「小学生の頃から深大寺が恋の神様ってこと知っていた」
先ほどまで、からっと晴れていた初夏の空だったのだが、だんだん雲行きが怪しくなってきた。
深大寺入口に着くと、自転車を境内の前の駐輪所に停め、足早に本堂へと向かった。
「祐一、ちょっと待ってよ。なに慌てているの?」
「ああ、ごめんごめん。雨が降りそうだから早めに参拝しようと思って」
亜希はワンピースの裾を気にしながら自転車を降り、俺のところに駆け寄ってきた。
栗色の髪をなびかせ、小柄ながらも足取りがしっかりしている。
「だからさー。交通安全祈願って、ここじゃなくてもいいんじゃないの?」
「いや、ここがいい。前から、深大寺に亜希と一緒に参拝に行くって決めていたから」
大阪への二年間の転勤が決まったのはずいぶん前だったが、亜希には何かと言いそびれていた。
つい最近亜希に転勤の報告をしたのだが、「ああ、そうなんだ」と素っ気ない。
亜希は自分より学年が一つ上なのだが小学校からの幼馴染で、中学生の時に同じ陸上部に入り、別の高校に行ってから付き合いだした。
亜希が高校を卒業した後、一度別れたこともあった。
それから二人とも社会人となり、勤めだしてからまた付き合いだした。
寂しがり屋の性格が似ているのは、お互いに気が付いていたみたいだ。
「転勤先って大阪でしょー? 交通安全祈願って言ったって、特別心配するような距離じゃないよ。それに、あっちに行ってもちょくちょく戻ってくるって言っていたじゃない。そのたんびに交通安全祈願するつもり?」
「そりゃぁそうなんだけど、他にもいろいろ祈願したいこともあるからね」
「まあ、祐一がそう言うんなら別にいいんだけどね。私もここは懐かしいから、たまには来たいと思っていたのよ」
深大寺は俺と亜希が小学生の時、ちょうどいい遊び場だった。
自転車で十分くらい掛かるのだが、近所の公園よりも賑やかで、池にはコイやフナやカメもいて、飽きることがない。
それに、なんといっても『ゲゲゲの雰囲気』が小学生の僕らにとっては格好のスパイスだった。
俺たちは古い石畳を歩き、山門まで来た。
古道のすぐわきの小川を流れる湧き水の音が涼しげで、緑の草の匂いに包まれている。
その情趣ある味わいは昔と殆ど変っていない。
亜希もなんだか心地のいい気分でいる雰囲気が見て取れる。
山門にある石段を登る時、ふと目が合った。
亜希は特に意味もなくほほ笑み、俺は亜希の小さな手を取った。
参拝のシーズンというわけではないのだが、相変わらず深大寺には人が多い。
山門を通り境内の中ほどまで歩くと、右手にムクロジの木が生い茂っている。
目の前の本堂では、年配の方が三人ほど参拝し終わったばかりのようだ。
俺は亜希と一緒に本堂に行くと、二人とも示し合わせたように綺麗に並び、一揖して鈴を鳴らした。
お賽銭を投げ入れ、柏手を打つ。祈願の言葉は決まっていた。
俺は亜希に聞こえないように、しかし、しっかりと気持ちを込めて祈願した。深大寺の神様は俺の思いを聞き届けて下さるはずだ。
しばらくして二人とも頭を起こし、帰ろうとしたところで遠くで雷が轟いた。
かと思ったら雷鳴が次第に近づいてくる。
先ほどの曇り空は、その暗さが更に増した。
急に、突然大粒の雨が音を立てて境内じゅうに降り注いできた。
本堂の軒下は広い作りになっているので、流石に雨に濡れることはないのだが、この土砂降りでは帰ることもままならない。
俺たちはしばらく雨が止むのを待つことにした。
「ここまで土砂降りになるとは思わなかった。ごめんな亜希、こんな日に連れ出したりして」
「ううん、いいの。どっちにしろ今日しかお参りできないんでしょ? 大阪行きは明日なんだし」
そうだ、明日の朝、俺は新幹線で大阪に行く。
その前にどうしても亜希に話しておきたいことがあった。
「亜希、こんな時になんだけど、ちょっと話したいことがあるんだ」
「私もよ。ねえ祐一、この雨でちょっと思い出したことがあるの。覚えている? 小学校5年生の時、ここで探検ごっこやったじゃない」
「ああ、覚えているよ」
