オンライン化したゲームは、楽しい体験を提供したのか
ゲームは魅力的で、楽しく、そして興奮する。
ゲームを遊ぶ体験は愉快で、幸せで、満足感がある。
私にとってゲームとはそういうものだ。
ところで、近頃のゲームは楽しいのだろうか。
私の甥っ子も良くゲームをしている。
小学生や中学生の子供達は、私がそうしたようにゲームを遊んでいる。
自宅で、テレビの前にいる。
変わったことといえば、傍に友達がいない。
画面の向こうにいるのである。ゲームがオンライン化して、家に来る必要がないのだ。
タイトルは……
スプラトゥーン フォートナイト、……
時代の変遷を感じる。どれもオンラインで遊ぶゲームとなり替わった。
オフライン、ローカルで遊ぶタイトルはどこかへ消えてしまった。
オンラインの対戦は子供達にとって楽しいだろうか。そう疑問に思うようになった。
私は子供達にゲームの遊び方を聞いた。
するとオンラインで遊ぶのは楽しくないから、友達同士とだけで遊ぶと言った。
子供達は、ゲームで勝利することは決してないからだ。
今の時代のゲームは、何もかもが「競技化」している。
競技的というのは、勝ち負けに拘る、プロが行うスポーツのようなもので、強さが信奉される。
数字と練習が支配する世界だ。
ゲームに夢見て始めた初心者プレイヤーがいきつくのは熟練したプレイヤーとの大きな隔たりだ。
将棋や囲碁と同じで、若いころから熟練した練習を積まねば追いつけない、やっても追いつけない、そんな世界がゲームに広がっている。
ネットが発達したことにより、多くのプレイヤーと遊ぶことができるようになり、ゲームのプレイが解明され均一化したのだ。
ゲームはより多く遊ばれるようになり、最適解が解明されてしまうようになった。
そしてそれらの最適解は高品質な攻略情報サイト、ユーチューブのプレイ動画で広く提供されるようになった。それはつまり、ゲームの競技化を指している。いかに強く、上手くプレイできるかに焦点が当たるのだ。
とある有名なゲームデザイナー、マーク・ローズウォーターは、ゲームの本質についてこう語った。
「ゲームとは選択することである」
私はその通りだと思う。例えば将棋は、どの駒を動かすかはプレイヤーの自由であり重要な選択なのだ。もし将棋が二人零和有限確定完全情報ゲーム(双方のプレーヤーが最善手を指せば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるゲーム)として完全に解明されたなら、そこにプレイの選択は存在しえないのである。最適解を間違わずに打つ「パズルのような遊び」としてなり替わるだろう。
そして現在のゲームプレイヤーは、誰もが将棋のプロ棋士と対戦しなければならない時代となった。
見知らぬ人とゲームをすることが相対的に増えたはずだ。
そして、正しい戦術が求められる。ネットという広く広大なプレイ空間では、間違いのない最適なプレイを求められるようになる。
何故ならオンライン上では、ゲームプレイそのものに価値が見いだされ、プレイヤーとのコミュニケーションは二の次であり、如何に上手にプレイするかという空間であるからだ。
一緒に遊ぶプレイヤーは、オンライン上では見ず知らずの人間で、仲良くコミュニケーションをしたりすることは稀だ。一期一会の対戦であり、常に新しい知らぬ人間と遊ぶことになる。
だからこそ、ゲームのプレイに価値が強く生じるようになったと思う。
そしてゲームプレイに価値が見いだされ競技化するということは、つまりゲームの選択肢を自由に選べないことを意味する。
何故なら、最適な選択を強制されるからである。
本来とれるはずだった最適ではない選択肢は、糾弾されるからである。
このようなゲーム体験は楽しいのだろうか。
楽しくない体験は初心者を淘汰する。
そして経験者が残り続ける。
結果、ゲームの競技化が進み続け過疎化が加速度的に増加する。
過疎化と反比例するように、求められるプレイの内容が高まる。
そしてプレイヤーが居なくなる。
古くは格闘ゲームからその傾向がみられた。
そして格闘ゲームというジャンルが衰退したのは現実だ。
(初心者を受け入れることが出来ず、経験者だけが遊び続け、ついにはプレイヤーがいなくなってしまったというのは有名な話である)
