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両親が海外旅行で不在にしている間、クラスのちょっと気になってる女の子とひとつ屋根の下で一夜を明かすことになり、ムフフ♡な思い出を作っちゃうようです。

作者: quiet



 今年の梅雨はとにかく長い。

 何となく陰鬱な気持ちで、高岡蓮一は雨降る帰り道を歩いていた。夏休みももう間もなくだというのに一向に傘は手放せずいるし、学校の行きと帰りのそれぞれで靴と靴下がビショビショに濡れそぼる。ほとんど晴れ間も差さないような徹底的な雨日和が続いているから、そろそろ靴の方にはカビでも生えてくるんじゃないかという有様。これで気持ちが沈まないのはキノコ栽培が趣味の人間か半魚人くらいのものだと、そんな風に思いながら。


 脛のあたりに制服のスラックスが張り付く不快感。どうして人間は傘なんて不完全な雨具を一生使い続けているのか、と文明の無神経にまで思いを馳せずにはいられないのは、ふたつ前の曲がり角で友達とも別れて、もうすっかり考えごとくらいしかやることがないから。


 にゃあ、と声がした。


「ん?」


 それでふっと、高岡は靴の先から零れ落ちる雨水ばかりを見ていた目を上げた。

 どこかに、猫がいる。


 顔でも拝んでやろうか、という気持ちになった。これが小雨の日だったら濡れないうちに家に帰りたい、という気持ちが優先されただろうけれど、これだけ降りしきる夏の雨の中では、多少の寄り道くらいでは何も変わらない。この憂鬱な雨雲の下で、多少の喜びを見出そうとするのを誰に咎められることがあるだろう。声のした方は、いつもだったら曲がらない小路の先。


「げ」


 行ったら、思わず声が出た。


 確かにそこに、猫はいた。段ボールに突っ込まれて雨に打たれながら、いかにも寂しげに鳴く猫が。けれど、それ以上に目を引いたのは、その猫の前に立ち尽くしている見覚えのある人物。


 黒町忍。

 クラスメイトだった。


 ほとんど話したことはない。けれど、ものすごく気になってはいる。

 いい意味ではなく、悪い意味で。


 黒魔女。幽霊。ぼんやり高岡が知っているのはそのあたり。

 それが、黒町忍のあだ名。


 中学が同じだったやつらの話では、霊感があるらしい。

 馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、高岡はこれを半分くらいは本気にしている。だって、何か怪しい。


 休み時間はなんだかよくわからない文字と模様が書かれた、やたらに古臭くておどろおどろしい本を読んでいる。うねるような黒い前髪は目のあたりまですっかり隠してしまっていてどこを見ているのかわからないし、笑うときはフフフ、と口の端っこから息を洩らすように笑う。そのくらいなら可愛いもので、まだまだ変わったところはいっぱいある。


 学校の指定バッグの内側に魔法陣みたいな落書きをしているらしいとか。

 携帯の待ち受けがホラー映画のスプラッタなシーンらしいとか。

 真っ黒なローブを頭からすっぽり被って真夏の動物園で山羊と会話しているらしいとか。


 その手の噂には事欠かないし、あと、調理実習のときに家庭科室に出てきたゴキブリを素手で捕まえて窓から外に投げた。これは高岡もこの目で目撃した。正直、どの噂よりもこれが一番怖い。


 関わらんとこ。そう思った。

 猫の前で立ち止まるというのも、特に意外でもない。あの手のタイプは猫か爬虫類が好きということで相場は決まっている。向こうが自分の顔を覚えているとも思わないが、何にしろさっさとこの場を離れた方がいいには決まっていた。


 けれど踵を返す直前に、へえ、と感心するものを見た。


 黒町が屈みこんで、自分の傘を猫に差し出した。


 なんだ、と高岡は思う。案外、噂で聞くよりも悪いやつじゃないのかもしれない、と。そして一瞬躊躇った。あいつ、あのまま傘をあの場所に置いていくつもりなんだろうか。そうだとしたら間違いなく黒町は家に帰るまで、何も遮るものなくイキイキと降りしきる雨に打たれまくるわけで、体調に支障を来すレベルでずぶ濡れになることは目に見えている。


 ここで何もしないで立ち去ったら、俺ってちょっと嫌なやつなんじゃないか。


 そう思って少し迷ったから、その後に起こったことまでキッチリ目にすることになった。


 黒町が地面に立てかけた傘が、風でコロコロ転がった。黒町がそれを捕まえた。もう一度立てかけた。今度はさっきよりも強い風が吹いて、それをしゃがんだまま捕まえようとして、腕を伸ばして、バランスを崩して、べしゃり、と地面に倒れ込んだ。


 雨に濡れた地面に、べしゃっ、と。


「…………」


 何してんだ、と思う。

 そんな絵に描いたようなドジがあるかよ、と思う。


 思うけれど、目の前で起こったことは事実なので。


「――ああもうっ」


 仕方がない。誰だってこの場にいて、こんな光景を見たらそうするはずだ。そう信じて、高岡は倒れ込んだ黒町に駆け寄った。


「…………?」


 急に雨粒が当たらなくなったのを不思議に思ったのか、黒町が顔を上げる。高岡は彼女の頭上に傘を差し出して、まさか慌てて走ってきたなんてわからないように息を整えてから、こう言った。


「…………何してんの、お前」


 じっ、と黒町は見つめてきた。

 その見つめっぷりといったらなかった。いや、ぐしょぐしょに濡れてうねった髪のせいで少なくとも高岡の目には彼女の瞳すら映っていなかったのだけれど、気持ちとして。視線で穴が開くとしたら開くだろう、というくらいにじーっ、と見つめられて、う、と気圧されて後ろに一歩下がりかけたとき、


「たしか……」


 黒町が、口を開いた。


「高町くん……?」

「高岡だよっ。自分の名前と混じってんじゃねーか」


 案の定、向こうはこっちの名前も覚えてやしない。はぁ、と溜息を吐いて高岡はついさっき吹っ飛ばされていった黒町の傘を見る。まだそこまで遠くには行っていない。だから、手を差し伸べた。


