猫耳主任、現実に屈する
私は洗面台の鏡の前で仁王立ちしていた。
こういうものは、迷ってはいけないのだ。決心が鈍ってしまう。
キッチンバサミのハンドルに指をかけ――――損ねて手から滑り落ちる。
「ぉあ!?」
刃の部分がわずかに開いたまま、つま先から5ミリ離れた床に突き刺さる。なんということだ、賃貸なのに。
やれやれ、スマホといい今日は私の手が仕事をしないな。
しゃがんで、床からハサミを抜く。今度は左手でしっかり持ち、微振動する右の指をハンドルに通し、強く握る。
ハサミを掲げ鏡に相対すると、私の猫耳は何故かペタンと伏せていた。
仕方がないので、左手で右の猫耳を無理矢理持ち上げ、ハサミをゆっくりと近付けていく。
――――邪魔なものを排除しなくては。
猫耳はつままれている感覚があるので、確実に痛みを伴うだろう。だが耐えるための奥歯は噛み合わさらず、歯の音がガチガチとうるさい。
ハッと気づいて流し台にギリギリまで寄りかかる。出血があるかもしれないからだ。部屋を汚してはならない。
さらにハッと気づく。
待て待て、血が出るのならばスーツはまずい。これは今日のプレゼンのためにクリーニングに出したものなのだから。
私はフーッと息を吐いて、首を左右に振る。
いくら非現実的な状況に遭遇しようとも、冷静さを忘れてはならなかった。非現実的でも、現実に則した行動をとらねば主任たる私は皆に顔向けできない。
現実的に考えれば、ゴミ袋だ。
洗面台の収納棚にある45リットルの透明ゴミ袋を取り出し、頭を出す部分と、両腕を出すための三か所をハサミで切って穴を開けた。多少穴が小さく、ぐいぐいと押し込んで頭を出す。メガネがずれる。
これで問題ないと、私は鏡に映ったゴミ袋を被るスーツ姿の猫耳男を見た。
膝から崩れ落ちた。
「…………私は一体何をしているんだ……」
現実的に考えれば、ハサミなんかで切ったその後の処置ができるわけもない。これほどまでに感触があるのだから、人の耳を切るのと同義だろう。消毒とか、縫合とか、できない。
いや、そもそも。
「痛いのは無理だ」
正直注射すらも苦手である。考えないようにしていたが、考えたらもう手は動かない。
現実的に考えれば、病院で切除してもらうのが一番だ。いや、突然異物が生えたので切除してくださいって言って切って終わるだろうか。
現実的に考えれば、まずは検査だろう。聞いたこともない症例のはずだ。すぐに処置してくれるとも限らない。いや、病院で簡潔するだろうか。
現実的に考えれば、――――今日のプレゼンに間に合わない。
「くそっ、猫耳の処理は後回しだ。とにかく会社に行くことを考えねば」
目的を見誤っていた。そうだ、私は今日絶対に会社に行かねばならないのだ。こんなことに手間取られている場合ではない。
キッチンバサミでゴミ袋を切り裂き、プラスチックゴミに分類。落ちたままのくしを元の位置に戻し、ハサミもキッチンに持っていく。
ソファーに落ち着いたところで、思考を再開。
さて、どう対処する?
このままでは会社へ行けない、隠すものが必要だ。
帽子、会社に帽子などあり得ん、却下。
包帯、部下を心配させてしまう、却下。
カツラ、出し物用のふざけたものしかない、却下。
時間はあまりない。すぐに用意できて、着用していても違和感がないもの。あるわけない。あるわけないが考えろ。何か、何かあるはずだ。
考えられるものなど、あとはもう――――