ある意味、オンライン化の最前線だったのが格闘ゲームであったと思うと感慨深いものがある。(ゲームセンターのアーケードで遊ぶといった行為は、オンラインゲームのロビーに集まる行為と大差なく、最も競技的なゲームであったからだ。格闘ゲームはたくさんのタイトルが存在したが、基礎は変わりなく、経験者が圧倒的に有利なゲームでもあった)
そして現代、ソーシャルゲームが世を斡旋した。
ソーシャルゲームに、選択するというゲーム性は存在しない。
選択を強いられないのだ。
そして代わりにゲームの幸福を、データの強さで演出する。
選択することが本質であるゲームにおいて、何故ソーシャルゲームが受け入れられたのだろう。
コミュニケーションを求めるプレイヤーは、ソーシャルゲームを遊ぶのは当然だ。
そこは競技性は存在せず、ただコミュニティとしての場が存在する。
「好きなキャラクターが使えるようになった、ストーリーをどれぐらい進めることができた……」
そういったことで友人達と盛り上がる。
現在のオンライン化し競技化するゲームにおいて、もっともネックである競技化から避けられるコミュニケーションツールとして確立したのだ。
高度なプレイも必要ない。ゲームを遊んだり習熟するための時間はお金で買えるのである。
ネットにより均一化される選択肢の強制といったものから、選択肢を失くすことで、その束縛から逃れたのだ。もはやソシャゲはゲームではなく、新たなコミュニケーションのツールであると思う。
ゲームであるのに、ゲームではない。オンライン化し競技化するゲームへのアンチテーゼとして登場したのがゲーム性(選択する自由)を取っ払ったソシャゲではないのだろうかと考察する。
ソシャゲは、楽しさという根源的な欲求を、コミュニケーションツールとして回帰することにより成功したのだ。
コミュニケーションに勝る快楽は存在しない。
一人でポチポチと遊ぶソシャゲはまさに、過去の小さなコミュニティで遊ぶアナロジーな世界を再現した。
知らない人と対戦する必要はない。オフラインのように用意されたストーリーを進めるだけなのだ。ストーリーが説明され、運営が用意したゲームプレイを楽しむ。昔のゲームのように、友人達とここまで進めたよと会話を共有する。
競技化されたゲームのように、決してプレイを強制されない。
ストーリーやキャラクターを楽しみ、それを知人と共有して、楽しいという体験を得たはずだ。
結局の所、ソシャゲを多くの人が選択したのは、競技化したゲームを嫌ったのだ。
選択が強制されたゲームはつまらないことに、潜在的に気づいたのだ。
知らない人とゲームプレイを共有することに疲れたのだ。
ゲームとは本来、コミュニケーションを助けるためのツールであった。
現代のゲームは、TRPGという古めかしいゲームに源流を持つ。
TRPGというのは、テーブルを囲みあい、ロールプレイを楽しむゲームで、コミュニケーションを最重要視する。
友達が盗賊で私は騎士といった風に役割を決めて、あとはお話をしながら物語を進める。
「盗賊だから、騎士の城の宝を盗みに行くわ」
友達がこういった。 騎士の貴方はどうするだろう。
「騎士の俺は、そうだな……、賄賂でも貰って見逃そうかな」
こういった対話をして、空想の世界でゲームを楽しみましょうというものである。
騎士が盗賊をぶちのめそうが、見逃して賄賂をせしめようが自由なのだ。
選択の自由が存在していて、それこそがゲームの本質であると説明した。
そしてそれらの選択についてコミュニケーションをとるのだ。
これがゲームの源流として存在した、楽しさなのである。
何故、選択が重要なのか。選択を通してコミュニケーションを行ったからだ。
そこに人間の自由と楽しみが、きっと存在したはずだ。
オフライン時代のゲームは、ゲームの最適化が行われていなかった。
例えばテレビゲーム黎明期、初代のポケモンは現代と違い、正しいプレイ、強いポケモンは求められなかった。
可愛かったり、オリジナルの戦術を試したり、そこには選択の自由があった。
現代のポケモンは全てが解明されていて、強いポケモン、強い戦術を選ばざるを得ない。自由な選択肢は消え去っている。
オフラインというのは、最適解は求められない。