「ん」

「…………?」

「手、貸してやるって言ってんだよ。いつまでも寝そべってないで起きろ。ほら」


 恐る恐る、というように黒町が高岡の手の上に自分の手を乗せる。そっと触れるようなやり方だったから、高岡は仕方なくその手をぎゅっと握って、勢いづけて助け起こした。


 全身どろどろ。


「……それ、制服クリーニングだな」


 思わず、そんな心配が口をついて出た。そうね、と黒町は素っ気なく頷くだけだったけれど。


 まさかこのまま一本の傘で家まで送っていくつもりはない。とりあえず黒町の傘を拾うか、と高岡が先に歩き出して、素直に黒町もそれについてくる。


 その瞬間、ものすごく雨が強くなった。


 夏の雨はとにかく勢いが強い。ずどどどど、と滝だか雹だかわからないような音を立てて雨が降りしきる。コンクリートの上に飛沫が広がって、あたり一面が真っ白になる。傘を握る手がずしりと重たくなって、思わず握り直そうとした瞬間にびゅう、と風が吹いて、黒町の傘が遠く彼方へ吹っ飛んでいった。


 遠く彼方へ吹っ飛んでいった。


「あら」

「んな――っ」


 思わず高岡は駆け出した。が、駆け出したのに合わせて傘を動かすとまた黒町が雨に晒されてしまう、という意識が働いて、身体は前に行こうとしているのに傘を持つ手だけは置いていこうとしている、そんな不思議な体勢になった。そのおかげで次に何が起こったのかと言うと、


 バキッ、と。


 高岡の傘が、へし折れた。


 こんな絵に描いたようなドジがあるかよ。

 そういうことを、高岡は思った。


 雨はどんどん降り注ぐ。信じられないことにまだ勢いを増している。もう黒町の傘はどこか目に見えないところまで転がって行ってしまった。残っているのはもうすっかり皮の剥げて骨の折れた無残なビニール傘が、一本だけ。


「…………なんだかごめんなさい、高岡くん」

「……いや……俺こそなんか、役立たずですまん……」


 そんなことを言ってる場合ではない。

 このままだと鞄の中の大して捲ってもいない新品同然の教科書が濡れに濡れてテスト勉強に多大なる悪影響を及ぼすことになるし、何なら雷だって鳴り始めた。というか降ってきた。ぴかっ、と光ってそれほど間を開けずにとんでもない轟音が響いたりしている。どこかで傘を調達したい。そうじゃなかったらせめてもう少しマシな降雨量になるまでどこか屋根のある場所に隠れていたい。


 同じことを黒町も思っていたらしく、


「雨宿り、しましょうか」

「つっても……」


 あたりを見回しても、屋根のある場所はない。去年、夏の日差しに焼かれながら登校していたときに思った。この辺りは日陰すら少ないし、こんな豪雨をやり過ごせるような場所はパッと思いつかない。


 にゃあ、ともう一度猫が鳴いた。


 そういやいたな、と思って視線を下げると、子猫は段ボールの外に出てきている。首についた鈴をチリンと鳴らすと、尻尾を振りながら、この雨だってものともしないような優雅な足取りでどこかへ歩いていく。


 ついてこい、と言っているように見えた。


「……まさかな」

「行きましょう」

「えっ」


 黒町が鈍くさい走り方で、その後を追い始めた。とんでもない思い切り。ひょっとすると自分と同じものを感じてそうしたのかもしれないけれど、あまりにも躊躇のない動きだった。


 だから、思わず追いかけた。

 どんどん深刻さを増す雨降り模様が、思考力を奪っていたのかもしれない。


 猫は、三回曲がり角を折れて走った。そしてもうすっかり身体が雨水で重たくなって、ようやく辿り着いた。


 雨宿りできる場所。


 建物の軒下に駆け込んで、はあ、と息を吐く。ついさっきまでの雨がどれだけ強く降っていたかわかる。物陰に入るだけで、肩が急に軽くなったように思えた。


「ひっでえ雨だな」

「ええ。本当に」


 しみじみ高岡は言ったけれど、黒町の声はとてもそうとは聞こえない声だった。せいぜいが「今日はカラスが多いですねえ」なんて世間話に対する相槌程度のそっけなさ。思わずほんとかよ、という気持ちで見てしまう。


 ワイシャツの袖を絞りながら、高岡は建物を見る。白い外壁。少し隙間の開いた押し引き開閉のガラス扉。その中には薄暗いタイルの廊下が続いている。扉の横に何か木板のようなものがかかっていて、おそらく建物の名前が書かれていたのだと思うが、掠れていて読めない。今は使われていない、そんな雰囲気のあるそれなりの大きさの建物だった。


「にしても、ここに居ても結構濡れるな」


 風が吹き込んできている。雨粒を横方向から身体に打ちつけてくる。ちょうど傘を差していても足が濡れるのと同じ要領で、入り口の屋根の下に立っていてもなお、高岡と黒町は雨水から逃げられずにいた。


 もう一度、ちりん、と鈴の音が鳴った。


 高岡が振り返る。建物の中、ガラス扉の向こうに猫がいて、こっちを見ている。にゃあ、ともう一度鳴くと、奥の方へ走っていった。


 試しに、ちょっとだけ扉を押してみた。


「……開いてんのか」


 本当なら、よくないことだと思う。

 けれど、こんな雨なのだし。それに、もう使われていない建物に見えるし。


 黒町に言った。


「中、入んねえ? ここじゃ雨宿りの意味、ねーし」

「うん」


 思いのほか素直に、黒町は頷いた。だから、止まる理由もなくなって。


 ぐい、と扉を開く。自分の身体を先に入れて、黒町も続いてきたのを見届けてから、後ろ手に扉を閉める。



 ガチャン、と。


 

 鍵の閉まる音がした。


「…………は?」


 聞き間違いかと思った。

 だから、扉をもう一度押してみた。引いてみた。


 びくともしない。


 扉の内側にはサムターン錠がひとつだけ。試しに回してみる。回りすぎるくらいに回った。というか、回りすぎだった。何の手ごたえもない。指先に鍵が引っかかるような感触がない。ガチャガチャ扉を押したり引いたり、何度も何度も何度も試す。


 開かない。


「ここは……」


 サーッと顔から血の気が引いて、そのときぼそりと黒町が言った。


「廃病院。一度入ったら出られなくなる心霊スポットとして、有名……」


 全然そんなことを言える筋合いではないと、高岡はわかっている。

 だって、傘を差しだしたのも自分の勝手だし、それが折れたのもこの馬鹿みたいな雨のせい。猫を追いかけていく黒町についていったのも自分だし、あまつさえ建物の中に入って雨宿りしようとしたのは自分で決めたこと以外の何物でもない。


