004
目が覚めた俺の前に広がったのは、見慣れた光景だった。だって、この景色を見てから一時間が少し経ったばかりだ。俺は広場の中央にある噴水から噴き出る水を見ながら一息をついた。よろよろと足を運んで噴水に座った。視線の対象が噴水から行人たちに移っただけだった。
「本当に自信ないな」
俺はすでに落ち込んでいた。浮かれた気分で異世界に来て危機に陥ったヒロインに出会い、ひたすら死んでしまった。何もできなかった。これからどう進めていけばいいのか心配だった。
「身体でも少し強化されたかな、と期待していたが、そうでもないし。チート装備や能力は当然ないし」
気を落としながら噴水の中を見た。うねっている水面の下に小銭が沢山あった。ここにも噴水にコインを投げて祈る風習があるかもしれなかった。よく見るとコインは一つの形ではなく、いろいろなものが混ざっていた。金額の格差が少しずつあるようだった。ここの貨幣の単位は何だろう、という考えがよぎった。今の俺には銅貨を見てもどれが高いのかさえ分からなかった。
「考えてみると、今の俺はお金一つもないな」
当然ながら懐は空っぽだった。人の生活には金は不可欠だ、俺にはその必修なものがひとつもなかった。俺はあたりを眺めながら噴水に腕を突っ込んだ。
「みんな捨てる気で投げ入れた物だろうから、大丈夫だろう」
噴水の中を探して見たが、よほど奥が深いのか硬貨がうまくつかまらなかった。腕はすでに肩まで水に入っていた。
「もう少しで捕まりそうな…あ」
俺はその言葉を最後にバランスを失い、水の中へ落ちてしまった。けたたましい音とともに水がわき上がった。予想外の状況だったので、口と鼻から水が入り込んで咳き込んだ。濡れた前髪から落ちてくる水滴が、しきりに鼻と目元に落ちた。前がぼやけてよく見えなかった。
「一体、何をしているのですか」
かすんだ視界の向うに太くて低音の声が聞こえてきた。俺は目元の水をふきながら答えた。
「噴水に座っていたのですがバランスを失って転んでしまったのです。絶対に噴水の中で泳いでいたわけじゃないですから」
「そりゃ、泳いでいなかったということは見れば分かりますが。手の動きがあやしかったので。ちょっと外に出てみてください」
俺はへんな気がした。怪しい?外に出てみろって?こんな妙な命令調の言葉はまさか……
「警備兵だ!」
目の前の険しい顔をして、よろいを着ている男の姿に、俺は思わず叫んだ。村を守る警備兵の以外にはありえない容姿だった。
「そうです。だから、早く出てきてください」
俺は様子を見ながらゆっくりと噴水から歩いて出てきた。外に出る俺の体から落ちた水は水面に波紋を作っていった。服から下着までびしょびしょになった俺の姿は、今の俺の立場をもっと哀れにした。
「何していましたか」
完全に外に出た俺に警備兵が聞いた。俺の足元は相変わらずくすぶっていた。
「さっき話したとおり、噴水に座って転んでしまったんです。やたらとびしょ濡れになってしまいましたね」
「じゃあ、そのふっくらんでいるお尻は何ですか」
警備兵が指した俺のお尻は変な形をしていた。お尻を見るために動くと金属性の音がした。小銭だった。転んだ隙を狙って俺が後ろのポケットに入れたのだ。見まねの良い警備兵だ、と言いたかったが、誰が見ても怪しい姿だったので当然のことなのかもしれなかった。
「あれ、これは硬貨じゃないですか。噴水に転んだ時ポケットの中に流れ込んだようですね。これがなぜポケットの中に入っているのかな」
俺は何気なく言って、ポケットの中に入っていた銅貨を全部ふんすいの中に返した。たった一枚だけ除いて。相変わらず警備兵は怪しい目つきで俺を見ていた。
「まあ、そういうことにしますが、次からは気をつけてください」
「はい、わかりました!」
俺は元気な声で答え、胸をなで下ろした。
「ただ、元々の用件はこれではありません」
俺は震える目で警備兵を見つめた。それが用事でないなら、どんな用事が俺にあるのか。まだ復活した後、おかしなことは一つもしていない。もちろん、噴水からコインを引き抜こうとしたが、未遂に終わったし。これもものすごい犯罪ではない。俺は不安になり始めた。
「服装もそうだし、まったくこちらでは見られない感じなので。身分証明書をちょっと見せてくださいますか。それとも冒険者カードでもいいです。念のため聞くことなので、あまり気にしないでください」
