episode8
昔見た映画の話。それは恋人同士が一枚のガラスを隔てて会話をするというものだった。ふたりはとても幸せそうに笑っていたけれど、けして触れ合うことが出来ない。抱きしめたくとも、その髪を撫でることも。そんなふたりは幸せそうだったけれど、世界で一番不幸なように私は感じた。
「香織、今日の天気は晴れだよ」
「まだ寒い?」
「うん。でもだいぶ暖かくなった。もうすぐ春が来るんだよ」
細すぎる手首、白すぎる肌は典型的な病人の証のようだ。私がほほ笑むと信ちゃんもやさしく笑う。陽だまりみたいな信ちゃんの腕は日焼けして色黒く、浮き出た血管から男の人のにおいがする。
けれど私たちはいつか見た映画のように決して触れ合うことができない。
「退院できたら桜を見に行こうか」
「そうね。お弁当を持って」
そんな日が絶対来ることないということを私たちは知っているけれど。まるでHow are you?とお決まりの挨拶をするみたいに同じことを繰りごとのように重ねあう。私が外に出たいといえば信ちゃんはいつも決まって困ったように笑う。それがたまらなく、切ない。
外の世界に出てはいけないのだと言われてからもう何年もの月日が経った。光を浴びてはいけない、外の空気を吸ってはいけない。私の免疫力は年々減少している。こうやって無菌室に閉じ込められていれば長く生きられるけれども、それは健康な人の一生と比べてあまりにも短いものである。窓ひとつない、広くも狭くもない個室の中で、私は誰に触れることもなく一生を終える。それもきっと、そう遠くはない未来に。
「また明日も来るから」
手を振る信ちゃんを見送ることができるのはあと何回だろうか。あと何年?きっと一年足らずで私は死ぬ。運命を皮肉ることもない、限りある命これがたぶん私のすべてなのだということも、頭では理解している。それでも。
「信ちゃん」
信ちゃんは振り返るとん?と首を傾げる。
「信ちゃんとデート、したいな」
「そうだね」
デートしようか、そんな一言は幸福で残酷だ。触れたい触れたい触れたい触れたい。ガラスの向こうの人に、触れたい。
「明日、明日デートしよ。絶対、絶対約束だからね!」
***
信ちゃんは私の世界を色づける唯一のひと。
孤独で暗い闇に陥りそうになってもその右手が私を救い出してくれる。たとえ直接触れることが出来ないとしても。
「香織、端に寄って」
大きな釜を持って透明なガラスを叩き破る。強化ガラスなのかヒビは入るもの、なかなか割れてくれない。
「信ちゃん!」
負けじと私もあらゆるものをもってガラスを叩き破ろうとした。ナースの悲鳴が遠くから近づいてくる。やめなさい!やめなさい!離せ離しやがれ!信ちゃんの泣いたような声。
バリ、と想像よりずっと鈍い音を立ててそれは床に崩れ。
「香織!」
数年ぶりに触れた肌は暖かくお日様のにおいがして。
それと同時に私の肺は一気に締め付けられ呼吸もできないくらいそれは苦しくて。ああ自分が死ぬのだと不思議と冷静に思った。けれど、そうだとしても。世界は明るいまま。私の世界はたぶんきっと。
息が止まってもこの人が好きだと思った。
たぶん私は今世界で一番幸福だ。