「そ、」


 でも。

 それでも。

 言いたくなることは、確かにあった。



「そういうことは、早く言えぇーーーーっ!!!」







 だいぶ受け入れたくなかったが、もうこうなっては仕方ない、と高岡は思う。


 認めよう。

 俺たちは閉じ込められた。この病院に。


「マジで言ってんのかよ……」


 マジで言っていた。だって何しろ、一階全部を回ってみても、窓も勝手口も何も開かない。ビクともしない。クレセント錠すら初めから固定されたそういうオブジェみたいに動かなくて、もはや何もしようがない。


 ということで、廊下の先にあるロビー。そのソファの上に、はああ、と溜息を吐いて高岡は座り込んだ。その横に黒町も、ソファの上の埃をハンカチで落としてから座る。それだけびしょ濡れになったら、もう今さら汚れなんか気にすることもないだろうに。


「…………あのさ、黒町」

「なに?」

「……なんで知ってて先に言わなかった?」


 ちょっとの沈黙の後。

 ぼそり。


「面白そうだったから……」

「…………おい」


 オイコラ、という声をできるだけマイルドにしたのが今の言葉。


 別に、喧嘩するつもりはない。自分の落ち度だったとわかってはいる。が、ちょっとくらい言ってやりたい気持ちもあって、それを高岡は頑張って抑え込んでいる。


 何しろ、こんな密閉空間で仲間割れなんてしたくないし。

 それに、こういう場面でなら黒町は頼りになるはずだ、と思っているから。


「それで?」

「…………?」

「いや、ここから出る方法だよ。知ってるんだろ?」

「知らないわ」


 ん?と高岡は訊き返す。え?と黒町は首を傾げる。


「知らないわ。だって、初めて来たんだもの」

「……いや、待てよ。別に俺は、いますぐここから出る呪文を教えてくれって言ってるわけじゃなくてな」


 まさかそんなはずがない、と思うから高岡も食い下がって、


「なんかあるだろ。ほら、ゲームだってさ、こことここの仕掛けを動かせばステージクリアとか、そういうの。別にそれでいいんだよ。何か知ってることがあんだろ?」

「……高岡くん」


 顔がさっぱり見えないのにどういうわけか、哀れんでいるのだけははっきりとわかった。


「現実とゲームの区別はつけた方がいいわ……」


 ぶっ飛ばしてやろうか。

 握り締めてしまった右の拳の指を、左手で一本一本開きながら、ひくひくと口の端を引きつらせつつ、高岡は、


「つまりこういうことか? 黒町は特にここから出る算段も何もつけてないまま、面白そうだからって理由でこんなお化け屋敷にウキウキで入ってきたって、そういうことか?」

「そうね」


 すっく、と高岡は立ち上がった。そして壁に向かってスタスタと歩いていく。その背中を、黒町は何となく見つめている。


 がぁん、と壁に頭を打ちつけた。


「……高岡くん。もう憑りつかれたの?」

「いや、ちげえ。自分を戒めてんだ」


 大丈夫、と高岡は思う。

 状況はどちらかと言うと黒町がいることで良くなっているはずなのだ。黒町が止めてくれればよかった、とは思うが、元はと言えば建物の中まで入り込んだのは自分なのだ。黒町が唆してきたわけじゃない。むしろ、黒町がいてくれることで不安は軽減されているはずなのだ。誰もいない廃病院にひとりで閉じ込められた場合のことを思うといい。それに比べれば絶対に今の状況はマシだ。この怒りは理不尽な怒りだから、人にぶつけるべきではないのだ。


 ふーっ、と息を細く、長く吐いて、高岡は振り返った。


「よしっ。んじゃこれからのことを相談しようぜ」

「変わった人ね、高岡くん……」


 頼むからもうそれ以上言うな。何も。

 内心でそう思いつつ、高岡は話を進める。


「じゃあまずは状況の確認だ。出入口は全部閉じてる。携帯の電波も通じてない。さっき給湯室で確認した限り水道も通ってないから誰も使ってないことは確定。……あとは?」

「特には、何も」

「いや、オカルトっぽいやつでもいいぜ。さっきほら、言ってただろ。二度と出られないとかなんとか」


 もう高岡は、これがそういう現象であるということを疑っていなかった。だって、窓を叩いたときの感触がありえなかった。どうやっても、椅子をぶつけたって割れそうにない、明らかに硝子以外の感触。ここが何か妙な空間だというのはもう、受け入れるしかない。


 たぶん普通のやり方では出られないのだ。となると、目の前のオカルト博士に頼るしかない。


 けれど、その頼みの綱は平然と首を横に振って、


「それ以上のことは知らないわ。友達から聞いただけの話だから」

「…………」


 いるのか、友達。

 その言葉を、高岡は必死で飲み込んだ。


 でも、と黒町は言う。


「この手のお話は、大抵嘘」

「嘘?」


 首を傾げる高岡に、黒町は頷いて、


「本当に誰も出られないんだったら、噂になるわけがないから」

「……あー。なるほどね」


 そりゃそうだ。

 本当に誰も出られないっていうんだったら、『誰も出られない』って噂は広まりようがない。だって、被害者が外にいる誰かにその話を伝える方法がないんだから。


「電話が通じないというのも、むしろいいことだわ。もし通じてしまったら、死ぬ前に誰かにSOSを送ったという線が出てきてしまうから」


 ふんふん、と真面目に高岡は話を聞いている。電波が通じないとわかったときにはちょっと絶望的な気分にすらなったのに、そうと聞けば不思議だ。今は通じていない電波にありがとう、という気持ちすら湧いてくる。


