつ、僕は2人の前にしゃがみ込んだ。
「許さない、かぁ」
「喧嘩をしてこんなに怪我をさせたのがばれたら、受験は終わりだろうな!いい気味だぜ!」
「そうかもね。でも、先に手を出したのは君たちだよね?」
バケツを被る直前に見た忠の頬は少しだけ赤くなっていた。僕の言いつけを守ってくれたのだろう。
「だ、だからって許されると……」
「そこにいる渡部君が絡まれてるのを、忠が見つけて助けに入った。その時に殴られたからやむおえず応戦した。……でしょ?」
「フンッ!そんな話、証拠がねぇだろ!こっちは実際に怪我してるんだ」
「そうだねぇ。でも、こっちには(証人)がいる」
僕の言いたいことを察したのか、相手はわずらわしそうに目を眇めた。
「君らの話と生徒会副会長の吹雪、皆はどっちを信じるかな」
例えこの子たちがどれだけ悪意のある話に仕立てても、吹雪の口から真実が語られればあっさりと崩れるだろう。
「……と、いうわけで、忠のことは穏便にしてくれると助かるなぁ。こっちも君らが渡部君に絡んでたこととか忠を殴ったことは不問にするからさ」
先に殴られたのは忠なのだから、これ以上譲ることも無い。
「チッ、行くぞ!やってらんねーよ!」
「なんだよ、お前がいい案があるっつーからついてきたのによぉ」
ぶつぶつと小競り合いをしながら、2人の小悪党は覚束ない足取りで校舎とは逆方向に消えていった。
「どっちが悪役だか分かったもんじゃねーな」
「ひどいな。僕は正論しか言ってないよ」
間違ったことは言っていないししていない。売られた喧嘩を丁重にクーリングオフしたまでだ。ようやく一息ついた僕を、渡部君はすっきりとしない顔で見上げていた。
「あんた、うさんくせぇと思ってたけどやっぱり性格悪いな」
「そんな風に思ってたの!?」
自分が聖人君子だとは思わないけど、正面からここまで言われるとさすがに傷つく。
「……でも、助かった。ありがとう、ございました」
「!……ふっ、どういたしまして」
とても不器用で、それでいてとても純粋な言葉。こういうところが、(あの娘)に似ている。
僕は不安を顔に出さないようにしながらも、不器用な彼と少しだけ仲良くなれたきになっていた。
残念ながら、ようやく近づいたその1歩はすぐに離れることになるなんて、僕らはまだ知る由もない。
後日
委員長「おいアレ何だよ!(キレたら面倒くさい)どころじゃねーじゃねーか!」
吹雪「何言ってるの。(私が)水用意したりフォローしたりで(面倒くさい)のよ」
委員長「」




