裂け目の君
あるときから、地面の裂け目が見えるようになった。赤黒く瞬く向こう側に、黒ずくめの誰かがいて、僕を見上げ、歯を見せて、物も言わずに笑うのだ。
君が見えるのは、いつも、僕が下を向いているときだった。誰かに怒られているときや、自分の過ちを指摘されたとき、相手をまともに見られなくて、いつも俯いてしまう。すると足下に君が現われ、大きな目をして僕を見る。
僕の目から涙がしたたり落ちたとき、裂け目が一際大きくなって、君の腕が僕の足首に触れた。痺れるような感触があって、驚いて脚を退けた。君は舌打ちして、裂け目の向こう側に消えていった。君は僕を狙っているのだ。やっとのことで気づいたときは、目の前で怒っている上司のことも忘れ、胸の内から恐怖を感じた。
君に隙をつかれないように、僕は無理矢理背筋を伸ばした。僕の周りには苛ついている人が多かったが、それらに乗じて苛つくことのないように、深呼吸を習慣とした。鈍重と思われても良いから、頭に血が上るのも自制した。やけを起こせば君に見つかる。弱みを見せたら掴まれる。裂け目をみないよう、足下から目を逸らし、触れてくるものは風だと信じることにした。
あるとき、深夜に帰宅途中の僕の車に鈍い音が響いた。慌てて外に出てみたら、小汚いウサギが転がっていた。懐が裂けている。飛出してきたところを僕が轢いたのだろう。微かに動いていたが、もう何分も持つまい。僕は車の中から土を掘れそうなものを探した。ウサギを埋め、簡単な墓を作るつもりでいた。
常備してある傘を引っ張り出して、使えるかどうか首を傾げながらウサギを振り向くと、その脚が黒ずんでいた。思わず悲鳴を上げたが、どうにもおかしい。死んでいるといったって、そう易々と腐り始めるわけがない。匂いもしない。蛆も見えない。ウサギは脚から腹へと黒くなり、頭も染まり、とうとう鼻の先まで黒くなった。全身すでに黒い色。死んだものかと思ったら、途端にウサギは跳ねた。腹の傷は癒されていた。飛び跳ねていくその姿はまるで別のウサギのようだった。
茂みの中から顔を出した、そのウサギの両目が僕を捉えた。赤黒く光る双眸は、裂け目の向こうにいる君のそれと良く似ていた。
なるほど君らは、僕らが死ぬとき、僕らの代わりになるらしい。
ウサギはすぐに見えなくなった。車に入り、エンジンを入れる。月明かりしかない前方に、赤い瞳が写っていた。君はそこから僕を見て、大袈裟に頷いていた。あたりだといいたいらしい。邪魔だと伝えて、車を進めた。
いつでも君に狙われていることが最初は怖かった。しかし、怖がってばかりの状態にも、いつしか心は慣れていく。僕は背筋を伸ばすのをやめた。叱られたり怒鳴られたりするたびに下を見て、裂け目の君と手を振り合った。君はそれほど怖くないのかも知れない。僕が誰の目も見たくないときに、君の目は心を落ちつかせた。君に足首を掴まれるときに胸が高鳴り、それが途絶えると溜息をついた。裂け目の向こうに片足を突っ込んでみたときもあった。温かさと冷たさの感じられる空間に、今までにない体験を期待したが、結局は今のところ、何も起きていない。
一際大きなトラブルが、仕事の中で勃発した。大勢の人を巻き込んだくせに、責任者である僕の上司は体調不良を訴え雲隠れした。全てのしわ寄せは僕にきた。慌てて解決にむけ着手したものの、にわか知識でどうにかなる代物ではなく、あっという間に容量オーバー。何気なく歩いていても、足下から揺らぐ心地がした。
夜更けの帰り道、溜息をつきながら運転を続けていた。片道三十分の道はそれなりに遠い。今日に限っては、街灯も疎らな景色が心細かった。苛立ち混じりにハンドルを叩いていたが、そのうち思索に駆られてやめてしまった。頭の中では今日浴びた罵声が幾度となく繰り返されていた。
もう終わりにしたい。そう思ったとき、対向車の迫るのが見えた。大型トラック。運転手は眠そうな顔をしている。僕は咄嗟に君を思った。たとえ僕が死んでも、君が僕の代わりになるならば、大して迷惑もかからないだろう。思いつくやいなや、ハンドルを切り、僕はトラックの前に繰り出した。
何もないところでずっと黒い壁を見ていた。シミがあるのかないのか、目を凝らして考えても、どうにも何も見えてこない。ぼんやりしていると、壁の合間に裂け目が見えた。地面と平行に開くそれの向こう側に君を探した。しかし、そこにあるのは柔らかい色合いのカーテンと、真っ新なシーツ。鼻まで覆う半透明の呼吸器。
僕は病室にいた。動こうにも、思うようにいかない。何かのチューブが僕の身体に巻き付いていた。おあつらえむきに心拍音がする。頭のそばに鳴っている音が僕の心臓を逸らせた。僕は死にぞこなっていた。
天井を見上げ続けた。声はまだ出そうにないが、そのうち戻ってしまうのだろう。溜息だけがもれてくれる。
すると、天井に裂け目が生まれた。虹色を背景に、黒い僕が身を乗り出した。重力に逆らって、壁に這うように君が現われ、黒い指で僕を見つめ、歯を見せた。楽に変わろうとした僕を嘲弄して憚らない。ようやく君が見えなくなっても、低く棚引く笑い声がいつまでも僕の耳を衝いていた。