 不思議そうな顔を、黒町はした。


「……平気? 高岡くん」

「は? 何が?」

「こういう話、苦手じゃない?」


 今更どんな質問だ、と思いつつ高岡は、


「いや、別に得意ではねーけど。聞かなきゃどうしようもねーだろ。むしろもっと喋ってくれ。俺はこういうの慣れてないから全然わかんねえんだよ」

「……そう」


 ていうか、と高岡は話を続ける。


「嘘って言ったって、俺ら実際閉じ込められてるだろ」

「お話自体は嘘じゃなくて、誇張があるっていうこと。きっと、外に出るための手段があるんだと思うわ」

「心当たりは?」

「いくつか」


 話してくれ、と高岡が頼めば、黒町が唇を開く。


「ひとつは、外から助けが来るパターン。たとえば警察とか、家族とか、そういう人たちがやってくると、急に何もなかったみたいに外に出られるようになるって、そういう類型。……子どもの間で流行している怪談なんかは、こうして終わることが多いわ」

「……それ、うちは期待できないぞ」


 悪いけど、と高岡はバツが悪そうに髪をかいて、


「うちの親、福引で当たったハワイ旅行に行ってんだよ。今日から三日。だからたぶん、うちの親とか、それから家族の通報で警察が動くとか、そういうのはない」

「…………」


 黒町が、珍しく驚いたような顔で高岡を見る。

 なんとなく、それが居心地悪くて、


「……なんだよ」

「……私の家も」

「はあ?」

「私の家も、福引でハワイ旅行に行ってる。もしかして、」


 あそこの?と黒町が具体的なデパートの名前を挙げれば、それが全く高岡の考えていたのと同じ。


「…………マジか……」


 頭を抱えた。

 つまり、ここにいるのは、当面行方不明になっても誰からも探されないふたり。学校だって、明日一日サボって保護者と連絡がつかないくらいじゃ、警察に通報したりはしないだろう。


「……このパターンだったら、」

「明るいこと考えようぜ!!」


 その続きを聞くのに耐えられそうにもなく、高岡はそのパターンを無理やり切り上げた。心中を察したのか、黒町もそれ以上は何も語らず、次の説明に移ってくれる。


「他には、さっき高岡くんが言っていたパターンも、あるにはあるわ」

「俺が言った?」

「ゲームみたいに、何かの仕掛けを動かして、それで脱出できるパターン」

「……さっき全否定してなかったか?」

「そうだった?」


 なるほど、と高岡は理解する。

 こいつ、思ったよりふてぶてしいというか、憎たらしいタイプの人間だ。


「……まあいいよ。で? 具体的にどこがどういうのとかあんのか?」

「一階には何もなさそうだったし。あるとしたら、」


 二階、と何となく黒町の目線が上を向いた。


 確かにそのとおりだ、と高岡も同意する。

 一応、ここに腰を落ち着けるまでに一階はぐるりと回ってきたのだ。そんなに広い建物ではない。診察室がふたつ。検査室がふたつ。レントゲン室がひとつ。スタッフルームもひとつあって、給湯室もついている。あとはトイレ。そのくらい。


 全部回った。怖かったけれど。

 けれどその労力に報いるような手がかりは、どこにも見当たらなかった。ただ朽ち果てて、物を引き払うだけ引き払った、すっからかんの病院跡。そのくらいのものしか置いてはいなかった。


「んじゃ、行ってみるか?」

「そうね。でも、その前にちょっといい?」

「ん?」

「身体を拭かせて」

「あー……」


 あまりの出来事に、優先順位が下がっていた。

 自分たちは、びしょ濡れなのだ。このままでは風邪を引いてもおかしくない。


「そうだな。ちょっと準備してから行くか」


 言いながら、高岡はワイシャツのボタンを外す。トイレにでも行って絞ってこよう。今日は体育もなかったからでかいタオルを持ち歩いているわけでもないし、それ以上はできそうにない。


 意外にも、黒町は鞄の中からそういう、身体を拭くのに適したスポーツタオルを取り出した。へえ、となんとなく見ていると、とんでもないことになった。


 黒町が普通に、サマーベストの下のワイシャツのボタンを外し始めた。


 いやいやいや、と高岡は思う。恥じらい。そういうの。咄嗟に、見てはいけない、と目線を逸らそうとして、しかし逸らせなくなった理由がある。


 だって、ワイシャツの下に、黒い布が見えた。


「黒町――お前、それ、黒いの、」

「え?」


 一瞬、絶句して。

 思わず、声にして。


「それ、去年のクラTか?」


 ツッコまずにはいられなかった。


 一年四組の。襟元に『我等友情永久不滅也』なんて書くセンスがヤバすぎると話題になったあの。


 体育祭用の、クラスメイト全員の名前が入った、真っ黒なクラスTシャツ。


「……? そうだけど」


 黒町は、何か変なことでも?という顔。

 高岡は、いや変なことだろ、という顔。


 だって、部屋着ならわかる。でも普通、学年が変わって、クラスメイトも変わって、その状態でクラスTシャツをインナーにするか? 自分が知らないだけでそういう文化が流行っているのか? というか黒町、去年のクラスにも馴染めてなかったって聞いたけど、一体どこからその鋼の精神は来るんだ?


「……気に入ってんの?」

「黒いから」

「……そうか」


 もうそれ以上は、何も言えなかった。


 トイレに行く。行ってから、この場所でひとりになるのは嫌だな、と思ったけれど仕方がない。服を脱いでひととおり絞って、もう一度着た。なかなか最悪の気分だった。


 戻ると、自分よりは多少乾いた姿の黒町が待っていた。

 それから示し合わせて、二階へと上っていくことに。


「足元、気をつけて」


 後ろから、黒町の声がする。ああ、と高岡は頷いた。


 なにせこの廃病院には電気も通っていない。だから暗くて仕方がない。窓から僅かに明かりは差し込んでくるけれど、それでもこの豪雨。まだ夕方くらいの時間帯にも関わらずあたりはすっかり夜の暗さで、このまま陽が沈んでしまえば、ひょっとすると自分の手のひらだって見えなくなるかもしれない。


