上司と部下、距離が縮まる
暗いフロアに人影が入ってきて、私はとっさにPCのウィンドウを閉じた。
「遅くまでお疲れさまです。これ、どうぞ」
現れた田山は、コンビニのレジ袋を差し出した。
誰もいなくなったフロアで、私は最後まで仕事を片付けていた。おそらく、病院で検査をして、処置を施してもらうためにしばらく休みをとることになるだろう。そのために残業をして、目途がつくところまでの仕事は終わった。
それから、どこの病院にかかるかを検索していたのだ。おそらく外科でいいとは思うが。
そもそも、猫耳は突発的にできたものだから、腫瘍という位置づけでいいのだろうか。そうなると整形外科。だが見るからに耳であり、元の形状に整えるということなら形成外科か。はっきりと分からず悩んでいた。
いくつかの病院を回されるのだけは最も避けたい。となると総合病院まで行くしかない。
などといったことを調べており、念のために動物病院の画面を開いていたところに田山が入ってきたのだった。
「田山くん。どうしたんだ」
「私のせいで、申し訳ありません」
そう言って田山は深々と頭を下げた。
それは、今日の社内コンペの結果についてだろう。残念ながら、私たちのチームは落選したからだ。
「いや、君は悪くない。私の力不足だ。榊原たちのプレゼンは素晴らしかったからな。今後に活かそう」
私たちのチームが選ばれなかったのは、田山のせいではない。彼は十分に仕事をしてくれた。私がしたとして結果が変わったとは思えない。残念だが、学ぶところは多くあった。
そして、皆には悪いと思いつつも、もし選ばれていたとしても今の私ではチームリーダーとしての仕事をこなすことが難しい。短期入院で済めばいいが、正直全く予想もできない。
田山にも悪いことをした。今もこうして負い目を感じさせているのだから。
「ですが、私がもっとうまくやれていれば」
「君のプレゼンは目を見張るものがあった。これに落胆せず、次も頑張ってくれ」
「…………はい」
田山のプレゼンは、緊張は非常に伝わってきたが、ミスもなく間も抜群でスムーズにこなしていたように思う。初めてであのプレゼン力は素晴らしく、彼の伸びしろはまだまだ十分にある。今後は他の仕事も任せていくつもりだ。
「せっかくだから、いただくよ」
わざわざ買ってきてくれたさしいれを受け取ると、おにぎりとお茶、そして冷却シートが入っていた。
「これは……」
「鎮痛剤は良し悪しもあるかと思いまして……そのお姿で帰るのは、ええと、さすがに不格好かと」
不格好さは重々承知している。しかしこの手段しかなかったのだ。
「あ、ありがとう。うん、あとでつけるよ。金曜の遅くに悪かったね、田山くんも早く帰りなさい」
私は視線を逸らしながら、さしいれをデスクのわきにそっと置いた。
「…………主任、朝からずっとその格好ですが、もうそれ冷たくないですよね? 痛いのであればすぐにつけかえた方がいいと思います。よければ、お手伝いしましょうか」
「え」
確かに、痛くないので無頓着だったが、冷却効果はすでに全くない。仕事と猫耳を隠すことばかりに思考が占められ、実質的な部分への配慮が抜けていた。
「いや、実はさっきつけかえたばかりなんだ。だから帰ってから使わせてもら……!?」
のびてきた田山の手は、保冷剤が入っている部分を触り、すぐに離れた。
「…………冷たくありませんよ?」
「そ、そうだったか。気づかなかったな」
田山がにじり寄ってくる。私も立ち上がり後ずさる。
「主任、何か隠していませんか」
「か、隠す? 私が? 何も隠してなどいないよ。ははは」
自然と不自然な笑みがこぼれる。人は誤魔化す時、どうして笑ってしまうのか。冷や汗が流れる。今まで清廉潔白に生きてきたからか、こう後ろめたい感情を上手く扱えない。
「主任の笑ったところ初めて見ました」
「そ、そうかな。私だって笑うさ」
窓際に押しやられて逃げ場のない状況になってしまった。とっさに手をのばされたら、結んでいるだけなので簡単に取られてしまうだろう。
しかし、田山は実力行使に出ることはなかった。
「いつも助けていただいてるので、私も主任のお役に立ちたいんです」
真剣な表情で田山はそう言った。
「君が気にすることじゃないよ。上司として当然のことだ」
「主任! そう全てを抱え込まないでください。私たちは上司と部下の関係ですが、チームでしょう! 私はそんなに頼りないですか? 相談でも何でも、私にできることならします!」
「……田山くん」
部下の気づかいにぐっときてしまった。
私はなんていい部下を持ったのだろう。
感動に目頭が熱くなる。
彼にも負担をかけることになる。プライベートなことに対してこれほど真摯になってくれるのだ。事情を話すべきであろう。
「すまない。そうだな、先に言っておくべきかもしれない。おそらく、私は来週から入院することになるだろう」
「え゛」
田山が聞いたこともないようなにぶい声をあげた。
「む、虫歯ですよね!?」
「それが、実は違うんだ」
「な…………重いん、ですか?」
深刻な顔で聞いてくる。
重いと言えば重いが、説明のしようがない。実物を見せて、彼に何科がいいのかを尋ねてみよう。最近の若者は我々世代とは異なる知識を持っている。もしかしたらさらに良い対処法があるかもしれない。
「驚かずに見てくれるか」
私は一度迷い、そして目を閉じた。
意を決してタオルを取り払う。
しんと、暗いフロアに静寂が染み渡る。
「は? ……え? 猫耳?」
静寂はすぐに田山の声で終わる。
若者は理解が早い。私は随分時間を要したというのに。
「そうだ。見ていてくれるか」
「いや、ちょっと、受けとめられないです……!? 動いた!?」
何かを断りかけた田山だったが、私が猫耳を伏せてみせるとすっとんきょうな叫び声をあげた。やはり驚くもので間違いなかった。
「ああ、これをな、切除しに行こうと思っている」
「…………本物ですか?」
「私は猫ではないから猫の耳ということなら本物ではない」
「そんなこと言っているんじゃないです。……触ってもいいですか?」
「あ、ああ」
私は田山が触りやすいように椅子に座りなおす。
若者は受け入れるのも早い。にべもなく取り乱した私とは大違いだ。しばらく私が休むことになっても田山は問題がないだろう。それより、不安な部下は――――
そんなことを考えていると、突然光に包まれて私は眩しさに目を閉じた。