いや、そんな昔の話じゃなくて、今の俺の話を聞いてもらいたいのだが……。
亜希は少しほっぺを膨らませている。
不機嫌な時の表情だ。
「で、小学5年生の時がどうしたの?」
「……。カッパよ」
「ああ、カッパな」
「『ああ、カッパな』じゃないでしょ? 大黒天様が祭られているお堂の横よ。あの薄暗いところ。そこを指さしながら、『カッパが出てくるかもしれない』って、あなたに散々怖がらされて、私、泣いちゃったのよ」
「ああ、仲間内で妖怪を信じていたのはお前だけだったから。あの時の亜希は俺より学年が一つ上のくせに可愛かったな。北門の所にある小さい祠を探検しに行ったときも俺の袖をしっかりと掴んで離さなかったもんな」
「ああーっ! 思い出した! あの暗い御堂に行った時、『小豆洗いに食べられるなよ』って言うもんだから、私その日は怖くてこわくて夜寝付けなかったのよ!」
亜希は俺の方を向き、唇の端を噛みしめながら、ほっぺを膨らませている。
その時、初老の男性が傘をさしてお参りに来た。
名前は知らないが近所でよくお見かけする方だ。
俺が学生だった頃、よく夫婦で手をつないでお散歩されていたのを見かけたことがある。
お互いに知り合いというわけではないのだが、ご近所様ということで、いつしか会釈するようになっていた。
奥さんはずいぶん前に先立たれたみたいだ。
ご老人は参拝をすませると、俺たちに話しかけてきた。
「こんにちは、きみたちも参拝の時期ではないのに、ここに二人して御祈願に来たのかね。いやいや、私ごとながら、昔を思い出してしまいましたよ」
ご老人は遠い昔を懐かしむような目で、本堂前にある常香炉を見つめた。
「妻と一緒に来たのは、私たちが結婚する前でしたよ。今日みたいな天気になってしまったのを覚えています……。いや、失礼しました」
ご老人はそう言うなり、深々と頭を下げると、山門の方へと去って行かれた。
雨はいつの間にか止んでいた。
「あっ、祐一。雨、止んだね」
「ああ、通り雨だったね……。そうだ、亜希」
「なによっ!」
「もう怒るなよ。小学生の時は悪かったよ。だってお前があんまり妖怪のことを信じているから、可愛くてかわいくて」
亜希はまた、ほっぺを膨らませて俺を睨み付けている。
「ごめんごめん、東京の思い出って言ったら大袈裟だけど、蕎麦でも食べて帰るか。深大寺蕎麦って有名なんだよ、地元のくせにあんまり食べたことないけどな」
「なによ、東京にはちょくちょく帰ってくるって言っていたくせに。でもいいわよ。私、深大寺のお蕎麦大好きだから」
俺たちは小川沿いの小道を、蕎麦屋に向かって歩き出した。深大寺界隈は蕎麦屋が軒を連ねている。
雨上がりの青葉の匂いに混ざって、蕎麦出汁の香が鼻先をくすぐる。
「あっ、そうだ、祐一。さっき境内で私に話したいことがあるって言っていたでしょ。なに?」
「ああ、深大寺の神様に関係があることだよ」
「?」
「先ほどのおじいさんも、結婚する前に二人で御祈願に来たって言ってたね。たぶん、婚約される直前に来たんじゃないかな」
「どうしてわかるの?」
深大寺の小川は先ほどの雨で水量を増したようだ。
蕎麦屋の前にある水車が勢いよく回っている。
「参拝の時期じゃないのに、二人で御祈願に来たのは、俺たちだけじゃなかってことだよ。さて問題です。亜希、深大寺って、何の神様でしょう?」
「うーん。あっ! 縁結びじゃなかったっけ?」
「そう、正解! 深大寺は恋の神様です。俺がさっき言いかけたことは、その神様と関係があることです」
「祐一」
「亜希、大阪への転勤は二年間だ。俺がさっき深大寺の神様に祈願したこと、お前に直接言うよ。亜希、二年後、転勤から帰ってきたら、俺と結婚してくれ」
「……祐一。私は小学生の頃から深大寺が縁結びの神様ってこと知っていたのよ。だから、あなたと一緒にこの神社で遊んでいたの」
「えっ?」
「祐一。わたし、いつまでも、ここで、この深大寺で、待っています」
雨の上がった深大寺の小道に佇む二人。
広い境内に夕日が差し込み、雨に濡れた草花がきらきらと輝いていた。