 ピシャン、と雷が鳴った。


「――っ」


 思わず声を上げそうになって、しかし律する。このくらいで怖がっていたら、この先やっていけない。


 階段を上り切ると、思いのほかこざっぱりした景色だった。廊下。その脇に扉。たったそれだけ。


 開けなくちゃいけない。


「どれから開ければいい?」

「……どうして私に訊くの?」

「いや、ほら。霊感とか、そういうので」

「ないわ。私、霊感」

「…………」


 大丈夫、と自分で自分に言い聞かせる。

 この世に「なんで霊感ねーんだよ!」という怒りの類型は存在しない。大丈夫。つまり今自分が覚えた感情はまやかしということだ。捨ててしまって構わない。


「んじゃ、近くからいくぞ」


 右に三つ、左に三つ。そして奥にもうひとつ。まことにわかりやすい構造。だから、とりあえず左の一番近くから。


「せー、の!」


 きぃ、と。


「……見事に何もないな」

「わっ!」

「うぉわあああああああああああ!!!」


 思わず、大声を上げて飛びのいた。ものすごい飛びのき方だったから、部屋の前から大きく、勢いよく退がって、後ろの扉に頭、そしてノブに腰を強く打ちつけた。


「なんだ!? 何がいた!?」


 実を言うと、驚いてはみたものの高岡にはわからなかった。黒町が何に驚いて声を上げたのか。いま改めて開いた扉の先の部屋を見ても何もそれらしい影はない。さっきの霊感がないっていうのは嘘で、やっぱり本当に霊が見えてるのか、と黒町に訊こうとしたところで、


「……おい」

「ごめんなさい」


 黒町がごくごく普通のテンションで、普通に佇んで、普通に自分を観察していることに、とうとう気が付いた。


「……何もいなかったんだな?」

「ごめんなさい」

「……なんでいきなり驚かしてきた?」

「驚くかな、と思って……」


 スーッ、と高岡は息を吸った。

 そして、できるだけフラットな心になるように努めてから、こう言った。


「……俺、いま、怒ってもいいよな?」

「どうぞ」

「ふざけんなバーカ!!」


 心からの叫びだった。

 本当に心臓が止まるかと思った。幽霊にどうとかされる前に、ショック死するかと思った。自分の落ち度を客観視していたことによるこれまでの理性的な態度が、一気に溶解した。


「アホ!! クラT女!!」

「うん。ごめんなさい」

「もうお前開けろ! こっから全部!!」


 わかったわ、と頷いて黒町は、全く躊躇いもせずに次の扉をガチャリ。

 それはそれで心臓が止まりそうになって、思わず高岡は黒町の両肩を掴んで振り向かせた。ぐちゅ、と湿った服の感触。


「い、いきなり開けんなバカ!! 中に何かいたらどうすんだよ!!」

「ごめんなさい」

「ちゃんと合図をしてから開けろ! アホ! 心の準備ってもんが必要なんだよ!!」


 はあぁ、とその体勢のまま、また高岡は溜息。その息とともに身体中の力が抜けていって、黒町にしなだれかかってしまいそうになる。そして息と力と一緒になって怒りも抜けていったらしく、細い声で、


「……いや、わかってるよ。俺がビビりすぎなんだろ? こんな部屋の扉開けるだの開けないだのでギャーギャー言ってよ。なんかその、悪いな」

「謝らないで」


 それに対して、黒町はきっぱりと、


「驚かす目的でやったから、驚いて当然だと思うわ」

「…………」

「あと、すごく驚いてくれるからこっちは面白いわ」

「……………………」

「高岡くん、将来悪い人に騙されないように気をつけてね。悪くないのに、自分が悪いって思っちゃうタイプみたいだから……」

「もしかして俺いま、お前の肩を握り潰す権利があるか?」


 華奢な体格だから、本当に力を籠めれば鎖骨くらいは折れそうだった。けれど黒町はそれでも素知らぬ顔で、というかこのやりとりを楽しんでいるようにすら見えて、まさか本当に肩を握り潰すわけもないから、高岡は今日何度目になるかわからない溜息を吐いて、次の行動。


 開き直って、中腰になって黒町の背中にぴったりと隠れた。


「…………」

「……なんだよ。なんか文句あんのか」

「ううん。何も」

「言いたいことがあるならハッキリ言え」

「かわいいと思うわ」

「うるせーよ!!」


 理不尽、と小さく黒町が呟くのが聞こえた。どっちがだよ、と高岡はますます怒りのボルテージを上げる。


 その怒りが帳消しになるような音が、そのときした。



――――ちりん。



 そういえば、だ。

 そういえば、自分はあの猫を追って、ここまで来たのだ。この病院の中に、入ってきたのだ。


 そのことを、思い出した。


「今の、奥の部屋から……」

「した」


 一階には、猫の姿はなかった。

 そして、階段を上がって二階に来ても、なお。


 奥の扉に、猫用のドアはついていない。

 ということはあの猫はドアをすり抜けたということか。


 それとも、中にいる誰かが、扉を開けて。


「開けてみるわ」

「お、おい――」


 黒町が進む。ドアの前に立つ。ノブを掴む。回す直前で、ついさっきの高岡の言葉を思い出したのか、息を吸って、こんなことを言う。


「せー、」


 の、が言えなかった。


 バァン、と大きく扉が揺れたから。


「ひっ――――」

「――――っ」


 思わず高岡は声を上げたし、肩を掴む手から、黒町の身体まで強張ったのがわかった。


 明らかに風の音とか、そんなものではない。誰かが扉を叩いた音。どう聞いてもそれで、しかもかなりの力だった。高岡だってもしも今のを体当たりとして食らったら、ちょっとしばらく起き上がれなくなりそうな音。黒町だったら骨の一本や二本は折れて、そのまま気でも失ってしまうんじゃないか、という音。


 しかも、一度だけじゃない。

 扉や、床や、天井を。

 ずっと、力いっぱい殴りつけるかのような音が続いていて。


 凍った時の中で、高岡が、先に動いた。


「――俺が開ける」


 黒町を、押しのけて。


「え?」

「だってお前、運動神経鈍いだろ。俺が前にいた方がいい」


 仕方がない、と高岡は思う。これは二択の問題なのだ。仮に中に化け物か何かがいるとして、運動神経が悪い黒町が前に立つのか、運動神経のいい自分が前に立つのか。あるいは、化け物のことをよく理解できそうな黒町が安全な場所に立つのか、それとも何もできない自分が安全な場所に立つべきなのか。