気にしないでくれと言ったが、そうにはできなかった。俺は異世界に召喚されたばかりで、身分を証明できるものは持っていなかった。いや、普通はこういうことは聞かないんじゃないか。身分のない怪しい者だとか、犯罪者のようなこんな展開は省略すべきではないか。身分証明書?そもそも、こんな世界にそんな物があることも知らなかった。冒険者カードとはまた何だ。これなら少しは慣れてはいるが、まだ発給先の近くにも行っていない。初めから崩れ落ちているスタートラインの姿を、俺は茫然とした瞳で眺めることしかできなかった。
「急になんですか。ぼーっとした顔をしてピントの合わない目をなさっていたのに、今度はなぜ泣いているのですか」
思わず涙がこぼれたようだ。最初から楽な異世界の生活とはかけ離れている。ヒロインの救出イベントは虚しくナイフに刺されて死んでしまい、お金がなくて噴水のコインを探して警備兵に検問され、今や身分を証明ができなくて捕らえられることになった。いくら何の能力もないといってもこれはひどいじゃないですか。能力があっても、なくても、前に進むことができないじゃないですか。頬の上に何かが流れていた。
俺に力があれば、少なくともこんあ状況を何とか解決できるのに。何とか冒険者になったり、なんとかヒロインを救出できたのに。ちょっと、ヒロインを救出する?ヒロインを救出するには力が要る?何かが頭の中を掠め出した。最近つかった頭の回転速度の中で最高のスピードだった。特に頭がいいわけではないので、最高のスピードでもまあだが。然れば、俺は一つの妙案を思いついた。
「あの、警備兵さん」
「突然、どうしたのですか。とぼけた表情で泣いたり呼んだりして。正直、頭のおかしい人のようで、近くで狂人の脱走でもあるのか調べようと思いました」
人前でそんなこと言うなよ。狂人なんてひどいじゃないか。
「それで、身分を証明する物はどこにありますか。まさか置いてきた、みたいなことをおっしゃることはないでしょう」
そう言って警備兵は俺との距離を次第に縮めてきた。俺は右手を勢いよく伸ばして制止した。
「もちろん、それは置いてきました。今は持っていません」
「そんな話をとても堂々としますね」
「こんなことだけが俺の取柄なので。それより、少女がナイフを持った男に脅かされています。俺が場所を知っています」
俺の話を聞いて、近づいてきた警備兵は立ち止まった。作戦が成功したと思、俺はこぶしを固く握った。やはり危機は図々しく乗り越えなければならない。慌てず、堂々と進もうという計略が成功する瞬間だった。
「最初はただの検問だったんですが。本当に変な人を捕まえるようになるとは。さあ、手荒に扱いませんから、こちらへどうぞ」
「全然、伝わってない!」
気の毒そうな顔をしている警備兵が見えた。
「俺は狂人じゃないって!本当に人が危険なんだ。早く行かないといけないって」
「かしこまりました。理解していますから、どうぞこちらに」
「何がどうぞこちらに、だ!こちらに来なければならないのは貴方だ!まだ全然りかいできていないじゃないか」
俺は話し終わらせてすぐ、反対側に走って行った。噴水をうまく飛び越えて跳躍した。こうなった以上、一か八かだ。幸いに道はよく覚える方なので、前の路地ははっきり覚えている。できるだけ早くこの警備兵を率いてそこに移動するという計画だった。
俺がヒロインを救出できないなら、他人の力を借りればいい。この場合、どうせ敵と言っても刀を持った男にすぎない。有名な勇士や騎士を連れてこなくても警備兵の前では無力だろう。俺が彼女を救出するのではないので格好はつかめないが、それでも人と人の間には何よりも出会いが大切だ。出会いがあって初めて今後のことが起こる。俺はそう信じて、彼女を救うことにした。それに、前にちらっと見ただけだが、すごい美人だった。俺の冒険の最初のヒロインにするには足りないものがないというのが俺の原動力になった。
「なぜ逃げるのですか!そこにお立ちください!」
「それで立つと馬鹿じゃないですか!」
必死に走っている俺と警備兵がいた。警備兵はよろいのせいか、考えよりスピードが出ないことが幸いだった、と思った。
「思ったより早い!ああ、捕まる!捕まる!捕まる!」
よろいを着て駆けつける姿に、俺は恐怖を感じた。やはり警備兵は誰でもやるのではないだろうか。確かに、村人たちを守らなければならないから当然だった。俺はそれに遅く気がついたし。
「もう俺をほっといてくれ!」
いつものように悲鳴を上げながら俺は路地に深く入り込んでいた。