そこには選択の自由があり、誰にも咎められなかった。
弱いキャラクターや間違ったプレイをしても、やり直すことが出来た。
間違った選択を、友人たちと楽しくコミュニケーションできた。
オンラインにおいてそれは許されない。
弱いプレイヤーは嫌われ、間違ったプレイは糾弾される。
ゲームのプレイを選択する自由が虐げられて、コミュニケーションが行えない。
もし知らない人とコミュニケーションをとりたいのであれば、高品質なゲームプレイが前提条件だ。
一つの例を挙げよう。
私が真剣に遊んだ競技化したゲームタイトルがあった。
そのゲームの上級者である私は、初心者を見たらこう叫ぶ。
「Noob(初心者をバカにするスラング)だ! 狩れ!」
内心ニタリと笑い、手も足もでない初心者を狩りつくす。
その行為は何とも、胸がすくような気持ちになる。
私が学び練習してきたプレイが、確実な差となり現れ、実力が全てのゲームの世界で偉そうにするのだ。
虚栄心と見栄の汚い心の動きを垣間見る瞬間である。
見ず知らずの他人を打ちのめす快感。
ゲームの上手さに全ての価値が存在している。
褒められるものではない、しかしそれが現実としてプレイヤーが持つ感情だ。
このような気持ちの良い行為を、我慢するプレイヤーは少ない。
仮想で匿名の世界で、そしてゲームプレイは上手にできて当然だからだ。
このような空間に、ゲームの楽しさが存在しているのだろうか。
きっと、ゲームとしての楽しさは存在していないのだと思う。
そして私は……、競技のゲームを辞めた。
それからというもの、私にとってゲームといえばボードゲーム(人生ゲームとか)を指すようになった。
身内同士でワイワイと遊ぶ、それだけのゲーム。
現代のゲームに比べると、奥行もなく古臭いゲーム。
しかしコミュニケーションに最適である。
正しい戦術などは求められない。
ただただ、仲良くおしゃべりをしてゲームの選択を楽しむ。
現代の世の中、オンラインのゲームは、もはや必要不可欠である。オフラインのゲームに戻ることなどできない。
しかしオンライン化したゲームはプレイヤーを幸せにしたのだろうか。
知らない人達と競技を行いたくてゲームを遊んでいるのだろうか。
それを求める人は、少数だと思う。
ここで、少し違う視点で見てみよう。
ゲーム以外にも、この選択を強制される出来事は発生している。
ネットは、世界を変えた。
色々な文化が均一化され、そして淘汰されていく。
人間にとって、選択する自由が減りつつある。
誰もが、最適な選択を選ばされている。
なろうでファンタジーが読みたいなら、ランキング一位の作品を読めばいい。
誰もが選択した最適で流行りの小説が読めるだろう。
だがその行為は、ランキング一位という集合知から、その小説を読むという選択を強制されている。
ネットがなかった頃、本屋に通い、数百冊はある本棚を見ながら面白そうなものを一冊見つけたのではないだろうか。
面白くない本を選択して失敗したこともあるはずだが、それは悪い体験ではなかったのではないだろうか。
選択するという行為は、人間の本質においても重要なことなのである。
コミュニケーションが付随するならさらに大切だ。本を読むことだって、ある種のコミュニケーションである。
そろそろ結論を述べよう。
オンライン化したゲームは、ネットによる高度な攻略情報により均一化され、競技化が進んだ。
ゲームの本質であるプレイヤーの選択は尊重されず、楽しさは失われたはずだ。
選択が強制されるようになった現代のゲームは、酷くつまらないものになったのではないだろうか。
ゲームのプレイの上手さに最上の価値が置かれ、選択を通したコミュニケーションを重視しなくなったのではないか。
しかし、ここで良い話がある。
ゲームとは、こんなにも不自由なものではないということだ。
オンライン化されたゲーム以外にも、世にはゲームがたくさん存在している。
トランプや将棋、人生ゲームのようなボードゲームは最たるものだ。
リアルの世界で遊ぶ選択肢が残されている。
家族連れがファミレスで食事をとるような、そんな穏やかなゲームの世界へ行くことだ。
友達と顔を合わせて遊ぶ、コミュニケーションのゲームだ。
私は、そのようなゲームを勧めよう。
きっと、楽しいゲーム体験に出会える。