 答えなんて、誰に訊いても明らかだ。


 ふぅーっ、と息を吐く。心拍数が上がっているのがわかる。でも、やるしかない。黒町にもう少し下がってろ、と手で合図して、


「開けるぞ。せーえ、」

「――待って」


 ぴたり、とノブを握る高岡の手に、もうひとつの手が重ねられた。

 もちろんそれは、黒町の手。


「もうひとつ、パターンがあるわ」


 じっ、と黒町が、高岡を見上げていた。

 前髪の隙間から、少しだけ瞳が覗いている。想像していたよりも、ずっと強い意志の籠もった瞳。


「……どんな?」

「朝が来るのを待つの。ただ、それだけ。でも、とてもメジャーなパターンだわ。……だから、」


 開けるのは、やめましょう。


 そう、黒町は言った。


「……わかった」


 黒町がそう言うなら、と高岡も手を離す。暗くならないうちに下に降りましょう、と黒町が促すのに、素直についていく。


 ふたりが、さらに暗くなりつつある階段を、埃を被った手すりを掴みながら、恐る恐る降りていく。


 闇はどんどん深くなっていく。

 夜が来る。






 ソファの上で寝たから、ソファの上で目が覚めた。


 鞄の中に入れた携帯を、明かりが洩れないようにして点灯させる。午前一時四十五分。もうそろそろ、眠りも深くなる時間だろう。診察台とかベッドで眠るのは何か嫌だから、ということでソファで眠った身体はバキバキだし、食べるものもなかったから空腹もひどいけれど、それでもまあ、動き出すのにはちょうどいい時間帯だ。


 相変わらず雨の音も激しいままだし、大丈夫だろう。

 そう思って、身体を起こして。


「――あ」「――え」


 ちょうど起き上がってきた黒町と、はっきり目が合った。

 何となく気まずい雰囲気が漂って、寝ぐせたっぷりの黒町が先に言う。


「と、」

「と?」

「――トイレ」


 ああそう、と高岡は頷く。そうですか。


「た、高岡くんは?」

「俺は――」


 一瞬躊躇ってから、結局、


「俺もトイレ」

「じゃ、じゃあ一緒に行きましょう」


 そういうわけで、真っ暗闇の中をふたり連れ立ってトイレに行った。入口のところで男女に分かれて。水が出ないから流せもしないし洗えもしない、というとても嫌なことに気が付いて、外に出て黒町と合流したときにどうしたか訊こうと思ったけれど、なんだかとんでもないセクハラな気がして、何も言えなかった。


 えっちらおっちらソファに戻ると、黒町がこう言った。


「使う?」

「ん?」

「ウェットティッシュ」


 くれた。今度から俺も持ち歩こう、とひそかに高岡は心に決めた。だって便利だ。あときっと、スポーツタオルも持ち歩くようになる。


 じゃあ、とどちらからともなく言った。

 おやすみなさい。


 目を瞑る。雨の音がいつまでも聞こえている。雷の音も。ひょっとすると、さっき黒町と同じタイミングで起き上がったのは、この雷の音が一際大きく響いた瞬間に、ふたりとも眠りから覚まされたからなのかもしれない、と思う。


 あるいは。


「…………起きてる?」


 小さな声で、黒町が言った。


「起きてるよ」


 答えると、なのにどこか驚いたような気配が夜の中で動いて。


「――早く寝た方がいいわ。寒くなって、体調も崩しそうだし」

「そっちこそ」

「……うん」


 夜が深くなればなるほど、感覚は鋭くなっていく。これだけの雨音の中にあっても、やがてはっきりと、高岡の耳に黒町の息遣いさえ届くようになる。


 とても眠ろうとしているようには感じられない、浅い、張り詰めた呼吸。


 きっとそうだ、と思ったから。

 とうとう、言うことにした。


「……黒町」

「なに?」

「お前さっきさ、ひとりで二階、行こうとしてただろ」


 息を呑む音。

 もう隠せないのに、それでも平静を装ったような声で、黒町は、


「……どうしてそう思うの?」

「俺がそうしようとしたから」

「…………」

「同じタイミングで起きたから、もしかしたらお前もそうかな、って思っただけ」


 違ってたら恥ずかしいな、とは付け足したけれど。

 違うなんてことはないだろうと、確信してもいた。


「――私ね、」


 やがて、黒町は重い口を開く。


「幽霊なんて、全然信じてないの」

「えっ」


 思わずがばり、と起き上がってしまう。だってそれは、いくらなんでも。


「嘘だろ?」

「嘘じゃないわ。……幽霊とか、そういうものが好きなのは本当。でも、たとえばゆるキャラが好きだからって、ゆるキャラが実際にこの世にいるとは思わないでしょう」

「……ゆるキャラって……」


 そことそこ同列になるかあ?と。

 高岡は黒町の独特なセンスに呆れながら、それでも、話を聞き続ける。


「昔はもっとちゃんと信じてたんだけどね。段々、色々なものを読んだり見たりしているうちに、実際にはないものなんだ、って思うようになったの。だって、誰かが作った跡って、あんまり本気で隠されてはないから。詳しくなればなるほど、これは嘘の話なんだなってわかるようになって、フィクションとして消費するようになっていたの」


 だから、と黒町は、


「さっきの扉、すごく驚いた。もしかして本当に幽霊がいるんじゃないか、って。興味本位で、高岡くんを巻きこんじゃったんじゃないか、って。そう思ったら、急に怖くなって……」

「だから、ひとりで解決しようとした?」

「……うん」

「じゃあ、俺と同じだな」


 え、と黒町が呆気に取られたように。

 でも、かえって高岡は笑って。


「俺だって思ってたよ。とんでもないことに黒町を巻きこんじまった、って」

「どうして……」

「いや、ここに入ろうって言ったの俺だろ? だからほら、責任感じてたんだよ」

「でも……猫を追いかけたのは私」

「その前に傘折ったのは俺だし」

「ううん、自分の傘を飛ばされた私が……」

「いやそもそも俺が傘なんて差しださなけりゃ、もっと黒町だって早く動きだせて……」


 ふっ、と。

 また、どちらからともなく。


 ふふ、あはは、と笑い声に変わって。


「なんだよこれ、バッカバカしい」

「お互い、自分が悪いと思ってて……」


 お互いの、気持ちがわかった。

 自分が悪い、と思っていたこと。相手を巻きこんでしまった、と思っていたこと。


 だから、自分ひとりで解決しなくちゃいけないと思って。

 同じタイミングで、動き出したこと。


 こんなに馬鹿馬鹿しいことってない、と高岡は思う。

 だってまるで、人に親切にしようとお互いがお互いを思った結果、どっちも疲れ果てていくみたい。それって傍から見たら、すごく間抜けだ。


 気付いたときには、きっと愉快なものだけど。


 あ、でも、と。

 高岡は笑いながら、


「一個だけ譲れねえのがある。お前あの驚かしだけは絶対反省しろよ。マジでぶっ飛ばしてやろうかと思ったんだからな」


 黒町も、さっきのよりは随分悪びれた声になって、こう答える。


「ごめんなさい。あのときはまだ、こんなに深刻になると思わなかったから」

「いや、深刻な場面じゃなくてもだよ。お前あんなことしたら友達に絶交されんぞ」

「……そう? 私の友達は、結構ああいうの好きだけど」

「えぇ? ていうか誰なんだよそれ」


 実を言うと、ちょっと気になっていた。

 夕方の話にも出てきていた、黒町の友達。ここの話を教えたっていうんだから、どうせオカルト趣味なんだと思うけど。


 でも、黒町が口にする名前は、予想外。


「由未ちゃん。白石由未」

「え」

「意外?」

「いや、意外っつーか……。接点が……」


 白石由未。その名前は、高岡も知っている。一度も同じクラスになったことはないけれど、茶道部に所属しているとかいう、美人の同級生だ。別に黒町は茶道部ってわけでもないだろうし、そもそも茶道部みたいな弱小文化部は高岡の高校ではろくに活動していない。去年クラスが同じだったとか、そういうことなんだろうか。


 黒町は普通に、仲のいい友達の話をするときの明るいトーンで、こう語る。


「あの子、ゴスロリが趣味なの。それで、私とそういうお店で会って……」

「え、何。黒町もそういうの着んの。クラT着てんのに」

「違う。雑貨も置いてあるところなの」


 クラT着てるのってそんなに変?と口を尖らせるのに、高岡は笑う。そしてこう思う。なんだ、と。話してみれば、全然黒町って普通のやつで、それで、ちょっと変わった面白いやつだ。


 取り留めのないことを、いくつか話した。

 こんなことにならなければ、きっとふたり、一生こんな風には話さなかっただろうということを。お互いに。


 時刻が午前の二時半を過ぎたころ。

 まだまだ名残惜しかったけれど、きっと、夜が明ける前にと思って、ふたりで立ち上がった。


 階段を上るとき、手を繋いだ。転ばないように。

 黒町が冗談めかして言った。その繋いでる手、誰の手?

 ちょっとだけ不安になって、腕の先を辿っていったら、ごくごく普通のところに辿り着いた。つまりは、黒町の顔。


 お前の手、と高岡は言った。

 私の手、と黒町も返した。


 こんなことがなかったら、一生ありえなかったような会話。







 扉の前に立っている。

 高岡と、黒町が。


「正直言っていいか」

「どうぞ」

「めっちゃくちゃ開けたくない……」


 はぁあ、ともはや癖になってしまった溜息を高岡は吐く。雨は未だに降り止まず、雷は光もしないでずっとゴロゴロと不機嫌な唸り声を上げている。あたりは暗闇。携帯の電池が切れてフラッシュも使えなくなったらいよいよおしまいだ。


 そのうえ、この奥に何かいるっていうところに突っ込むんだから、憂鬱にならないはずがない。


「明るいうちに突っ込んでおけば……」

「過ぎたことを言っても仕方がないわ。どうせこんなにあからさまな謎解きをしないで帰ろうとした人間なんて、酷い目にしか遭わないんだもの。ちゃっちゃとやらないと」

「……黒町が開けねえ? 俺が前にいるから」

「……どういう状況?」


 高岡は説明した。二人羽織みたいな感じで行こう。つまり、俺が前にいるから、お前は後ろからドアノブを捻ってくれ。


「……いきなり襲い掛かってこられた場合、後ろにいる私が邪魔になって逃げられずに死んじゃう気がするんだけど……」

「黒町。俺、実は黙ってたことがあるんだけど」

「何?」

「すげえビビりなんだ。実は」


 それはなんとなく知ってたけど、と黒町が言えば、それならやってくれ、と高岡はもう不動の姿勢。今度溜息を吐くのは黒町の番で、確かに、高岡の後ろからドアノブに向かって手を伸ばした。


「せえ、の!」


 ガチャリ、と扉が開く。


 幸い、突然化け物が襲い掛かってきたりはしなかった。


 ほっ、と黒町が一息吐いて、中をライトで照らす。

 書斎のように見えた。本棚がいくつか並んでいて、真ん中には机。ただそれだけの、何の変哲もない、ごく普通の部屋。


「おい、なんかいたか?」

「……もしかして、高岡くん、目瞑ってる?」

「おう」


 おうじゃなくて、と黒町は呆れたようにツッコミながら、


「何もいないわ」

「信じていいか?」

「どうぞ」


 ぱちっ、と高岡の瞼が開かれた。

 そして、安堵の溜息が遅れてやってくる。


「助かった……」

「じゃあ、中を調べてみましょう」


 黒町が高岡の背中から離れて、携帯のライトを片手に中へ。高岡もそれほど恐れなく、一緒になって中に踏み入った。


 本棚はまばら。洋書も多く混ざっていたけれど、ほとんどは医学書のように見えた。机の上には何も置いていない。少なくともふたりが夕方に聞いたような、あんな大きな音を出すものは。


 だから、本の中身を読み始めた。

 なまじっか黒町は外国語の文献を読めるものだから、かえってどんどん手に取る本を替えていった高岡の方が、先に気付いた。


「お」


 大判の洋書。

 そう見えたはずのそれは、実際にはそうではなかった。


 一見、本のように見えるが、それは外側だけ。中身はくり抜かれたようにして、ぽつんと別の物を収めていた。


 手帳。


「黒町」


 これだろう、と呼びかける。ふたりは壁に寄りかかって、肩を寄せ合って、その中身を読んでいく。幸い日本語で、要約するとこんなことが書かれていた。


 代々受け継いできた診療所だが、もうこのあたりの人口も減り始め、いよいよ閉じなければならなくなった。

 それ自体は時代の流れだ、と納得できる。どうせ息子も医学の道には行かなかったから、跡継ぎもいなかったのだ。この診療所を手放すことに、それほどの口惜しさがあるわけではない。


 しかし、ひとつ気がかりなことがある。


 二年ほど前、ひとりの老人がここを訪ねてきた。彼は肺を患っており、一度は大きな病院で入院したこともあったが、年齢のこともあり、病院で延命治療を受けるよりも、病院の外で自然に死にたい、と考えていた。


 その日はどうにも調子が悪いと言って、近所にあったうちの診療所に薬を貰いにきていた。

 そして彼はその診療中に著しく体調を崩し、救急車を呼ぶも、搬送されるよりも先に息を引き取ってしまった。


 問題は、その遺体のことだ。

 死に場所のよしみと思い、私が彼の身元を調査した。しかし、彼にはほとんど身寄りがなく、唯一息子であるはずの男とすら全く連絡が取れない。遺体をそのままにしてはおけないということで、火葬の手続きまではこちらで取ったが、その骨の行き場所に困っている。身内がいるのに無縁仏にするのも忍びなかろうと思いこちらで保管していたが、しかしさすがに彼の飼っていた猫はともかく、息子夫婦とこれから同居する住宅にこの骨を持っていくことはできまい。


 どうしたものか……。


 読み終えた高岡と黒町は顔を見合わせる。骨。骨壺。ふたりとも、親族の葬式ですでに一度は見たことがあった。


 その大きさが収まるところといえば。

 視線が、同じ方向を行く。


 机の引き出し。


 近寄って。

 がらり、と開けて。


 確かに、不透明な白い壺。


「……開けてみましょうか」

「そうするしか、ないよな」

「どっちが開ける?」

「え、いや」


 高岡が、焦ったような声で、


「せーの、で開けようぜ。ふたりで」

「開けにくくない?」

「いいだろ、別に。ほら」


 高岡が、壺の蓋に手をかける。

 しょうがない、と黒町も、同じようにして。


「せえ、」「のっ!」


 固い蓋が、くるりと開く。



 白く光る人骨。



 とうとう叫び声を上げて、高岡は気絶した。





 それからのことについて言えば。

 ほとんどは、黒町から後になって高岡が聞いた話になる。


 骨を見つけてから、不思議なくらいに雨が止んだ。扉だって簡単に開くようになった。このまま帰ってしまおうか、と思わないでもなかったけれど、あの骨をそのままにしてはおけまいということで、警察に連絡した。


 廃墟に人骨。

 そのインパクトのおかげで、高岡と黒町の不法侵入については、ほとんど咎められずに済んだ。特にその日は夕方から深夜にかけて停電を伴う激しい落雷が見られたということで、ある程度仕方ない部分があった、という風に認めてもらえたらしい。あの日記の主だった診療所長の息子はまだ存命で、彼も「今さら波風は立てたくないし、骨だって誰かに見つけてもらいたかっただろう」ということで、ふたりのことをことさら追及はしなかった。むしろ、その存在も知らなかった人骨を、自分より下の代の子どもたちに残さなかったことに、安心している様子でもあった。


 学校にも、一日だけ休んでのち、またすぐに登校した。診療所の件は噂としても広まっていなかったし、テスト前でもあったから、どうせサボって家で対策してたんだろ、なんて扱いを受けるだけで済んだ。


 そうしていま、高岡は学校の昇降口に立って、空を見ている。


 今年の梅雨はとにかく長い。そのうえ夏の天気は変わりやすい。また突然あの日みたいな土砂降りになるんじゃないかと思って、じっと空を眺めていた。


 そうしたら、聞き覚えのある声がした。


「お」

「あ」


 目が合って、一言で挨拶。黒町忍。確かに隣にいるのは白石由未で、疑っていたわけじゃないけれど、この目で見たことでそれがようやく、納得に変わった。仲が好さそうだ、と思ったから。


 見つめ合うふたりの真ん中で、白石がきょろきょろと視線を行ったり来たりさせる。


「え? 忍ちゃん、知り合い?」

「うん」

「私以外に?」

「うん」

「えーっ!」


 白石はまじまじと、いかにも驚いた、という顔で高岡を見つめて、こう言う。


「全然キャラが違う……」


 なるほど、と思う。

 だいたいこっちが抱いていたのと同じ感想だ、と。


「え、どういう知り合い?」

「どういう……」


 黒町が少しだけ、考え込む。それから、ちらり、と高岡に目配せをする。

 いいぞ、という意味で、ちょっとだけ笑い返してやった。


「ひとつ屋根の下で一夜を明かして、」

「――――!?」

「私的にはムフフで楽しい体験を共にした仲」

「――べっ、むっ、……えぅっ――!?」


 絶句。面白いくらいに。

 信じられないほど表情豊かな白石を見て、高岡は納得する。確かにこれが唯一の友達なら、黒町がああいう感じのじゃれ方をしてくるのもわかる話だ。


 百面相を披露してくれている白石を放って、黒町が近づいてくる。だから、高岡はひとつだけ訊いた。


「やっぱあれ、黒町的には楽しい体験だったのか」

「うん。あんな本物の体験、めったにないから興奮したわ。それこそムフフな感じで。今度は音だけじゃなくて、姿も見てみたいけど」


 勘弁してくれ、と高岡が溢すと、次があったら由未ちゃんと行く、と黒町が返すので、ほっと一安心。


 そのころようやく白石が回復して、


「えっ、ちょ――い、いつもの嘘だよね!?」

「さあ、どうでしょう」

「そ、そっちの人!!」

「いや、俺からは何とも……」


 白石が黒町の肩を掴んでがっこんがっこん揺らすのを横目に、あんまり邪魔しちゃあれか、と高岡は帰るタイミングを図っている。


 そして、雨が降り出してしまった。


 ざぁあ、とスコール染みた大雨が、空から地面に降り注ぐ。困ったな、という顔を高岡がすると、黒町が言う。


「もしかして傘、忘れたの?」


 そして高岡が答えを口にするよりも前に、買い直したらしい真っ黒な傘を広げ始める。

 そして、こんなことを訊いた。



「入っていく?」



 答えなんて、別に聞く気もない癖に。


 高岡の口が開く。

『夏』とか『雨』とか、そういう言葉を生み出すときと、同じ形になるように。


 初めからそうすればよかったのに、なんて。

 誰も言えない帰り道。


 遠くで鈴がちりん、と鳴って。

 にゃあ、と子猫が走っていった。





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[一言] タイトルに反して微ホラータグが付いているのが不思議だったので読んでみましたが、想像以上に楽しめました。続編が欲しいぐらいです。
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